〔論文自著紹介〕

「旅は本質的に観想的である」

−三木清「旅について」におけるアリストテレス受容とその意義−


加藤喜市

※掲載論文本体は、こちら


気軽に旅することの難しい近ごろの状況だからこそ、かえって人は旅という現象を強く意識するのかもしれない。旅とは何か、人生にとって旅はいかなる意味をもつのか。哲学・倫理学者が旅を主題的に論じたやや珍しい文章のひとつが、三木清の「旅について」である。

1.論文の概要

古代ギリシアの哲学者アリストテレスの思想を、近代日本の哲学者である三木清がどのように読解し、また、みずからの思索を深めるに至ったのか。本論文は、三木清の『人生論ノート』所収の哲学的随筆「旅について」を取り上げて、そこに見られるアリストテレスからの影響を検討するものである。三木は「旅は本質的に観想的である」、「旅においては我々は純粋に観想的になる」と語っている。アリストテレスに由来すると思われるこれらの表現によって、三木は何を意味しているのか。その哲学・倫理学的意義はどこにあるのか。


「旅について」の前半で、三木は、(1)旅は(出発点や到着点ではなく)「過程」である。(2)旅は「観想的」である。(3)我々は旅において「驚異」を感じると述べている。これらの諸点については、三木のアリストテレス読解に由来すると思われる。というのも、アリストテレスのテクスト内にそれぞれ対応する議論が認められるからである。すなわち、『自然学』第3巻において示されるアリストテレスの運動の定義は、運動が「過程」であることを意味する。また、アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第10巻で、人間にとっての究極の幸福は「観想活動(テオリア)」であると述べており、さらに『形而上学』Α巻では、「驚異」が人々を哲学に誘うと主張する。


以上のように、「旅について」におけるアリストテレスからの影響は顕著だが、三木の思想は彼独自のものである。アリストテレスの議論は通常、「過程」よりも「目的(テロス)」を優先する傾向にあるが、三木は敢えて運動の「過程」という側面に焦点を当てている。これは、旅と同様に「人生」も始点から終点へ、すなわち生から死へと向かう過程であり、両者が同じ構造を有していると三木が考えたからだろう。


アリストテレスと三木の違いは他にもある。アリストテレスは「観想的生」こそが人間にとって最善の幸福として賛美したが、三木はそうではない。「行為」や「制作」を重視する晩年の『構想力の論理』からすれば、三木は「観想」に対して否定的なはずである。だが、「旅において」では観想への批判は見られず、少なくとも中立の立場をとっている。それでは、ここでの観想は何を意味するのか。参照元であるアリストテレスの「哲学」や「驚異」に関する記述からすると、おそらく三木は「観想的」という表現を「哲学に通じる」という意味で用いているだろう。旅は、私たちに〈哲学のための契機〉を与えてくれる。


観想というテーマに関連してさらに、アリストテレスの『形而上学』等で語られる神の観想の議論では、観想活動が「驚くべき快楽」を供するとされる。三木の言うように、我々が旅において「純粋に観想的になり得る」のであれば、(永遠を生きる神とは違って)人間はこの神的観想と快楽に「人生」という旅の間だけ与ることができるのである。

2.論文の舞台裏(執筆者によるコメント)

(1)アリストテレス倫理学と日本倫理思想史


人間にとって最高の幸福であるのは、観想的(哲学的)な生き方か、それとも実践的(政治的)な生き方か。アリストテレス倫理学上の大きな問題である「観想と実践」の関係に対して、少し違った角度からアプローチする必要を感じていました。ちょうどアリストテレス倫理学に関する博士論文を提出し終えたタイミングということもあり、今後の研究方向を探るためにも、だいぶ思い切って「日本倫理思想史」という領域に考察の場を移してみたというのが、本論文執筆の経緯です。


この論文については、古代ギリシア哲学を専門とする者が敢えて少しだけ「越境」をして、日本哲学を論じてみたというかたちになります。あくまでアリストテレス研究者による解釈であり、三木の思想の一側面を取り出したものに過ぎません。とはいえ、少なくとも、古代ギリシア哲学から他分野へ向けての「問いかけ」になったのではないかと思います。今回の執筆を通じて、複数の領域に跨がる「倫理思想史」や「比較思想」といった研究は、専門間の対話へつながる可能性を大いに秘めていると改めて感じました。

(2)新しい応用倫理学としての「観光倫理学」


三木の「旅について」を取り上げたもう一つの理由としては、「観光倫理学tourism ethics」の認知度向上のためという狙いがあります。立教大学観光学部で「哲学」を教え始めてから、毎年の講義では旅や観光といったトピックを積極的に取り入れています。これまで、旅する哲学者プラトン、カントと観光美学、デリダの歓待論といった内容に加えて、和辻の『古寺巡礼』や『風土』、それから三木の「旅について」などを、折に触れて学生に紹介して来ました。今回の論文は、それらの成果の一部をまとめたものです。


コロナ禍における観光業の危機的状況や「Go To トラベル」、「東京2020オリンピック・パラリンピック」などを機に、旅や観光といったテーマの取り上げられる機会が、以前にもまして増えてきたように思います。関連するさまざまな社会の問題を論じる前提として、「そもそも人間にとって旅とはどのような営みであるのか」、「しかるべき観光のあり方とはいかなるものか」など、哲学・倫理学からの考察の必要性を感じています。最近では日本でも、観光倫理の研究が少しずつ増えて来ましたが、未だ充分とは言えません。その重要性にもかかわらず着目されることの少ない「観光倫理学」の今後に、本論文の試みが僅かなりとも寄与することを願って……