国内においてシモーヌ・ヴェイユについての哲学研究は1960年ごろから近年まで継続的になされているが、教育哲学者による研究はまだ限られたものしかない。
ヴェイユの哲学が教育哲学の中であまり議論されてこなかった理由はいくつか考えられるが、その主要な理由の一つはヴェイユが苦しみや不幸を美化しているのではないかという疑念を持たれていることである。実際ヴェイユの哲学においては、苦しみを通して自己を無にする必要が説かれている。その一方、刊行されている伝記をあたっても、彼女が自己犠牲を厭わず、不幸を求めて身に受けていたかのような印象を受けないでいるのは難しいし、最期は自殺ともみなされかねない死を遂げており、そうした人物像が上のような疑念を深めてしまっている。
本発表ではヴェイユは本当に不幸を美化しているのかを問うが、考察にあたって特に関連性の高いと思われる『不幸』と『脱創造』の二つの概念を取り上げる。考察の結果、ヴェイユはかなり限定的な範囲でのみ不幸を積極的に捉えているのであり、ヴェイユ哲学は不幸を美化するものだとする見方は拙速で、妥当なものではないと結論する。この点を明確にすることで、彼女の哲学が教育哲学の中でより広く議論されるための部分的な地ならしができればと期待している。
当日は、指定討論者である池田華子会員(大阪公立大学)にヴェイユ研究の視点から、安喰勇平会員(神戸市外国語大学)に受苦的な経験と思想形成の視点からコメントを頂戴し、その上で企画者の依田及び山口より、教育学のパトス論的転回の議論から論点を提示し、議論を重層的なものとすることで、教育哲学における不幸と受苦的経験の教育的意義にかかわる研究の展望を参加者と議論したい。