劇団前進座
『さんしょう太夫』
劇団前進座
『さんしょう太夫』
第222回例会
藤沢市民会館大ホール
3時30分開演
観劇後に寄せられた感想
まず、冒頭のシーンに圧倒されました!! 思わず背筋がゾクッときました。説教節をはじめて見聞きしましたが、下層民衆達の切なる願い、魂の叫びのようなものを感じました。悲しく、でも美しく、力強かったです。そして、舞台上で俳優さん達が楽器を奏で、語る、それが時にはBGMとなって芝居が行われている事が素晴らしかったです。特に、銅鑼と締太鼓の音が印象的でした。
皆さんのお芝居は声もよく通り、聞きやすかったです。
最初と最後の文字の中に説教師の人たちが入り込んでいくような演出、素敵でした。
古来の楽器がとても珍しくでもその音色はどれもお芝居にピッタリで引き込まれました。照明も光と影のコントラストがいいなぁと思いました。お話は残酷な場面では目を瞑りたくなることが何度もあり理不尽な現実が作り出した場面にショックでした。なかなか自分からは選んで観ることがなかったであろうお芝居だと思いますが、観ることが出来てとても良かったです。今回はとても声が通って台詞がよく聞き取れました。さすが前進座さん❗️
舞台上で、楽器演奏・説教節(コーラス)時に着替えがあり、大きな舞台の変化はなかったにもかかわらず、たくさんの場面を想像することができました。セリフも力強く現代風で理解しやすく古典でありながら現代的でもありその二つの融合がむしろ新しいスタイルに感じられました。人格者であるべき上位階級が人間として貧しい精神を持ち合わせる一方で、虐げられ卑屈になることも当然である下位階級の人々が、配慮ある豊かな精神を持ち重要な役割を演じる。その一種皮肉な社会構図は現代にも通じ、考えさせられました。劇団の方々の確かな演技に感激し応援し続けたいと強く思いました。(フォンターナ)
今回の「さんしょう太夫」は、冒頭より(エンディグも)描写的な照明を用いた斬新な演出で目を奪われました。
「安寿と厨子王」の話は、昔話として母親から聞かされた記憶はおぼろげにあり、又、テレビでも見ていたと思いますが、、随分前のことで内容はすっかり忘れておりました。
しかし、おぼろげな記憶ながら焼き印が押されなかった、あるいは、姉だけが受けた記憶があり違和感があり、後から調べてみると「山椒太夫」は森鴎外の作品であり、原作となった昔話(説経節)が存在するとのこと。又会報から脚本のふじたあさや氏の言葉をみると、森鴎外作品ではなく、説経節から脚本を直接おこしたと記載があり、より原作に近いようです。どうも、森鴎外は折檻などの残酷シーンは排除していたようですが、原作およびこの作品には表現されている違いがあると知りました。
焼き印は人を家畜として扱う象徴であり、奴隷制は外国の話と思っていましたが、日本でもそうした扱いがあったと改めて知らされました。
しかしながら、昔話だけではなく、今も残酷、残忍、理不尽はどこかに存在しているように思われます。世界を見れば戦争は絶えない、戦闘に関係のない女子どもは犠牲となり、理不尽な扱いを受けていると想像できます。あんじゅとずしおうより惨めな子ども達も知らないだけで恐らく居ると思います。
日本にいる私が出来ることは、経済的な人道支援だけかもしれませんが、しかし、日本だけ考えた時に焼き印などの見える残酷でなくても、見えない残酷、理不尽、差別など知らないだけで存在するかもしれません。
あんじゅ、ずしおうにはいつも助けの手を差し伸べる人がいました。こうした助けがずしおうの命を支え、彼は成長し最後のエンディングに繋がったと思います。1億円の寄付は出来なくても、「柴を刈る手助け」「食料を分ける手助け」「追ってからから守る手助け」今出来ることはある。「小さな手助け」が未来に繋がるとこの作品で物語っているように感じました。これと裏腹に、冒頭善を装い偽りの船に乗せた山岡太夫はさんしょう太夫以上に悪であると感じたが、彼らにどうしたらこのような仕打ちが出来るのだろうろ考えさせられます。「善」と「悪」「善を装う偽り」が混在する世の中、あなたはどう生きるのか、どう判断し行動するのかと問うているようにも思いました。(ヒルズの仲間)
私にとって説経節の舞台化という芝居を観るのは初めての体験でしたが、その衝撃度は大変なものでした。説経師たちの厳かな合唱から始まった劇は、そのあとの若い役者さんたちの語り、台詞、歌声など楽器を演奏しながらの力強い声に圧倒されっぱなしでした。さんしょう太夫のもとで過酷な労働、とくにあんじゅとづしおうへの過剰な痛ぶり(友達は辛くて見てられなかった)がひどければ酷いほど、後のづしおうの怒り、虐げられた人々の解放に共感が生まれたのでしょう。善行を積めば佛によって救われる、また悪行を重ねればいつかは報いがやってくるという仏教の教えでしょうか。字の読めない人々に口承で、物語を通して佛の教えを唱い、語った説経師たち、社会の底辺に生きた彼らの物語が日本の古典芸能の源泉の一つではなかったのかと思いました。(百日紅)
前進座「さんしょう大夫」を鑑賞しました。子どもの頃「安寿と厨子王」の物語に親しみましたが、おそらく鴎外の「山椒大夫」をベースにしているお話だったのでしょう、過酷な運命の末にハッピーエンドで締めくくられる物語だと記憶しています。しかし前進座の上演作品は、説教節で語り継がれてきた本来の「山椒大夫」を戯曲化したものであり、私が知っている「安寿と厨子王」の物語とは異なる、中世の暗さに満ちた物語でした。
菅原道真、平将門、崇徳天皇は日本三大怨霊と言われています。いずれも平安から鎌倉にかけての中世に生きた人物で、理不尽の末に非業の死を遂げており、死後、怨霊となって人々を恐れさせました。厨子王は平将門の曾孫という設定ですから、暗黒の中世そのものの世界観がその時代背景からもうかがえます。
日本のみならず、世界的に見て中世という時代は、社会の秩序はなく、科学は未発達、貧富の差、身分差別などありとあらゆる苦難がありました。魑魅魍魎のごとく無慈悲な強者に搾取される、弱き人々の艱難辛苦はいかばかりであったでしょう。劇中の幼き姉弟に襲い掛かる理不尽さ、残酷な運命には見ていて目を覆いたくなるほど辛いものがありました。
しかし、家族愛、隣人愛や信仰といった希望が、彼らを救済していきます。中世の物語には、仏教へ帰依していく人の姿がよく描かれていますが、説教師たちは、自らを含め過酷な人生を生き抜く者のよすがとして、仏の道を説いたのだろうと思います。特に地蔵菩薩の加護により、厨子王が国司になっていく下りは、ほどんどファンタジーではないかと感じました。しかし、その急展開が、説教師に耳を傾ける「救われたい者たち」にとっては、欠かせないのかもしれません。
陰惨な物語は、この国の事実だと思います。その暗黒の中で描かれる希望はお伽噺であり、奇跡だからこそ神々しく感じます。特に私は、佐渡島で厨子王と再会する母の「あんじゅ恋しや、づし王恋しや…」の節に涙を抑えることが出来ませんでした。地獄を見た末にようやく訪れる安息です。人生とは無傷で過ごすことが出来ない、厳しいものだなと感じましたし、人間の業の深さと共に不滅の愛も感じた作品でした。(Backstage2)
説教師がかたり、民衆の生活から作り出された楽器が鳴り響く展開に、胸が打たれました。また、今回プレゼンテイターとして、大役を任せていただきましたが、づし王役の山本春美さんの迫力ある演技に感動もあり、緊張し、お渡しするタイミングを外してしまいました。でも、私にとっては大変貴重な機会となり、感謝しております。(Backstage2)
私は藤沢では観られず最後のエポック中原で観劇しました。前から5番目通路横というとても良い席で観ることが出来ました。舞台に経文のような映像が映っていて、僧衣をまとった俳優さんの衣にも映って、俳優さんが動くとその経文が生きているように動き回って異様な空間を作り出していて感動しました。同じ場面が終演間際にも観ることが出来て良かったです。
狂言仕立ての幕開きで始まり進行と共に俳優さんが演技、謠、楽器とめまぐるしく移り変わっていく様子はたゆみない練習のたまものと感心させられました。声もよく通り、省略された舞台装置もよかった。若い俳優さんたちの今後が楽しみです。
前進座100周年記念公演あたりでまた『さんしょう太夫』を観たいと思う。(万華鏡)