帝国歴四八九年六月
帝都オーディン、六月の午後。柔らかな光が街を満たし、風がさわやかに通りを抜けていく。並木の若葉は瑞々しい緑をたたえ、石畳には木洩れ陽がゆれていた。街を行きかう人々の表情もどこか軽やかで、初夏の訪れを楽しんでいるようだ。
その風景にとけこんで、ウォルフガング・ミッターマイヤーと妻のエヴァンゼリンが並んで歩いていた。
「あなた、ウォルフ、せっかくお休みがとれたんですもの。こんなにいいお天気、いっしょに写真を撮りましょうよ」
エヴァンゼリンが歌うように声をかけたが、ミッターマイヤーはおさまりの悪い蜂蜜色の髪をかきまわし、照れくさそうに視線をはずした。
「写真か。エヴァが言うならもちろんそうしたいんだが、おれはどうも写りが……」
「まあ、なにをおっしゃるの? あなたはいつでもとても凛々しくて、見とれてしまうくらいですのに」
屈託のないその言葉に、彼は小さく咳ばらいをして視線を彼女へともどした。妻のすみれ色の瞳に見つめられては、迷う理由などなかった。
「よし、じゃあ撮るか。どこにしようか」
ふたりは緑の美しい公園へ向かい、咲き誇る花々の前でたちどまった。
陽差しをあびた色とりどりの花が風にゆれ、優雅な調べを奏でている。特に目を引くのは、大輪のシャクヤクだ。淡いピンクや白の花びらが幾重にも重なり、陽の光を透かしてやわらかく輝いている。その甘く繊細な香りがそよ風にのって漂い、ふたりをやさしくつつみこんだ。
「なんてきれい!」
エヴァンゼリンは感嘆の声をもらし、そっと花に指先で触れた。彼女のクリーム色の髪が、花々の色と響きあうように輝く。その身のこなしは出会ったころとかわらず軽やかだ。ミッターマイヤーは妻の動きに見とれ、つい口元がほころぶ。愛おしさが湧きあがり、彼女の肩を抱き寄せた。ふたりの視線が合うと、言葉もなく、引き寄せられるように唇が重なった。
そこへ通りかかった老夫婦が、声をかけてきた。
「おふたり、とてもお似合いですね。ご夫婦ですか? 撮ってさしあげましょうか?」
「ええ、お願いします!」
エヴァンゼリンは朗らかに答え、老婦人が言った。
「では、奥様はこちらにすわって……ご主人はお隣に立ってくださいな」
エヴァンゼリンが芝生に腰をおろすと、薄いピンク色のワンピースの裾が緑の上でやわらかに広がった。
「そうそう、それからご主人、もうちょっと奥様の近くにね。そう、もっと」
ミッターマイヤーは一瞬口ごもり、勇将らしからぬぎこちない動きでエヴァンゼリンのそばへ寄った。数百万人もの兵を率いる立場にありながら、通りがかりの老婦人に指図され、妙に居心地が悪くなる。一方でエヴァンゼリンはその場にぴたりとおさまり、聖母のようなまなざしで夫を見つめていた。ミッターマイヤーは、息をはくと姿勢をただしまっすぐ前を向いた。
老婦人の合図で、シャッターが切られた。初夏のそよ風が吹き抜け、ふたりの幸せな瞬間が一枚の写真に刻まれた。
「すてきねえ。新婚さんは仲がよくていいわねえ」
老婦人がうっとりしながら言うと、
「本当だね。見ているこちらまで幸せになる」
と老紳士もうなずいた。
エヴァンゼリンは頬を染め夫を見上げた。すみれ色の瞳と彼のグレーの瞳の視線が合った瞬間、ふたりのあいだに何かが通いあう。いたずらを仕掛けるように、笑みがこぼれた。
「結婚してもう四年になるんですのよ」
エヴァンゼリンが打ち明けると、老婦人は目を丸くした。
「まあ、そうなのね。ご主人が奥様に夢中なのが伝わりますよ。私も夫にそんなふうに見つめてもらいたいものだわ」
「おいおい、もちろん今でもそうだよ」
老紳士はそう言うとそっと老婦人の手をとった。
「君と歩む時間は、今もこれからも、ずっと宝物だよ」
「まあ、あなたったら」
ふたりは寄りそいながらゆっくりと歩き出した。
ミッターマイヤーとエヴァンゼリンは、その姿を並んで見送りながら、自然と指をからめた。
「ウォルフ、わたしたちもあんなふうに年を重ねていけるかしら?」
「もちろんだとも。エヴァ、君と一緒だったら、どんな未来だって」
誰にも急かされることなく、ただひとつの答えのように、唇がふれた。
公園を出たふたりは街の雑貨店をめぐりながら、写真立てを探した。
エヴァンゼリンが真剣な表情で棚をながめる。ミッターマイヤーはそんな彼女の横顔を見守りながらも、ひとつの写真立てに目を留めた。
「エヴァ、これなんかどうかな」
それは木の風合いが優しく、シンプルながら品のあるデザインのものだった。
「これにしましょう」
「そうだな、ではふたつ。ひとつはおれの執務室におこう」
「おそろいですわね」
こうして選ばれた写真立てには、ふたりの愛とぬくもりがつまった一枚が収められた。
新帝国歴ニ年
戦艦「人狼」にあるミッターマイヤーの執務室。そのデスクの片隅に、大切に置かれた写真立てがあった。そこには彼と妻が並び、幸せそうにほほえむ姿が写っていた。
戦略会議が終わり短い休息の時間、彼は写真立てを手にとり、指先で優しくなでた。写真越しでもぬくもりを感じるかのように、そっと目を細める。ふたりが離れてから、もう一年近くがたっていた。
一方オーディンの自宅でも、暖炉の上に、同じ写真立ての同じ写真が飾られていた。エヴァンゼリンはそれを両手で包みこんだ。
「ウォルフ、お元気ですか? どうかご無事で帰っていらして……」
彼の香りを思い出すと、恋しさが胸を締めつけ切なさがあふれそうになる。けれども写真の中の彼のまっすぐなまなざしが、すこしだけ心を落ち着かせてくれた。
「こんど帰ってきたら、ずっとそばにいて。もう、離さないでくださいね」
まるでふたりが会話しているかのように、遠く離れた場所で同じ思いを抱く。ミッターマイヤーは写真の中の妻を見つめながら、囁いた。
「必ず帰るよ、エヴァ、君のもとに。もうすこし待っていてくれ、もうすこしで戦いのない世の中になる。そうしたらずっと一緒にいよう」
戦場の厳しさも、夜の孤独も、想いは超えていく。同じ写真立てに収められた一枚の写真が、ふたりの絆を静かにつないでいた。