遊び中心保育の意義3 名もなき遊び
平成28年7月20日号
平成28年7月20日号
ふと気づくと、部屋の隅にしゃがみこんだ子供が熱心に何かをいじくりまわしていることってありませんか。取るに足らない、くだらない、名前を付けようにも付けがたい。それが名もなき遊びです。子供の遊びの中でも、とりわけ教育から遠いところにあると思われているものです。
ところが、一日の生活の中で子供がもっとも多くの時間を費やしているのが、この名もなき遊びです。
例えば、年少児のS君。枯葉をひとつかみして、すべり台の上からまいてみました。枯葉はすーっとすべって下に溜まります。おもしろいので、これを何度も繰り返します。
それを見ていたわたしは、思いつきでおもちゃの自動車が入ったカゴを持ってきました。すべり台の近くに置きます。S君の目に留まりました。おもちゃの車をすべらせてみます。勢いよくすべり、ジャンプして遠くまで転がっていきます…
「枯葉をすべり台に置いたらどうなるだろう」「なぜ車のほうが速いのかな」遊んでいるS君の心に芽生えていた好奇心や疑問、これが実はあらゆる「学び」を起動させる「未知なるものへ向かう探究心」です。名もなき遊びというのは、幼い探究心の発露なのです。
赤ん坊でも大人でも、古代人でも現代人でも同じです。この探究心こそが、人類がジャングルの木から降りて、月へ到達するほどの高度な文明を築き上げた秘密だと言って差し支えないでしょう。
小学校にあがれば、大人が知識を教え込むことも必要になってきます。子供の主体性にまかせるだけで十分な内容を学習するのは不可能ですから。しかし、学ぶ上で一番はじめに必要となる好奇心や疑問、つまり「未知なるものへ向かう探究心」だけは、教え込むことによって芽生えさせることはできません。
刈り取るのも伸ばすのも大人次第です。幼い探究心を抑え込むのはとてもたやすいのです。「そんなくだらないことよしなさい」「もう汚れるからやめて」子供のためによかれと思い、躾や教育のつもりでしていることが、学習への意欲や知的好奇心の芽まで摘み取っているとしたら、こんな愚かなことはないでしょう。
何も気負う必要はありません。まずは、子供の興味や驚きに寄り添うところから始めてみましょう。子供と一緒に地面にはいつくばり、空を見上げましょう。そこから浮かび上がってくる「学び」が必ずあるはずです。
子供のしていることに目を凝らしてみましょう。くっきりと見えてくるはずです。わたしたちの人生の営みは、ほんとうは名もなき遊びの延長線上にあったのだということが。