人として生まれたからには、最大限に、その生を満喫(まんきつ)すべきです。
そしてそのためには、自分が嫌いであってはなりません。
自分との出会いが、生涯をかけた、最高の出会いでなければなりません。
まずは自分の存在に感謝し、自分を愛しまなければなりません。
それは自分を生み出し、生きさせている環境に感謝し、愛しむことです。
それはまわりを、思いやることです。
まわりを優しく見るということです。
優しさには、強さが必要です。
そして強さには、秩序が必要でした。
秩序は、あなたをがんじがらめに縛(しば)りつけることではありません。
あなたのまわりを整理整頓して、きれいに見やすくするということです。
弱く、ほころびかけたところを見つけ、修繕(しゅうぜん)しやすくすると
いうことです。
あなたの行くべき道を、明らかにするということです。
気づかずに過ごしてしまっていた、生きる爽快を全身で感じるということです。
解き放つべき自由を守る、それを明らかにするのが秩序です。
まわりに感謝し、まわりを思いやることが出来るようになったとき、
そこに「慈愛(じあい)のシステム」が生まれたことになります。
そしてそれは、本能との葛藤(かっとう)となります。
本能とは、基本的に自己中心的なものだからです。
本能に、種族への「愛」はあっても、「慈愛」はありません。
この葛藤で問われるのは、「自分は何のために生きているのか」と
いうことです。
本能のままに生きるのなら、「慈愛」など必要ありません。
人を思いやっても、それは必ず、自己中心の見方になってしまいます。
結局、他人のことはわからないのです。
親切が、他人には「おせっかい」かもしれません。
そして、自分を犠牲にし過ぎるのも、不自然です。
人は自分が自己中心なことを自覚し、そして思いやることが必要です。
自分をも他人をも、思いやるのです。
そうしなければ、誰も近づいてくれません。
人は、好きになるために生きているのです。
人は、何かに夢中になり、何かを愛するために生きているのです。
しかしそれは、自己中止的な愛、見返りを求める愛ではいけません。
他と調和する愛、他と共鳴(きょうめい)する愛でなくてはいけません。
その愛が、「慈愛」です。
「慈愛」は人を近づけます。
「慈愛」は、「出会い」を呼ぶのです。
人は、自分と自分のまわりの環境の、明日のために生きているのです。
それは明日、最高の出会いがあるかも知れないからです。
明日の出会いは、自分とかも知れないし、他の人とかも知れません。
出会いは、素晴らしい爽快(そうかい)を、あなたにもたらすでしょう。
人は、「出会い」のために生きています。
素晴らしい人は、素晴らしい人や出来事と出会います。
出会い、そして好きになるのです。
静かに好きになるのです。
そっと夢中になるのです。
優しく愛するのです。
そして、尊敬します。
「出会い」を疑ってはいけません。
出会った自分を信じるべきです。
出会いは、生命神の志向への導きです。
出会いのために、いつも扉を開けておかなければなりません。
扉が開いていても、中の部屋が明るく、きれいに片付いていなければ、
誰が、訪れてくれるでしょう。
気持ちよくもてなしてくれそうにないなら、誰も入ろうとはしないでしょう。
風通しをよくし、人を受け入れる準備が必要です。
それが、「慈愛のシステム」です。
「慈愛」は「潤滑(じゅんかつ)油」です。
環境という装置を、潤滑に機能させます。
油が切れれば、装置はきしみ、動きが鈍くなり、やがて破損(はそん)します。
「慈愛」の少ない人は、油切れの人です。
すぐにトラブルメーカーとなり、貧しい人です。
油切れの人は、あなたをも非難するでしょう。
あなたの「慈愛」を、あざけり笑うかもしれません。
あなたの「慈愛」を無視するかもしれません。
あなたを利用しようとするでしょう。
しかし、怒ってはいけません。
油をさしてやればいいのです。
それが「慈愛のシステム」です。
「慈愛」はいつか、人に通じます。
通じないとしたら、なんと寂(さび)しい世界でしょう。
なんと殺伐(さつばつ)とした社会でしょう。
しかし、世の中は、そんなに寂寥(せきりょう)でも殺伐でもありません。
「誠意」は必ず通じます。
すばらしい出会いは、簡単で、そして必ず起こります。