今までの内容をふまえて、幸福についてまとめます。
生き物は命を繋(つな)ぐためだけに生きています。
命を繋ぐことに目的はありません。
あてもなく生き物は、命を繋いでいきます。
人もまた同じです。
生命と言う炎を燃やし、多くの生き物はその短い一生を送ります。
多くの生き物はひたむきに、精一杯に生を全(まっと)うしようとします。
人もまた同じです。
人もまたその生を、持てる力で精一杯全うすべきです。
それは、その一生に幸福を求めるということです。
それが生命神の導きです。
幸福とは、生きていることが「楽しい」と言うことです。
しかし、その楽しさがあまりに刹那(せつな)的、衝動的ではいけません。
楽しさが、不安なく持続するのが理想です。
幸福は、「安定」でもあります。
安定には、余裕、すなわち「豊かさ」が必要です。
その豊かさを身に付けるために、自分をとりまく環境での秩序、
また自己内での秩序の形成を述べてきました。
【自己・環境秩序】の構築です。
しかしそれは決して、容易なことではありません。
「楽しさ」の反対は「苦しさ」です。
「苦しさ」は、「諦めきれない」「我慢できない」ところから生まれると述べました。
いわゆる「固執(こしゅう)」から生まれます。
この「固執」から逃れるため、四つの観念を述べてきました。
【諦念】【愚念】【脱念】【悟念】です。
しかし【自己・環境秩序】を形成するためには、
「固執」すなわち「こだわり」が、ある程度、必要なのです。
「固執」は、「思い込み」から成り立っています。
「思い込み」は、行動や判断を効率良く行おうとする、人の省エネ機能です。
すなわち「思い込み」が正しいのならば、効率良く思考がなされ、
時間やエネルギーの短縮となります。
「思い込み」が「論理的」「システム的」「バランス的」「シンプル的」であるなら、
それは正しく、それに基づく「固執(こだわり)」は、秩序を望むなら
必要となります。
しかし「思い込み」が「非論理的(理不尽)」「短絡的」
「偏向(へんこう)的」「煩雑(はんざつ)的」であるなら、
それは間違っており、それに基づく「固執(こだわり)」は、
自分にも環境にも害となります。
人は幸福を求めるのに、秩序への「こだわり」が必要であり、
また不必要な「こだわり」をなくさなければいけません。
しかし私たちは、それを正しく選別できるでしょうか?
何が【自己・環境秩序】の形成に必要で不必要か、
いつも正しく判断できるでしょうか?
一つの判断として、「秩序」が整っているものに対して、
人は、「美しさ」や「カッコ良さ」「強さ」を感じます。
人には[秩序欲求]があります。
それが、「美しさ」や「カッコ良さ」「強さ」にあこがれさせるのです。
自然の美しさに感動するのは、その自然の秩序に感動しているのです。
自分に「美しさ」や「カッコ良さ」「強さ」を感じるなら、
それは【自己・環境秩序】が整っているということであり、
それが「幸福」の中に、自分がいるということの証(あかし)になります。
人は、幸福を求めて生きるべきです。
しかし、人はそんなストレートな望みに、後ろめたさを感じることがあります。
人の持つ「社会的協調性」のせいでしょうか?
自分だけが「幸福」であるという「孤立(こりつ)感」「疎外(そがい)感」を
感じることや、「ねたみ」「嫉妬(しっと)」などを受けることからの
恐れからでしょう。
【自己・環境秩序】の形成は、ある意味で「孤独(こどく)」なものであり、
他人にとっては、「迷惑」なものになることもあります。
しかし【自己・環境秩序】は結局、他者にとっても有効でなければなりません。
共有する環境が、自分にとっては幸福でも、他者にとっては不幸を引き起こす
ものであったなら、とても【秩序】の形成、維持は出来ないからです。
【自己・環境秩序】は、あなたの回りの円滑(えんかつ)化を進めます。
しかし、それで、あなたの回りの人が満足するとは限りません。
あなたの回りの人は、直情的に「不愉快」や「迷惑」を感じることが
往々(おうおう)にあるからです。
他人を「幸福」にすることは出来ないのです。
他人の理解を待つしか方法はありません。
ただ、他人に自分の「幸福」を見せることは出来ます。
他人に「幸福」を示し、導くことが出来ます。
【自己・環境秩序】の形成が、幸福につながります。
そしてその形成の過程にも、人は幸福を感じます。
人には、上に述べた[秩序欲求]と同時に、[達成欲求]があります。
秩序への段階的な達成に、喜びを感じるのです。
しかし、秩序の完全な構築は無理です。
60%の達成で良しとします。
【自己・環境秩序】の形成を、60%の達成で良しとするのです。
60%の幸福で良しとすると言うことです。