細胞の動く仕組み

ハイライト

  • アメーバ運動は大切な生命現象
  • 豚回虫精子はアメーバ運動する
  • 豚回虫精子のアメーバ運動は試験官内で再構成できる

アメーバ運動機構

ブタのお腹に住み着いている寄生虫の一種、豚回虫の精子を利用して、細胞の動く仕組みを調べています。

現在の主なテーマは3つです。

  1. アメーバ運動装置の力発生機構
  2. アメーバ運動装置の構成因子の同定
  3. 試験管内でのアメーバ運動の再構成

これらのテーマを解説していくために、もう少しアメーバ運動について説明します。

アメーバ運動について

一番良く知られているアメーバ運動は、おそらく微生物のアメーバのものです。アメーバが自在に形を変え、移動していく様子は一般人にも馴染みがあるものです。アメーバの細胞から突き出てグニョグニョと動く部分が、仮足と呼ばれるもので、ここが細胞の動きを生み出しています。動画を見てもわかるように微生物のアメーバは複数の仮足を持ちます。動きは少し異なりますが、魚のウロコにいる上皮細胞(ケラトサイト)も仮足を使い、基板上を、あたかも滑るように移動します。ケラトサイトでは細胞の形は大きく変わりませんが、こちらも広義の意味でアメーバ運動に含まれます。実際、アメーバ運動の研究によく使われるのはケラトサイトの方です。なぜなら、仮足が1つと単純なこと、そして動きがほぼ一直線だからです。この2つのおかげで解釈を単純化することができ、研究のモデルとして非常に便利です。

なぜアメーバ運動が重要なのか

前出の通り、一番良く知られているアメーバ運動は微生物のものです。ところが、人間の体内にもアメーバ運動をする細胞がいます。例えば傷口を塞ぐときに働く上皮細胞です。怪我をして皮膚が傷つくと血がでます。これは、生物にとって非常にまずい状況です。なぜなら、普段は皮膚で守られている部分がむき出しとなり、感染症の原因となる細菌が体内に侵入しやすくなるからです。一刻も早くこの状況を解決するには、傷口を防ぐしかありません。これをやってくれるのが上皮細胞です。傷口の回復する様子を細かく観察すると 、シート上に広がった上皮細胞が傷口を塞いでいきます。この時、上皮細胞は傷口に向けて移動しますが、この動きがアメーバ運動です。体を守る働きで言えば、免疫細胞の好中球もアメーバ様の動きで細菌を追いかけます。

しかし、アメーバ運動は良いことだけではありません。ときには、病気に関わることもあります。たとえば、皆さんがよく知っている癌です。癌は細胞の一種の暴走状態で、無限に分裂できるようになってしまった状態です。無秩序に増殖を続ける癌細胞は、発生した場所で不具合を起こします。しかし、さらに状況が悪化することが起きます。それは癌の転移です。それまで1つの場所にとどまっていた癌が、ある日全身を侵し始めます。これは細胞が動けるようになったために起こる悲劇です。それまで一箇所に留まっていた癌細胞が、組織の外に這い出し、血管の流れに乗って全身に到達するーこれが、大雑把な癌転移の仕組みです。ここでの癌細胞の動きも、実はアメーバ運動なのです。

このようにアメーバ運動は、我々にとって良いことにも悪いことにも深く関わっているのです。だからこそ、その仕組を明らかにすることに大きな意義があります。

細胞骨格

アメーバ運動を理解するためには、細胞骨格を知らなくてはなりません。細胞骨格とは、細胞内に張り巡らされた”網”のような構造で、これが細胞の形を決めます。そうです、人間にも体を支える骨格があるように、細胞にも細胞骨格と呼ばれる骨格があるのです。ただし、体の骨格と細胞の骨格では、材料も性質も大きく異なります。体の骨の主成分はリン酸カルシウムという物質です。ところが、細胞骨格はタンパク質からできおり、全く材料が違います。さらに、体の骨がかなり”静的”、つまり形が一定でほとんど変化しないのに対して、細胞骨格は非常に”動的”で、秒や分の時間単位で形が変わります。成人の体の骨は、形を変えることはありません。しかし、細胞骨格は頻繁に出現したり、消失したりします。この細胞骨格の動的な性質が、アメーバ運動にとって非常に重要になります。なぜならアメーバ運動では、細胞は仮足を変形させて動きます。仮足が変形するということは、その裏打ち構造である細胞骨格の作り変えが起こるということです(図1)。

図1

どうして回虫精子?

ここまでの話で、アメーバ運動の仕組みを知るためには、細胞骨格の働きが鍵になることが理解できたと思います。先ほど、アメーバ運動の研究には、ケラトサイトと呼ばれる細胞が向いていると書きました。ここは私の主観になりますが、そのケラトサイトと同様にアメーバ研究にうってつけの材料があります。それが、今から紹介する回虫精子です。回虫?精子?と聞いて、へっ?と思った人もいるかもしれません。生物の研究者でも珍しがるような奇抜な材料です。多くの人が精子と聞いて、丸い頭から長い尻尾が生えているものを想像するかもしれません。しかし、回虫精子は全く様子が異なります。はじめに示した動画のように、うねうねと這うように、つまりアメーバ運動で動きます。このあたりが、生物の不思議なところで、回虫はなぜかアメーバ運動で動く精子を進化させてきたのです。その理由はまだ分かりません。しかし、生物が無駄なことをするとは考えにくいので、きっと理由があるはずです。

ところで、精子の本分は動くことです。動いて卵子を見つけて受精する、これが精子の仕事です。そのため、精子は究極の運動マシンと考えてもよさそうです。それでは、回虫精子は究極のアメーバ運動マシンなのでしょうか?この質問に対して、私はYesと答えたいところですが、本当のところは分かりません。しかし、回虫精子はアメーバ運動にすべてをかけている、そう考えることで回虫精子が究極のアメーバ運動マシンと私には思えてくるのです。我々の研究が進めば、この考えの妥当性も明らかになるはずです。

MSPー独自の細胞骨格

話が発散しましたが、アメーバ運動と細胞骨格に戻ってみます。回虫精子の大きな特徴の1つは、ユニークなタンパク質を使ってアメーバ運動をすることです。というもの、アメーバ運動する真核生物のほとんどはアクチンと呼ばれるタンパク質を使います。このアクチンが細胞骨格の構成単位で、レンガの家でいうとレンガ1つ1つにあたります。アクチンは普遍的なタンパク質です。つまり、ほとんどの細胞がアクチンを持っています。そのため、アメーバ運動の研究をしているといった場合、アクチンやアクチンと一緒に働くタンパク質のことを研究していることとほぼ同義です。ところが、回虫精子は例外です。回虫精子には不思議な事にアクチンが殆どありません。その代わりに、MSP(Major Sperm Protein、精子主要タンパク質←いけてない日本語訳ですね)がどっさりと入っています。

線虫精子では、このMSPが細胞骨格として働きます。MSP同士がくっついて線維を作り、そして線維がからみ合って網を作りと、回虫精子の仮足内部はMSP細胞骨格で満たされています。MSP細胞骨格も非常に動的で、細胞のアメーバ運動に合わせて、出現・消失を頻繁に繰り返しています。下の図は、回虫精子のタンパク質を示したもの(可溶性画分のSDS電気泳動像)です。矢印で示したものがMSPで、可溶性タンパク質の実に40 %近くになります。

MSP運動装置の再構成

回虫精子を使う大きな利点は再構成系の存在です。再構成系とは、生き物の中で起こる現象を試験管内で再現させる実験系のことです。例えば、次の例を見てみましょう。

何か黒い物体がグングンと伸びているものが見えますね。これは、MSPファイバーと呼ばれるものです。ここでは、MSPファイバーが中央から左上に向けて伸びています。よく目を凝らして見ると、その先端に丸い物がついています。これは小胞と呼ばれるもので、もともとは細胞膜の一部です。では、黒い長細い部分は何でしょうか。電子顕微鏡で詳しく見てみましょう。

MSPfiber

はい、来ましたね。毛もくじゃら。ではなくて、MSPファイバーの像です。上に見える丸い玉、これが小胞です。その小胞から下に伸びている物体、これがMSPファイバーです。よく見ると、MSPファイバーは細い繊維からできているのが分かります。この線維をMSP線維と呼びます。つまり、MSPファイバーはMSP線維が網の目に集まった構造体です。試験管を洗うためのブラシに似た構造です。試験管ブラシ全体がMSPファイバーで、ブラシの1本1本の毛がMSP線維に対応します。

MSPファイバーの収縮

伸長と収縮が同時に再構成