「中途視覚障害で『壊れた』けれども、結構いい感じに復職した気がする」(情報誌タートル49号)

宇部工業高等専門学校 物質工学科 准教授

島袋 勝弥

皆さん、こんにちは。島袋です。

私は高専の教員です。基本は教育者になりますが、同時に研究も行っています。私の目の病気は網膜色素変性症(RP)です。現在の見え方ですが、右は視力がなくて、チラつく物が見えるぐらいの手動弁です。左目は中心視力が残っていて、メガネをかければ0.7ぐらいはありますが、視野が狭いです。視野は大体2度あるかないかというぐらいです。一般の人なら左右150度、上下130度ほどあるため、数字にすると多分99%以上はないことになります。実際、視野計によっては視野がゼロと出ます。
今、私は42歳ですが、診断されたのが22歳ということで、20年前になります。ただ、私が20年間向き合っていなかったことが最初のヤマになります。それは後ほど話しますが、私の仕事は高等教育機関の教員ですから、基本的には授業ということで講義をしています。専門は生命科学のため生物系の科目を授業で教えていて、研究もしています。研究テーマも生命科学系で、「タンパク質がどうだ」「遺伝子がどうだ」という話も、結構しています。

仕事は主に教育と研究になりますが、ちょっとわからない方に紹介をすると、高専というのは1年~5年まである学校で、中学卒業後に入る学校になります。ですから、高校3年間にプラスして,短大の1、2年分が付いた所だと考えていただけると良いと思います。そして、私の所属する宇部高専の学生数は約1,000人です。1学年200人かける5年ということで1,000人います。教員が70人ぐらいで、職員を合計すると120人ほどの職場と考えてもらうと良いと思います。
休職に至った根本的な原因というのは、自分の視覚障害とまともに向き合っていなかったことで、これは確かだと思います。22歳で診断された時は生命科学を専攻していたので、自分の目に何が起こっているのかということが、実はよく理解できました。具体的に視細胞のこの部分がどうなっていると理解したうえで、これに対して手の打ちようがないことも、頭では全部理解をしていました。
しかし、「心で受けとめていましたか」と言われると、恐らくそうではありませんでした。RPと診断された時に、私にショックはなかったのです。むしろ自分の目がおかしいという理由が見つかったということで、「あぁ」と納得をしました。ただ、目の障害が見つかって、それが進行性だと言われたのですから、将来に影響は出るわけです。

当時は大学院の学生でしたが、「では、どうするか」というと、いろいろ考えるわけです。沖縄から上京して研究者になるのが目標でしたが、その途中でRPと診断されたわけです。大学は一応博士課程まで進みましたが、途中で「このまま行くとまずいかな」と思った時期も結構ありました。それで、障害枠で就職すべきだと思って、そういうWebサイトもチラチラと見てはいました。
しかし、ある意味では自分に格好をつけて「人生は一度きりしかない。後々になって後悔はしたくない」と、結局は続行をしたわけです。そして何をしたかというと、大学院を終わらせて博士号を取った後に、アメリカに6年近くいました。続行をしたわけですね。

しかし、目のハンディはやはり大きいのです。特にアメリカで生活をすると、アメリカは車社会ですから、
運転ができないために、行動力が圧倒的に落ちてしまうのです。それが明らかにハンディでした。もう1つは、アメリカでもずっと研究をしていましたが、研究者としての自分に「そこまではできない」という上限が見えて来たのです。

アメリカに行って「上には上がいる」ということを、これでもかというほど見せつけられて、「これは無理だな」と思いました。結局はアメリカからの帰国を決めました。これは、完全に後ろ向きの帰国でした。
ここでポイントになるのは、大学院の指導教官だった先生だけには、目の病気のことを話していたことです。基本、目の病気のことは他人に話していませんでしたが、大学院にいく時に「自分には目の病気があります。場合によっては、途中で進路変更をするかもしれませんが、了承をしてください」と。すると、大学院の教授は一言「わかった」と言ってくれました。

日本に帰国する時に、次の職場をどうしようかと考えました。直接アメリカから職を見つけるのは難しいので、「困ったな」と思って、大学院時代の指導教官に連絡をしました。そうしたら、連絡が来ました。「島袋君、1年間だけなら君を研究員で雇える。帰って来て就職活動をするのはどうか?」という打診でした。
私にとって、これはものすごく嬉しいことでした。東京で1年間という話でしたが、先生は「戻って来てそこで就職活動をしなさい」と。そして「君が言っているように、障害枠で就職活動をするのがたぶん良いと思うから、研究員だけど、就職を優先しなさい」と言ってくれたので、ボスの温かい言葉どおりに活動をしたわけです。

ところが、障害枠での就職も結構難しいのです。1年間、ずっと活動はしていたのですが。登録してエージェントも使いましたが、はっきり言うと、最初は舐めてかかっていたのです。「どこからか声がかかるだろう」と思っていたところ、実際に声がかかって来ましたが、主に外資が中心でした。
外資を中心に声がかかって来て、面接までは進むのですが、なかなか通らないのです。通らなくて次第に選択肢が減っていき、最後に1つ「正社員で採用するから、どうしても来てくれ」という場所はあったのですが、条件が合いませんでした。その時は、特に研究を続けるつもりがなかったので、仕事は何でも良いと思いましたが、さすがに提示された給料が割に合わなかったため、無理だという判断をしたのです。
そこでどうしたかというと、結局自分が一番評価される場所は、大学関係や高等教育機関なのだろうと思って、舵を切ったのです。ただ、舵を切ったのは結構遅くて11月頃でした。それまでは「民間で正社員を」と思っていましたが、難しそうだということで11月頃に舵を切って、「さぁ、どうするか」という時に、

これもまた人に救われたのです。実は、大学からの親友がその時に宇部高専にいたのです。1年半ぐらい前に宇部高専に行っていました。これは普通の呼びかけでしたが、「生物系の教員の公募が1つ出ている」と。そして、「上の人から知り合い全部に声をかけてほしいと言われたが、どうだろうか?」という話が、私の親友から来たのです。

私は今まで縁がなかったので、高専というものは知りませんでした。その友達に聞くと「教育の比重は高いけれども、研究もそれなりに続けられる場所だ」という話でしたから、実際に見に行きました。そして、学生の様子や学校の雰囲気を見て、「これは良いかもしれない」と思って応募をしました。それで採用に至り、宇部高専に行ったのです。

ですから、ここでも私は恩師と親友にだいぶ救われたわけです。そういう形で、宇部高専に就職した時は、障害枠とは全く関係なしに普通の枠で就職をしました。そして、宇部高専に行ってからが、基本的に私の人生の再出発になると考えています。

ところで、研究の世界というのは、基本的には競争社会ということです。五体満足でも厳しいのに、目にハンディのあるヤツができるのかと言われると、厳しいといえば厳しいです。もう1つには、研究の世界はものすごく雇用が不安定で、基本的には任期付きです。短い時は1年ですし、長くても5年で「さようなら」という世界ですから、次の職を見つけるというのは、ものすごく難しい場所なのです。
ですから、私が宇部高専を選んだ理由は1つでした。終身雇用だったからです。それで、ここしかないということで、宇部高専に決めたわけです。実際に、その後も大学からは話がいくつか来ましたが、いずれも任期付きだったため、やはり断りました。任期付きと言っても結局はフリータ-に近いのです。8年以上も任期付きでやってきたので、これ以上続けることは無理であると。

また、自分には目の障害があるから、なおさら職に就かなければいけないということで、宇部高専にたどり着いたわけです。たどり着いたのですが、はっきり言うと私には教育歴が全くありません。よく勘違いをされて「教員免許は持っているでしょう」というようなことを言われますが、私にはありません。教育には全く興味がなかったので、一切持っていないのです。

むしろ、中学・高校の時に一番なりたくない職業は教師でした。敢えて理由は言いませんが、あまり教師は魅力的ではないと思っていました。そういう自分が教育をすることになったとは思いましたが、意外と充実していたのです。授業をすること自体が自分に向いているのかわかりませんでしたが、実際にやってみると1年目は初めて持つ教科ばかりで、確かに準備が大変でした。でも、教えてみると楽しいのです。どこが楽しいかというと、相手に伝わっているのか直にわかるため、自分で試行錯誤の仕様のあることが、ものすごく楽しかったわけです。

それともう1つ、高専というところは大学と違って、学生と教員の距離がものすごく近いのです。要するに、学生は平気で教員に話しかけてくるのです。私は人に対してかなり興味がありますから、学生が話しかけてくれば、学生に反応します。その一環として、学生にいろいろと指導をするわけです。それは、インターンシップのエントリーシートであったり、就職時の履歴書であったり、他の様々なことであったりしますが、指導をする際には自分が今まで培ってきたものが結構使えるということで、メチャメチャ楽しいと思ったのです。

さらに、付いて来たものがあります。私はアメリカ時代の研究がイマイチだったということで、研究は半分どうでもいいと思っていました。でも、日本に帰って来てから、実はアメリカ時代の研究がかなり評価をされたのです。「あれっ?と思って、意外とそちらの方でも良いのかな、研究を続けても良いのかな」という自信ができたのです。そして、かなり大きな額の研究費も取れたため、一気に研究機器を据えて、研究室の体制が整ったのです。そういう形で研究もできることになりました。
宇部高専に来てからは教育が中心ですが、教育は悪くないし、嫌いでもないと。そして、学生とのふれあいも楽しいし、研究も続けられるということで、これ以上の天職はないのではないかと思いました。学校自体がどう思っているのかわかりませんが、私は高専に来てそう思ったわけです。本当に最初の2~3年は、ものすごく充実をしていました。イケイケだったのです。研究でも勢いがあったので、学会で私を見れば何の研究をしている人なのか、皆がわかる程度のレベルになっていました。

ただ、やはり確実に目は悪くなるわけです。それと向き合っていなかった自分がいて、2015年頃に学校の健康診断で視力検査をした時は、右目で見ようと思っても何も見えませんでした。本当は視力表が見えているはずなのに、全く見えていないために、変だなと思って「この機械、調子悪いですよ」と検査員に言いました。そうしたら、検査員が「見えていますよ」と言うので、「あれっ」と思って左目で覗くと確かに見えています。そこで、初めて右目が見えなくなっていることに気づいたのです。

昔から右目が左目に比べてちょっと悪かったのです。ですから、そういうこともあるのかと思いましたが、基本的には網膜色素変性症は両目が同様に進行するケースが多いのです。もちろん、そうではない場合もありますが、右目だけが2年ほどで急に見えなくなったことを目の当たりにして、かなり動揺をしました。
なぜかというと、右目がそうなったということは、左目もそうなる可能性があるからです。その事実に突き当たった時に、今さらですがかなり慌てました。慌ててどうしたかというと、どうしようもないわけです。わかっていたはずなのに、それと向き合っていなかったから、パニックに陥ってしまうわけです。

そして、気がつくと板書も大変になっていました。私のように視野障害があると、板書は難しいのです。ホワイトボードは広いため、そこに文字を書いても、自分の書いた文字の一部しか見えません。ですから、その次にさらに文字を書くとなると、きれいに続けて書くことは難しくて基本的にはできないのです。

もともと板書はあまり上手ではなくて「字が汚い」とずっと言われていました。学生から「字が汚い」と言われると、「お前の喋り方が汚い」といつも言い返していました。そして、授業評価アンケートには「字が汚い」「板書が下手だ」と、ずっと書かれているわけです。それは仕方がないので受けとめようと思いましたが、目が悪くなると、ますます板書ができなくなるのです。
そして、以前から苦手でしたが、気がつくと試験監督もかなり難しくなっていたのです。どういうことかというと、試験監督をすると学生は静かに受けますが、試験の最中に何かあれば手を挙げたりします。しかし、それに気がつかないわけです。学生が鉛筆を落としたり、消しゴムを落としたりすれば、拾ってあげなくてはいけませんが、それにも気がつかなかったのです。そういうことが積み重なって、次第に仕事に対する自信がなくなっていきました。

そうなると煮詰まってきて、「仕事をどうするか」という話になります。このまま教職で教え続けるのは基本的に無理ではないかという話になって、精神的にどんどん追い込まれていきました。結局のところ、まともに向き合うことをしなかったために、2016年の年末には完全に体が動かなくなりました。身も心も限界を超えて動かなくなり、病院送りとなりました。それで病院で数日療養をしてから、自宅に戻ってさらに療養をしたわけです。

その後、学校にも戻ったのですが、学生たちからは「先生、ちょっと顔色が悪すぎる」と指摘されていました。それでも無理をして続けましたが、やはり駄目で、もう一度病院送りとなりました。2回目の入院は長かったのです。その間に何が起こったかというと、入院以前に私は3年間クラス担任をしていました。5年生の担任をしていたので、卒業式当日には舞台上から学生一人ひとりの目を見て、全員の名前を暗唱して読み上げることを、私は頭の中で描いていました。それに向けて学生の名前をきちんと言えるように、実は年末から家で練習をしていたわけです。

ところが、現実はどうだったかというと、卒業式当日は自宅のベッドにいて、私は何もできずにボーっと上を眺めていたわけです。惨めでしたね。何のために担任をしたのだろうと。彼らや彼女らが卒業をする日に、何もできないという現実を受けとめざるを得ませんでした。「どうしようかな」というよりも、「もうすべて終わった」という気持ちで、自分の人生はゲームオーバーというぐらい、悲劇のヒーローぶっていたわけです。ヒロインではありませんが、悲劇のヒーローというのはちょっと変ですよね(笑)。
そういう形で、私の休職期間は1年3か月にわたっています。つまり、2016年の末頃から休んで、復帰したのは2018年4月ですから、今は復帰してから1年半ほどになります。そして、復帰までに何が起こったかという話になります。

つまり、目の障害とまともに向き合うことを避け続けた結果として、結局は限界を超えてしまったわけです。そして、はっきり言えば、担任としては全く成っていないと。皆さんは「病気だから仕方がない」と言ってくれますが、私としては受けとめがたい事実なのです。「こんなはずではなかった」と。でも、さすがに滅入ってはいても、やはり心の底では「生きていかなければいけない」と思っているわけです。「何かしなければいけない」とは思っていたのです。

それで、その時にどうしたかというと、いろいろと考えた結果、地元の視覚障害者団体の会長と話をして、「タートルに相談しなさい」と言わたのです。その時、実は私はタートルを知っていました。知っていたのですが、相談メールを投げるかどうかは少し躊躇していたのです。地元の会長は目の角膜が皮膚になるという病気で、中途で全盲になった方ですが、その彼が自分の過去を淡々と語って、「あなたはまだ復職ができるはずだし、そうすべきだ」「タートルしかないから相談をしなさい」と背中を押してくれたのです。そこで、私はタートルにメールを投げたわけです。それが2017年の初め頃だったと思います。

はっきり言うと、タートルのメーリングリストには、多分悲鳴に近いメールが飛んだかと思います。ただ、あまり反応はないだろうと思っていたところ、すごく反応がありました。「私はこういうふうにサバイバルをしていますよ」というメールが、いくつも飛び交ってきたのです。それを読んで「あぁ、できるかもしれない」と思ったわけです。

今日はいらしているのでしょうか。特に日立のワタナベさんからは「実際に全盲になっても、補助員をつけながらスライドを作ってやっています」などという具体的なメールが来たわけです。それで「できなくはないんだな」と思ったわけです。有難かったのは何かということですが、タートルの講演会なのでタートルを持ち上げないといけません。原稿を棒読みすると「事務局の素早い対応」と書いてあります(笑)。
そして、「どんな状態なのか」というアンケートのようなメールが、熊懐さんから飛んできたのです。すぐに返信をしたところ、その後に対応があって「北九州に先生がいるから、会ってください」という話になりました。何をするにしても、言われたとおりに動くしかないので、予約をとって眼科医に会いに行きました。

ただ、今思うとそんなに早く予約が取れる筈がないのです。というのは、電話をして先生と話をしたのですが、僕の名前を言った瞬間に、先生が直接電話に出たのです。そして、「〇月〇日なら空いているから来なさい」と言われました。今、普通に予約をしようと思ったら、実は3か月、4か月先なのです。だから、特別に空けてくれたのではないかと思っています。
そして会いに行ったわけです。

一通り検査を受けた後に、髙橋先生が、「あなたの問題は心ではない」と。「目の障害ときちんと向き合っていないから、この結果になっているのだろう。だから、向き合いなさい」と。これにはグウの音も出ませんでした。確か私が診察に行ったのは火曜日でしたが、早かったのは土曜日に相談会があったことです。
その相談会の時に、髙橋先生が説明をして、「福岡視力に行ってから、どこかで訓練をして復職をしなさい」という具体的な計画が出されたわけです。

福岡視力に入るために自分で書類は揃えました。そして、申し込みを待ったのですが、福岡視力も結構頑張ってくれたのだと思います。5月15日に入れるよう最速でアレンジをしてくれて、実際に5月15日に私は福岡視力に入ったわけです。

そして、ここからはリハビリ編に入ります。福岡視力に入ると日常訓練が始まりました。日常訓練では、白杖の使い方の他には、コミュニケーション訓練として点字を読んだり音声パソコンを使ったりしますし、ロービジョン訓練というのもあります。その中で、白杖の訓練はわかるのです。確かに使い方は理にかなっているし、それを使えば行動範囲は広がると思います。当時、私は嫁の肩にしがみついて歩いているような状態で、一人で歩けなかったため、これは良いだろうと思いました。

でも、点字などには疑問の部分もありました。音声パソコンも何かパソコンが喋っているという感じでした。そして、正直なところ、これをすることで仕事に戻れるのかと思いましたし、「自分に必要な技術はこれではないだろう」と感じていました。それをずっと疑問に思っては煮詰まってしまい、「ちょっと体調が悪いから帰ります」と言って、結局は1か月後に自宅に帰りました。そして、自宅に帰った後からまた調子がひどく悪くなって、2か月ほどずっと引きこもり状態になりました。ちょうど2年前の今頃ですが、そういう状態でした。

「なぜ訓練をするのか」「この訓練することによって自分は復職ができるのか」というところに、頭が全く繋がりませんでした。考えても考えてもわかりませんでしたが、それでもタートルの『中途失明』や、視覚障害教師の会の『教壇に立つ視覚障害者たち』という本は読んでいました。「前例はある」と頭の中では言いながら、でも心では受けとめ切れずにいました。その間にもタートルの皆さんからは電話や励まし、状況確認が来ていました。

でも、8月の盆も過ぎたこの時期ぐらいに、2か月間家にいた後で「いつまで家にいても仕方がない」と思いました。ここでも受け身でしたが、「言われたからには、リハビリをとりあえず終わらせなければ」と思いました。それを終えてから何か言うのは良いけれど、終わらないうちからゴタゴタ言うのはおかしいと思い、とりあえず復職云々は棚上げにして、リハビリと日常訓練だけは無理をしても終わらせるつもりで、福岡に戻りました。

福岡に戻ったのですが、はっきり言ってテンションは全然上がりませんでした。ずっと低いテンションのまま、ひたすら訓練を淡々とこなしていった日々でした。徐々に自信を取り戻したかというと、そういうことは全然なくて、ひたすら訓練を消化するだけでした。「あと何回で終わりだから」と言われて、「では、あと何回我慢する」という返事でした。

ただ、2か月空けて福岡に帰ってきたので、私の本質的な問題は心の持ち様だということになり、福岡視力の先生とよく話をするようになりました。そして、ロービジョン訓練なのですが「心を落ち着かせましょう」という話になったわけです。「そのためにはマインドフルネスだ」と言われ、瞑想するようなことをやらされました。

フーンと思いながらロービジョン訓練に行くと、「マインドフルネス」と言うから、またかと。また行くと「マインドフルネス」と言うので、エッと思いましたが、最後には訓練生全員を茶道室のような所に上げて、畳の上に寝かせて「マインドフルネス。あと45分」などと言って訓練をするわけです。
あの時は、本当にマインドフルネスでお腹が一杯でした。でも、今思うと意味があったのかもしれません。
そして、これは先生の執念の言葉だったと思いますが、私の心の中に残っているのは「島袋さん、あなたの右目はもう駄目です。だけど、左目はまだ使えます」ということです。何回も言われました。先ほども言ったとおり、当時歩くのには嫁の肩をつかんで、慣れない杖を振って歩くような状態でした。ですから、とてもそんな状態ではありません。「使えると言っても、ちょっと見えているだけなので無理です。一人では歩けないですから」といって、先生の言葉は耳に入っても、心で受けとめることはできなかったのです。
ところが、今思うとこの言葉は正しいですね。というのは、今、東京に来ているのもそうですが、実際に一人でも出張に行っているし、街中も一人で歩いているのです。もちろん、人に助けを求めて移動することも多いのですが、一人で学会にも行きますし、「先生が言った言葉は、確かにそのとおりだったのだな」と思います。

結局、考え方が狭かったというのは確かなのです。やはり、自分が中心になるわけです。しかし、リハビリを見ている先生方はそうではなくて、何百人と見てきているわけですから、そこから出てくる言葉には意味があります。もう少し私が素直に受けとめられていたら、回復は早かったかもしれないと思ったこともあります。

その過程でいろいろと聞きましたが、やはりリハビリ法については「これではいけない」と、福岡視力も周りから批判にさらされていたようですね。その辺をきちんと耐えたうえで、確立した方法で自分を支えていることが後ほど私にもわかって、「なるほど」と思うようになりました。今はどこへ行っても「福岡視力、最高」と、言うことにはしています。
実際、今日ここにも来ていますし、福岡にもいるのですが、福岡視力で一緒に訓練をしていたメンバーで、きちんと復職をしている人は多いのです。それを考えると、やはりそうなのだろうなと。我々は確かに当事者ですが、当事者をたくさん見てきた人の言葉というのは、きちんと心に響かせなければいけないことを学びました。

そして、福岡視力のトレーニング自体は、結局のところ2017年の年末に終わらせました。ひとまずは家に戻って、そこから「復職」という話が実際に進んでいくわけですが、その時はまだ「これから自分が復職する」という自信は全くなかったのです。私の職場は学校ですから、復職をするタイミングは基本的に4月になります。学年度として、いろいろと行事や持ちコマ、講義等が決まるからです。何とか譲ってもあとは10月になります。訓練が終わったのは年末でしたから、狙いは4月に定めて、そこで復職をすると。そのためにはどうすれば良いかを逆算で考えて、復職に向けて実際に動き出したわけです。

私は休職中も職場には定期的にメールを送っていました。「今、こんな状態です」「今はこういう訓練をしています」というメールを人事係長に送ったのですが、人事係長も「オーケーです」と。また、私の職場には大学と同じように学科というのがありますから、学科長にも「12月に終わりました」という報告をしました。

そして、人事に「4月の復職を目指して動きます」と言ったので、そこから学校の対応が始まりました。この辺から私のケースは具体的になっていきます。具体的にはなりますが、皆さん方には当てはまらない部分も出てくるかと思いますので、参考にしてほしいと思います。
ところで、あと何分ありますか。

(神田理事)
45分までですから、だいぶあります。

(島袋氏)
時間はありますね。行けそうですね。

(神田理事)
スタートが早い。

(島袋氏)
行けそうですね。いや、行きますよ。「さっさと喋れ」という話ですね(笑)。

(重田理事)
冗談が多くても大丈夫です。

(島袋氏)
いや、私はあまり冗談を言わない人ですよ(笑)。では、復職に進みますが、一番大きな転機は何かというと、うちは学長ではなくて校長というのですが、校長の態度の変化が一番大きかったのです。
最初に私の調子が悪くなって、校長と話した時には「病気だから仕方ないよね」と。でも「見えなくなったらどうするのか」とも言われました。それに対しては、「難しいかもしれませんね」としか答えられませんでしたが、普通はそんなものだと思います。

そして、2か月ほど後だったでしょうか、もう一度校長と面談があったのです。その時は、年度の4月に「障害者差別解消法」が施行された時期だったので、私もある程度は理論武装をして、次の面談には臨まないといけないと思いました。そこでタートルにも連絡をして、タートルの復職事例のパンフレットなどを持参して、校長との面談に臨んだのです。

ところが、拍子抜けをしました。なぜかというと、いきなり「島袋先生のようにハンディのある人をどう支えていくのか、特にうちの職場は元々国立の流れをくむ場所なので、そこは絶対にサポートをしたい」というように,全く変わっていたのです。ただ、「前例はない」というように、釘は刺されましたが。拍子抜けをしましたが、同時に「多分これは事務方から何か言われたな」と思いました(笑)。余りにも態度が変わったので。それで、「ありがとうございます。では、支援をお願いします」という話になったわけです。
実は、それがリハビリの前の話になります。だから、リハビリに行く時には、うちの校長から「島袋先生、しっかりリハビリをして、目も良くなって帰って来てください」と言われましたが、目は良くならないって。ならないって(笑)…。多分、意味はよく理解していなかったのでしょうが、とりあえずリハビリに行くことによって、何かマシになるだろうという予想はしていたようですね。

それで、実際に復職の話となった時に、まず何が起こったかというと、校長が支援チームの結成を命令したようなのです。復職するにあたり、私に対してどんな支援が必要なのかを具体的に考えるために。それも人事係が抱えたところで、そこだけで解決できる案件ではないために、人事の他には学校施設や学校環境を整備する事務方と、学校の授業を管理する教員のトップと、学科長にも入ってもらうことになりました。

そのうえで、「他に誰か必要ですか」と聞いてきたのです。この点は、うちの学校のすごく良かったところだと思います。支援チームを作る際、「メンバーに入ってほしい人は誰かいますか」と聞かれたわけですから、私はすかさず「この2人は入れてください」というお願いをしました。これについては、後日談ということで、時間があればお話をします。

では、なぜこの2人にしたかというと、実は理由があります。この2人は私に「絶対に復職をしてほしい」とずっと言い続けた2人なのです。なぜか女性ですけどね(笑)。そうして、その2人が入ったのです。要するに、このチームができた時点で、私が復職することを前提に何ができるかと考えるチームが、完全に出来上がったことになります。

そして、そのチームとの面談が合計すると2回ありました。1回目の話し合いが行われる時に、「何ができるか、できないか」ということを具体的にリストアップして、1つ1つへの対応を練っていきましたが、そのたたき台となったのは私が作った『情報提供書』です。

というのは、学校側の人事担当者に「人事も異動があるから情報の引き継ぎをしたいけれども、口頭では限界があるため書類を作ってくれないか」と言われたからです。その時に、私は『情報提供書』として、A4用紙4枚に「自分の症状は○○で、見え方は実際に○○であって、具体的にこの業務はできるが、この業務はできない」と、リスト化した書類を作成して提出していたのです。そこで、それを基に「では、何ができるか」という話が始まったわけです。

もし希望される方がいれば、この『情報提供書』は提供しますから、フォームに記入して送ってください。私は全くオープンなので、いくらでも差し上げます。「それで、視覚障害者の現状が救えるというのなら」と、格好いいことを言ってしまいましたね。

それをたたき台に話をしたのですが、やはり、それは私の目線から書いてあるわけです。でも、支援チームと話をすると「これはどうですか」「あれはどうですか」と、いろいろな人から想定した問題が出てくるわけです。私が考えていなかったことを出されて、「はい、確かにそれもありますね」とか、「それはできませんね」「いや、それはできるかもしれません」などと、1回目に話し合ったわけです。そして、「もう一度練ってみましょう」ということになりました。

そして、2回目の会議ではもっと具体的に、「授業の負担として、1年目にはこのコマで」「役割分担としてはこれで」と、そして「学校ができる支援としてはこれで」というように、話が具体的に出揃ったのです。さらに必要であれば3回目も開くことになりましたが、必要がなかったために開きませんでした。でも、私の『情報提供書』をもとに、支援案の骨組みがそこで出来上がったわけです。出来上がったら走らせるしかないということになり、私も4月の復職タイミングを伝えていたので、それで動いていきました。
休職中ではありましたが、最初に依頼されたのは「職場に出て来られるかどうか試してもらえませんか」ということでした。要するに「ならし出勤」を勧められたのです。もちろん、休職中だから来る義務はないのですが、研究室に来てどのぐらい居られたかということで、「週のうち何日来られたか」「何時間居たのか」という記録をつけてくださいと言われて、記録をつけたわけです。

私も基本的にヒマ人で、何もすることがないから研究室に行くわけです。そうすると、結果的には復職までほぼ毎日出勤しているような形になりました。行ったところで、基本的には論文を読んだり、ぼさっとしているだけですが、それでも職場にいること自体がリハビリの始まりだと思いますから、職場にいて椅子に座って、そこに居られただけでOKでした。時々、学生が来れば話をして、「今どうなっているか」という情報を集めたりもしました。これで、復職に向けての体力や、メンタル的な条件は揃いました。

次に、私にとって支援としてものすごく重要なのは予算でした。支援の必要な教員がいるということで、もちろん前例がないというのは言われていましたが、うちの学校には「前例がないのであれば一丸で突破する」という姿勢がありました。それでどうしたかというと、「こういう教員がいるから、どうにかできないか」という話になったわけです。

ここで少し高専の説明をすると、高専というのは各都道府県に大体1校ぐらいあります。独立行政法人になっていますが、高専全体で1つの独立行政法人ということなのです。私は宇部高専に勤めていますが、扱いとしては高専機構の宇部キャンパスになります。組織としては全国の58キャンパスで1つという扱いです。だから、学生数にすると約5万人と教職員数の約1万人を抱えた大きな組織であって、運営交付金も500~600億単位で下りています。そういう意味では大きな組織ですが、いろいろと決めることについては、宇部キャンパスなら宇部キャンパスで裁量ができるような、そういうシステムになっています。
実際のところ運営交付金はほとんど人件費に消えているため、金銭的な体力はそんなにないのですが、「宇部高専にこういう教員がいるから」と申請をしたら、「わかりました」ということで、「支援費を毎年出します。それを使って配慮をしてください」ということが決まったのです。

これはラッキーでした。合理的な配慮の話が平成28年に出たわけですが、教育現場で何が起きたかというと、これは普通の職場と違う点にはなりますが、教育現場には合理的な配慮の必要な学生が入ってくる可能性があると。それに対してどうするかということで、対応策について議論がされた時でした。

実際にそういう学生も入って来ていますし、身体的な障害を持っている人に対しては環境整備をしないといけないわけです。「万が一、車椅子の学生が来たら」と考えるのであれば、段差をなくすような配慮をしなければいけません。そうなれば、どうしてもお金が必要になります。そこで、そういう学生のために、高専機構自体がお金を取ってあったのす。

そして、名称としては「学生に対する支援金」でしたが、それを教員である私に割り振ったのです。つまり、対学生用に準備していたお金でしたが、私がちょうど障害のために支援が必要だったというわけです。「配慮教員」という呼ばれ方をしていて、その「配慮教員」に配るということで、予算の解釈を拡大したような形で私に割り振ったわけです。この支援金があると、かなりのことができます。

そして、「必要な機器があれば一式買ってください」と言われたのです。はっきり言うと「50万円分買ってください」と言われました。そこで、拡大読書器や音声のスクリーンリーダーとか、電子ルーペなどを全部揃えることができました。その時に全部揃えて、4月の復職時には、それが全部研究室にあるような状態でした。

それだけではなくて、物理的にも、もう少し支援しなければいけないということでした。では、何をしたのかというと、人事の人と環境整備をする施設の人が、私と一緒にキャンパスをウロウロと歩いて、「どこが危ない」「どこが危なくない」という話を、こと細かに全部挙げていったのです。
そして、転げ落ちる可能性があるため、私が一番よく使う階段に、まずは「手すりを付けましょう」と。これは少し前の話になりますが、夜盲が強いために、「この部分は暗くて怖いんですよね」という話をしていたので、そこにライトも増設してくれました。「ライトが付いたでしょう。明るくなったでしょう」と言われたのですが、実際のところは夜盲が強いため、ライトが付いているのかどうかわかりません(笑)。でも、一応メールでは「明るくなりました。ありがとうございます」と送っておきました。

また、その後で何をしたかというと、校内の道路にも白線で「止まれ」など、いろいろと書いてありますよね。あれは弱視の人にとっては歩く時の目安になるのですが、それが薄くなって消えかかっていました。そこで、「これも塗り直してもらえると助かります」と言ったら、塗り直してくれました。
また、私は正門からではなくて、家に近いために裏門から出入りをしていたのですが、そこの路地が細かったのです。「細いので、たまに左右を引っかけるのですよ」と言ったら、即座に点字ブロックを敷いてくれました。

それだけではありません。その点字を敷いた裏口から市道に入って行くと、側溝に蓋が付いていない所があったのです。「この辺で時々引っかかりそうになるのです。落ちそうになるのです」と言うと、施設の人が見に来て「そこは市の管轄ですね」と言うのです。これで終わると思ったら違ったのです。学校は市に対して要望書を上げたわけです。「当校には視覚障害の教員がいる」と。「側溝に穴があいているのは、その教員にとっては大変危ないので蓋をしてください」と要望書を上げてくれました。どうも校長本人が市長に会って直談判をしてくれたようで、これは即座に通りました。だから、4か月ぐらいであっという間に蓋がされたのです。

そういう形で、学内でできることだけではなくて、市に対しても「できることはする」という姿勢でした。それも事前にきちんと写真などを撮って、「こういう形で市に上げますよ」と私にメールで送ってくれました。私も「お願いします」と言ったので、それを実際に要望として上げてくれたわけです。ということで、
物理的な支援は整っています。

実際に、今も私が「これは必要です」と言えば、いつでも整備をするという話にはなっています。整備は一通り終わっているため要求は上げていませんが、今でも要求があればいつでも支援するという状態です。これが主に受けた「物理的な配慮」になります。

そして、その次に「人的な配慮」という話になります。人的な配慮という意味で、私がまず要求したのは「補佐員をつけてほしい」ということでした。やはり、機器を使うにしても、できない部分があるということで、「週に1回、3時間で良いので補佐員をつけてください」と要望をしたところ、これもOKが出たのです。

つまり、予算が下りているので、週2回なら週6時間ですが、1年間といっても学期は授業をしている期間だけになりますから、来てもらうと30万円ぐらいの人件費となるわけです。それなら余裕で予算から出せるということでした。

そうしたら「人選をお願いします」と言われたのです。要するに、自分に合う人を選んでくださいということでした。そこで、どうしたかというと、ママ友から引き抜いたのです。なぜかというと、私のことをよく知っている人だからです。事務の人からは「こういう場合は専門の人が良いのでは」と言われましたが、「いや、関係ありません。私にとっては気が利く人が大切です」と答えました。実際のところ、それは正解でした。気が利く人を雇うと、「これはどうですか」「これはどうしますか」と言って、先回りをしていろいろとやってくれるのです。

具体的に何が楽になったかというと、まずはテストの作成です。講義をしているからにはテストで評価をしなければいけませんが、視覚障害になると、作ったテスト問題がきちんとできているのかどうかは、メチャクチャ不安なのです。そして、それを晴眼者に見てもらうのですが、専門ではないために読み飛ばしなどはせず、一字一句チェックをしてくれるのです。ここがポイントになります。専門なら却って読み飛ばす可能性があるのです。一文字一文字の理解はしませんが、日本語として正しいかというチェックをしてくれます。それをしてくれるので、テストに関する負担からものすごく解放されました。

もう1つには、いろいろな事務書類のことがあります。うちは紙ベースではなくて、基本的には電子ファイルベースで送られてくるのですが、これが視覚障害だと大変面倒くさいですね。特にExcelなどは個人がアレンジして作っているため、いろいろな部分への入力が必要で、どうしても見落としが出てしまうのです。ですから、そういう書類仕事は基本的に気が進まないわけです。

ところが、事務補佐員が来ることで何が起きるかと言えば、その人の来る日に行うということで、後回しにできるのです。その人が来た時にやれば良いわけです。そうしたらミスも少ないですし、代行してくれますから、今では事務仕事がとても楽になっています。この方には授業の資料等も全部チェックをしてもらっているため、私一人で作ればもっとミスが多かったと思いますが、今はミスがほぼ無いような状態となっています。もちろん、ゼロとは言いませんが、ほとんど無い状態なので、心理的にはものすごく負担が減りました。

また、試験監督という仕事があって、定期試験もそうですが、公式な入試もあります。公式な入試で何かあれば一発で新聞沙汰になりますから、それは完全に外してもらっています。定期試験も基本的には自分の科目以外は外してもらったうえに、自分の科目時は試験監督として別の教員も入れてもらっています。カンニングなどは基本的に起こりませんが、万が一のために、きちんと目の見える教員が私の試験時間も一緒に見張ってくれるような状態になっています。

あとは、大学と違って高専にはクラブの引率があります。その辺は高校と一緒になります。クラブの引率でも遠征というか、校外に行くことがありますが、やはり危ないということで外してもらっています。例えば、「英会話クラブのように、遠征に行かない文科系のクラブならできる」と言っているのですが、まだその空きがないようで、とりあえず今は外れた状態になっています。

他には寮の宿直がありますが、これはリハビリに入る前から免除をされていました。寮の宿直業務というのは、基本的に何かあった時に、寮にいる学生の安全を確保することが仕事ですから、これはもう無理ですよね。自分の身の安全すら危ういのに、学生の身の安全確保などは無理ですから、「ちょっと厳しいです」と言って免除をしてもらっています。この件については「できなくて申し訳ありません」と言ったのですが、「いや、これは学校全体で負担すれば良いだけの話だから。以上」と言われて、配慮になったわけです。
これだけの配慮を受けて戻ることになりましたが、教員が11人ほどの自分の学科では皆が私の状態を知っていますが、当校には5学科あって教員が50数人いるほか、高専には一般科というものがあります。ここは1~2年生を主に担当していて高校部門に当たるため、教員全体としては70数人が在籍しています。そこで、やはり配慮を受けるからには、自分の障害等をきちんと皆に説明しないといけないと思って、学科長に相談したのです。

そして、教員70人全員が集まって会議をする「教員会議」というものがあるので、「その場で説明したい」と言ったところ、学科長が「いや、全責任は私が持ちます。私の口から説明をするから、島袋さんは座ってなさい」と言われました。

そして、教員会議の日に私の提供した『情報提供書』を全教員に配って、学科長がマイクを握って私の障害状態を説明した後で、「うちの学科には配慮が必要な教員がいます」と。そして「配慮は必要ですが、配慮をすれば彼は十分に戦力になります。皆さん、どうかよろしくお願いします」と言って、学科長が頭を下げたのです。めちゃくちゃイケメンですよね。現実には違うのですけれど…(笑)。

ここで、私にとってまた幸運だったのは、学科長自身が実は障害者だったことです。学科長は車の事故に遭って足を負傷し、肢体で4級のため障害者手帳を持っていたのです。私の障害者手帳は2級ですから、それを聞いた瞬間に学科長がびびって「2級なんて私の4級に比べると全然違う。どう考えてもあなたには配慮が必要だから、それはオレが全面的に言うから」と。「それで変なことを言うヤツがいたら、オレは許さん」と言うので、「いえいえ、そこまで熱くならなくてもいいです。学科長が殺人犯になっても困るので」と(笑)。

ものすごく熱い人だったのです。ここは、私にとってものすごくラッキーなことでした。上の理解がものすごくあったわけです。私の心理的な負担が少しでも軽くなるように、学科のためだからと言って学科長が前面に出たのです。だから、私自体が前に立つ必要はなかったのです。

その時に、実は私はその場にいました。その場にいながら、何というかものすごく不思議な感じがしていました。感動したとか言うのではなくて、何かぼやっと「自分のことを話されているのだな」と。そして、「こんな経験をする人なんて、ほとんどいないだろうな」と思いながら、やはり学科長が普段よりはイケメンに見えましたね。まあ、本当はあまり見えていないですがね…(笑)。

こういう体制が整った後に、私は実際に復職しました。この話を教員会議できちんと共有したので、教員たちの対応もガラッと変わりました。歩いているだけで「大丈夫ですか」と言われるようになりました(笑)。確かに白杖を持って歩いてはいますが、大丈夫でしょう(笑)。「大丈夫ですか。何か必要ですか」と声かけしてもらえるのはありがたいですが、歩いているだけですからね。
でも、面白いですよね。声をかける先生とかけない先生とにはっきり分かれるのですね。これは面白いと思っていますが、声をかける先生は会う度にいつも「大丈夫ですか」と言います。「大丈夫」と言っているのですがね。でも、声をかけてもらうだけでも有難いのです。というのは、すれ違う時は実際に顔が見えなかったりしますし、視野が狭かったり、視力が悪かったりすると、相手の挨拶を無視していると捉えられるケースがあるのです。

実際、障害をきちんと話していない時にはこういうことがありました。だから、「アイツはちょっと生意気だ」という声があったようです。それに関しても、学科長は熱い人なので「シマさんのことを『挨拶をしないヤツ』などと言っているヤツは許さん」とか言うので、「いやいや、学科長抑えて、抑えて。学科長抑えて」と言いました(笑)。「この人は何でこんなに親分肌なのだろう」と思ったりもしましたが、そういうふうにして次第に理解を拡げていったわけです。

そして、復帰した初年度ですが、自分では絶対に無理をしないと決めていました。授業数も与えられただけを淡々とこなすと。ただし、初年度に1つだけ自分に課したことがあります。初年度に無理をしてでもやってみようと思ったのは、学会に行くことと、故郷に帰ることです。学会に白杖を持って行って、昔からの研究仲間に「今の自分の状態はこうである」と伝えること。また、十数年会っていない高校・大学の同級生に対しても「自分の状態はこうである」と、きちんと打ち明けることにしました。ここだけは絶対にやろうと思って、無理をしてもやりました。

これは正月にやり終えましたが、その後には「伝えられた」という安堵感がありました。風のうわさで聞いていて、皆が心配をしているわけです。でも、「意外とOKだね」という話になって、安心をしてもらえたわけです。自分自身でも「こういう状態になっている」ということが言えたので満足をしたわけです。
そして、わかったのは、たとえ白杖を持っていようが、私に対する評価は変わらなかったということです。私が白杖を持って学会で発表したとしても、評価されるのは私の研究そのものがどうかということであって、私の人間性や、物理的に実験が制約されていることなどは、どうでもいい話なのです。これは科学者の世界の良いところで、あくまでも結果だけということです。

そして、友人たちも「別に白杖を持ったからと言って、君が変わったわけではない」と。「不便になったのはわかっているが、変わっていないのを見て良かった」としか言いませんでした。これで心の重荷が解けました。結局、それが出せなかったために、私は十数年も友達に会っていなかったところがあったのです。
なぜ支援が上手くいっているのかという自己分析をします。1つには、どう考えても私が高等教育機関に勤めているというのが1つの理由で、特に高専だからだと思います。私の場合には自己裁量が広いのです。会社員で皆に囲まれて仕事をするというわけではないですし、授業と今はクラス担任をしていますが、それさえしていればOKなのです。

要するに、立場として中小企業の社長に近いわけです。自分のやり方でできる部分がすごく大きくて、ここは少し皆さんと違う部分なのかと思います。事実上、学科長はいますが、学科長は月に1回の学科会議で会うかどうかという感じで、基本的に上司はいません。そして、100平米ぐらいの広さの研究室を持っているのですが、そこは私の城です。

卒業研究で配属される学生がいるのですが、その学生に対して、私は2つのことを言っています。1つは、整理整頓ということで、使った物は絶対に同じ場所に戻すことです。もう1つは、視覚障害者に、「こそあど言葉」を使うなと。見えないのだから、「ここの…」とか言わずに、どこなのかもっと言いなさいと。「右から5センチ、左から10何センチ」というように、きちんと単位で言いなさいと。

また、私は学生にも支援を求めていて、授業をする時には、まず自分の状態を説明します。「見えないところがあるから、どうしても授業はこのスタイルでやらないといけない。そこは了承してほしい」と最初に言います。「だから、板書などもほとんどしないし、スライドを使うけれどもOKかな」と言うようにしています。

そして、お願いをするわけです。「来る前にプロジェクター等を用意してもらえますか」と。あとは「教卓の周りに何か邪魔な物があったらどかしてもらえますか」。学生が積極的に用意をしてくれるのです。だから、この辺も味方をしてくれるわけですね。

また、研究に関しては「顕微鏡学者をしている」と言いましたが、私自身はもう直接見てはいなくて、学生が私の目になっています。だから、学生が持ってくるのは学生が自分で撮った顕微鏡画像になります。まだうっすらとは見えるので、私はそれを横で見ながら説明を受けるわけです。「これはどういう画像か」と聞くと、「○○の画像です」と。「オレの目にはこういうふうに見えているけど、それでOKか」と言うと「OKです」と。「では、次の画像に行こう。次の画像はどうなっているのか」と聞くと、「これは○○になっている画像です」と。「ここはこう見えるけど、この解釈でOKか」と言うと、「大丈夫です」という感じです。

つまり、自分の目は徹底的に疑っているので、学生を側につけながら画像の解釈をして、実験を前に進めています。その代わり顕微鏡の使い方は結構難しいですから、学生が実験をする時には側にいて「これは〇〇の値に設定してから何々をして、○○マイクロメートル下げてから、こういうふうに見なさい」という具体的な指示をします。そういう指示をして、「どう見えるか」と聞きます。「○○です」と言ったら、「では、ここを○○に変えて、こうしなさい」というような指示をします。

ですから、学生は完全に私の目となって、データを取って実験を進めています。そういう形で進めると、学生も次第に原理を理解していって、しまいには自分で(データを)取れるようになります。そうすると、あとはもう上がってきたデータを見るだけなのです。

そして、私が良かったなと思うのは、自分には実験をする能力がないという理由で、自分で実験することを潔く諦めたことですね。それがかえって良かったのです。なまじ自分が実験に執着していたら、多分単純にフラストレーションがたまっていたと思います。

ところで、テクノロジーの進化過程について話をすると、実は研究に関してもそうですし、今やっている仕事に関してもそうですが、確実に私を助けているのはテクノロジーの進化です。顕微鏡を使った実験をしていますが、今はデジカメの性能が良いため、顕微鏡の画像を直接見るようなことは、ほとんどありません。カメラにつないでから、カメラに映した画像を今度はコンピュータに出すわけです。

その結果、コンピュータで自在に拡大をしたり、コントラストをつけることができるのです。今はカメラの性能が良いため、自分の目で見るよりもずっときれいな画像が撮れるのです。そして、コントラストを拡大できるので、まだぎりぎり私の目でも判断ができるわけです。これが、20年前のフィルムで撮っている時代であれば、絶対に無理です。そういう意味で、テクノロジーに助けられています。

もう1つ、テクノロジーに助けられているところはデジタル化ということです。授業もそうですが、基本的にテストはマークシートにしています。スキャンをして採点するので、まずミスがありません。そして、小テストも全部Webで行い自動採点をしています。だから、これもミスがほぼ出ません。また、学生からは様々なデータや履歴書などの訂正を頼まれることがありますが、今回布石で打ったフォームを使って、学生から全部データを回収しています。

つまり、基本的には紙を避けています。データを全部デジタル化すれば、音声リーダーを使って読めるわけです。ですから、いかに紙を使わないかという部分では、かなりデジタル技術を使っています。これができるからこそ仕事ができていると言っても、過言ではありません。

ということで、視覚障害者になっても仕事を続けていくからには、支援が必要なのです。正直に言って、私の場合は支援がかなり上手くいっていると思います。なぜ、そこが上手くいっているのかは、私にもわからない点ですが、やはり工夫が要るのではないかと思います。では、どんな工夫が要るのかというと、やはりテクノロジーであって、今はIT関係です。できるだけ紙を避けるのはその点になりますが、そこを組み合わせてやっています。

今後、私の目は悪くなっていきますし、どこまで続けられるのかはわからない状況です。ただ、支援と依頼と工夫を続けることが、今後も永遠に続いて行くだろうとは思っています。

こうして話ができているのも、ひとえにタートル、視覚障害教師の会、地元の視覚障害団体、そして友人、同僚、家族に支えられて今があるからです。最後にお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。