中途視覚障害で「壊れた」けれども、結構いい感じに復職した気がする

情報誌タートル 第46号 2019年3月

(6/27/2019 改変)

タートル会員 島袋 勝弥


私は宇部工業高等専門学校で教員をしている。国指定の難病、網膜色素変性症 (RP ※1 )のために視覚が悪化し、今では右目が手動弁 (※2)、左目は矯正視力0.7 (視野2度程度) である。要するに、針の穴程度の小さい隙間から外界を見ている状態だ。そのため、できないことも多々あるが、職場の理解と温かい支援により、私は今も働き続けている。ここでは、私の休職から復職までの体験談と職場からの支援について紹介していきたい。まずは少々自分語りをさせてほしい。

※1 網膜色素変性症 (RP)、目の網膜にある視細胞が徐々に死んでいく眼病。現在、治療法はない。※2 手動弁、目の前で手をぶらぶらさせたら、それが認識できる程度の見え方のこと。

私は22歳のときにRPと診断された。そのとき既に、私は重度の視覚障害者 (※3) になっていた。以前から、自分の目の異変には気づいていた。あるとき、もしかして自分はRPなのではと疑い、眼科医の判断を仰いだ結果だった。生命科学を専攻していただけに、自分の目で起こっていることはすぐに理解できた。そして、手のつけようがないこともわかっていた。ただ、徐々に目が悪くなっていくことを受け止めるしかなかった。しかし、研究への憧れは捨てきれなかった。というのも、そもそも私は研究者になるために沖縄から遠く離れた東京の大学に進学したのだった。診断されたときは、その研究者への道を歩み始めた頃、修士2年の夏だった。このまま博士課程に進むか多少迷いはあった。当時の指導教官、吉田賢右先生だけには状況を伝えた。「博士課程には進む、しかし、目の状態によっては途中で進路変更するかもしれない」、その意識だけは共有してもらった。そして、それは2人だけの秘密だった。

学生時代の研究は決して順調ではなかった。ようやく博士最終年度に英語論文を出し、学位を取得した。そのころ私は、常に今後のことを思案していた。気がつくと、公務員の障害枠の募集を見ていたこともあった。障害者の就労斡旋をするエージェントに登録しようかとも考えた。でも、「海外で研究をする」、これは上京したときから決めていたことだった。人生は一度しかない。そして、後悔はしたくない。後の人生で「海外で研究したかった。」など、ブサイクなことを言う自分には絶対になりたくなかった。よりによって私は、車社会のアメリカで研究員することを選んだ。しかも、留学先はほぼ無名の州立大学だった。このときから、私はいわゆる出世コースから外れることは予期していたが、それはあまり気にならなかった。元来、私は戦略的に生きることには長けていないし、今でも正面突破を試みるような自分の不器用さを自覚している。

※3 身体障害手帳1,2級の障害者。手帳は1-6級まであり、1級が最重度であり、数字があがるほど軽度になる。私は2級。

アメリカ生活では、とにかく生きることにエネルギーを奪われた。週末ごとの大量の生活用品の買い出し、子供の誕生、育児、自動車事故、娘の公的保険への加入など、事務作業が滞りがちなアメリカでは常にストレスを抱えていた。思えば、この頃から無理をして心身を削っていたのだと思う。結局、私はアメリカでは華々しい研究成果をあげることはできなかった。私は半ば逃げるように日本に帰った。アメリカのボス、Tomは、私にスタンフォード大学の名門研究室でポスドクを続けることを勧めてきた。自分が推せば、絶対に採用されるとも断言していた。Tomが私のことを高く評価していたことはありがたかった。しかし、目の悪化もあって、私は帰国を選んだ。タイミングが良いことに、恩師の吉田先生が1年間ポスドクとして雇えるとのことだったので、その言葉に甘えることにした。ありがたいことに、吉田先生はずっと私のことを気にかけていた。

東京に戻ってからは、障害枠での職探しが始まった。その時には、もうとっくに研究に未練もなく、どんな仕事でもよいと考えていた。エージェントに登録した私は、自分の学歴と英語力があればどこか決まるだろうとたかをくくっていた。しかし、現実は厳しかった。面接には呼ばれるも、内定はほとんど出なかった。1つだけ熱心に誘ってくれる企業もあったが、提示された年俸では東京生活を続けることは無理だった。そこで、私は方向転換し、アカデミアでの職探しも始めた。といっても、結局、応募したのは今の職場だけだった。教育経験が皆無だったにも関わらず、運良く内定が出てとても安心した。ちょうどクリスマスのころの話だった。その後に、複数の大学から助教の話も来たが、任期付きなので断ることにした。正直、8年間も任期付きで働いてきたので、もう懲り懲りだった。こうして私は思いもよらず、教員になることになった。

教員生活の始めはすこぶる順調だった。新天地での研究と教育、そして学生とのからみも楽しく、これが自分の天職だとすら感じていた。その頃、アメリカ時代の研究が評価され始め、学会で若手賞をもらった。私には無駄に勢いがあった。ところが、2015年頃に右目の視力を失ってから、私の人生の雲行きは怪しくなった。「まだできる」と自分を欺き、働き続けた結果、私はまもなく見事に心身ともに「壊れた」。2016年の冬、休職を余儀なくされた私は、病院のベッドの上で今後をただ悲観し、自分に関わるすべてのことを投げ出したかった。しかし、そこで終わるのも納得できなかった。とにかく現状を何とかしたいと願い、恥も外見もなくタートル(旧 中途失明者の復職を考える会)にすがるように相談した。

そこからの展開は早かった。北九州市の高橋宏先生との出会いと診察、その1週間後に開かれたタートル相談会を経て、私は福岡視力障害センター (福岡視力、※5) で日常訓練 (リハビリ) を開始することになった。福岡視力でのリハビリは決して平坦ではなかった。途中、精神的に行き詰まり、一時離脱もした。そこで出会った山田信也先生は、ロービジョン界 (※4) のカリスマと呼ばれていた。彼はずっと「島袋さん、あなたの右目はもうダメです。だけど、左目は訓練することでまだ使えます。」と言い続けていた。私は内心、そんなバカな、もうひとりでも歩くことができないのにと思っていた。山田先生が担当していたロービジョン訓練は、眼球の運動訓練と言うよりも、なにか宗教的な教えのようでもあった。振り返ると、山田先生の言葉は正しかった。今、私は白杖を使っているものの、ひとりで行動できるようになった。それどころか、出張もそれほど苦にならなくなった。必要があれば、平気で人の助けを借り、目的地にたどり着く厚かましさが備わった。

※4 Low Vision、いわゆる視覚障害の世界のこと。場合によっては全盲も含む。※5 国立の視力障害センターでリハビリやあんま・針・灸のコースがある。

福岡視力での一番の財産は、やはり仲間だった。皆、人生の途中で視覚障害者となり、あるものは継続就労へ、またあるものは職種転換をするためにもがき苦しんでいた。境遇が近いだけに、心の底からすぐに打ち解け合えた。門限があるにも関わらず、よく飲みにもいった。その当時の仲間とは今もつながっている。皆、それぞれの道に戻り、元気そうにやっている。その全員が視覚障害者のロールモデルだと思う。

私は2017年の12月終わりに、福岡視力でのリハビリを終えた。リハビリ中も私は、学校に定期的な現状報告をしていた。復職の話が出始めた頃、人事係長が中心となり、学内に私の支援チームが立ち上がった。学校側にはもちろん、視覚障害者の受け入れに戸惑いがあった。お互いに手探りな状態の中、私はチームとの話し合いを重ね、今の自分にできることできないこと、必要な支援を具体化していった。そして、私は2018年4月に復職した。これといった自信もなかったが、最後は直感でエイヤと決めた。もしダメなら、もう一度休職して考えよう、無責任だが、それくらいの軽い気持ちだった。それにしても当時の人事係長の動きは見事だった。細かいことにも気を配ってくれ、私の復帰を後押ししてくれた。彼女でなければ、私の復職にもっと手間取っただろう。

復職後、私は職場からは物理的、人的な支援を受けている。まずは私の安全確保が最優先された。私がよく利用する階段には手すりがつき、学校への出入り口には点字ブロックが敷かれた。夜間、安全に歩行できるようにと街灯も増設された。それだけでなく、学校側は市にも働きかけ、校舎に面した市道の側溝すべてに蓋がされた。さらに学校は、福祉機器を購入するための予算も確保してくれた。おかげで拡大読書器、電子ルーベ、スクリーンリーダーなど一通り揃えることができた。物理的な支援としては完璧に近かった。

人的支援として、非常勤の事務補佐員員を私にあててくれた。補佐員は週に2回、3時間ずつ研究室にやって来る。補佐員は事務書類の作成、講義資料の準備、代読などさまざまな作業を手際よくこなしてくれる。おかげで、私の仕事効率は格段に上がった。同僚教員にも助けられている。例えば、私が苦手な試験監督業務を補助してくれる。仕事をしていれば、飲み会もある。そんなときも同僚たちは、ごく自然に私に肩を貸し、手引き (※6)を してくれる。お酒もコップについでくれ、デーブルの料理を小皿に取り分けてくれる。だから私は、安心して飲み会に参加できる(しすぎる?)。周りの何気ない心遣いにもほっこりする。図書室に行けば、司書さんが声をかけてくれ、私の代わりに本を探してくれる。とても助かるので、いつも甘えることにしている。学科長も漢だった。教員会議の席で皆に資料を配り、私の代わりにマイクを握り、私の障害について丁寧に伝えてくれた。不思議なことに、私はその場にいながら極めて冷静だった。学科長は頼もしい、そしてこんな経験をする人間はそういないだろう、この雰囲気をしっかりと味わおうと話に耳を傾けていた。

※6、視覚障害者を安全に誘導する方法。

気遣いができるのは大人だけでなく、学生も同じだ。とくに気が利く女子学生はよく動く(そして、よく喋る。カンベンして。。)。私の代わりに講義資料を配り、プロジェクターを用意してくれる。おかげで、私は講義をスムーズに始めることができる。学生の中にはやんちゃなやつもいて、講義中に堂々とスマホをいじり続ける。それを見つけた私が、「俺に見つかるとはよほどだぞ!」とスマホを没収することもある。してやったりと思う(ロービジョン、なめんな!)。

高専教員は教育者でもあるが、同時に研究者でもある。視覚障害者にも関わらず、私は顕微鏡を使った研究を続けている。あえて難しいことをしているのは重々承知しているが、顕微鏡が捉える生命の美しさには逆らえない。幸い、私には卒研生という強い味方がいる。彼らが私の「目」となり、実験してくれる。もちろん、画像を見ながら学生とディスカッションすることもある。そのときは、パソコンで画像のコントラストを強調し、学生にも口頭で説明してもらう。このやり方で、私の研究は着実に進んでいる。実験するのは、別に自分でなくてもよい。その代り、学生には顕微鏡の原理、使い方を徹底的に叩き込んでいる。そうすることで、信頼できるデータが出てくる。

以上、私の経験を振り返ってみた。正直、私の場合は幸運だったと思う。障害に理解のある職場や仲間に恵まれ、「合理的配慮」の追い風もあった。視覚障害者の優れた就労事例を表彰する「isee! “Working Awards”」で入賞できたのも、職場の支援体制が高く評価されたからだ(詳細はhttp://isee-movement.org/contest/excellent/1746.html)。終わりに、私はTwitter(https://twitter.com/entyu_fl)で情報発信をしている。興味ある方はフォローをお願いしたい。