面倒見がいい

就職1年目は、1年生の担任。

2年目も1年生、3年目に2年生と低学年の担任が続きました。

1年目に1年生と言うことは珍しいことで、若い男の教諭が低学年を持てたことは、子どもの本質を知る上でとてもよい経験となりました。

低学年の子、小さい子、ということで、とても手をかけてきたことを思い出します。

例を挙げると「ボタンがとれた子がいればつけてあげる。」「プリントは丁寧過ぎるほど細かい指示内容が組み込む。」「給食の配膳の時は、こちらでどのぐらいかを伝え、熱いものなどはこちらでよそう」「子どもたちがやりやすいようにできるだけ準備をする」などなど。

当然、子どもたちは迷うことは無く「面倒見がいい先生」と言われていました。

しかし、その数年後から、私はなんてダメな教師だったんだろうと思うようになりました。

子どもの芽を摘んでいる教師だったと思いました。

では、なぜダメだったのでしょうか。

ボタンがとれた子。

こちらで気付いても、こちらからは声をかけず観察しなくてはいけなかったと思います。

自分でつけることができないのであれば、とれてしまったことを教師や親に伝える。

その「話す」と言う機会を奪っていました。

持ち帰るのであれば、ボタンをどこにしまうのか。

なくさないようにしまわせたいというのが本音ですが、将来のことを考えると失くすのもよい学びです。

その機会もなくなってしまいました。

ボタンで遊び始めるかもしれません。

その遊びの中には、円を使ってなぞって、上に紙をのせてこすったり、回してみたり・・・。

その機会もなくなります。

どうしても困る時にだけヒントを与え、自己決定させなくてはいけないのだと思いました。

教師もたくさんの子がとれてしまった時、たくさんの子のボタンをつけるたくさんの時間を他のもっと大切な指導の時間に回せます。

給食もどうでしょう。

以前の方法であれば、時間はかかりません。

教師は楽です。

しかし、初めのうちはたくさんよそい過ぎて戻してもらったり、少なくよそい過ぎて後から足したり、時間はかかっても確実に力はつきます。

また、すごいやけどになるようなものは出ませんから、熱いものを熱いと感じる体験も必要です。

このように「よい意味で」面倒を見過ぎない、「手をかけ過ぎない」ということの大切さを知りました。

ある3年生を持った時に他の先生から「あなたの指導は高学年の指導だ」と言われました。

その先生曰く「中学年にはできない」ということでした。

そうでしょうか?

全ての中学年の児童にできないのでしょうか。

私は「できない」でなく「やる機会を与えていない」だと思います。

立てない赤ちゃんに立って歩けと言うのは無理でしょう。

しかし、考える活動など「やらせていくうちにできるようになる」加えて「時間がかかってもやらせないとできるようにならない」ことをこの年齢だからとやらせていないと決してできるようにはならないと思っています。

そして、高学年になってから、やる機会を持たせて「なんでできないんだろう」という指導を何回も見てきました。

それまでに積み重ねていないのですから、「高学年の指導」になってから突然求められても「そうでなくてもよい」と体得してしまった児童ができる訳がありません。

はじめから道筋を敷いて指導することは敷くための準備や手間がたいへんです。

手がかかります。

ある程度それも必要なところがあると思います。

しかし、ある程度の子とろから先は「まかせる」「やる機会を与える」ことをしないと、できるようにはなりません。

そのためには「口を出せない」我慢や時間との戦い、授業の計画、結論を自分で考えさせるために個々の児童に合わせた助言など「こちらでやっておく」に比べてもっと大変なことがあります。

理科の授業でマッチをするのが怖くて泣いた子がいました。

いろいろな体験する機会が無くなっていることもあるとは思いますが、いかがですか。

余りに手をかけ過ぎて子どもの成長の機会を奪っていませんか。

放任主義という名を借りた「放し飼い」のような教育はよくありません。

しかし、見ている前でやってみさせ「手を出したい」「口を出したい」のを我慢して本当に危険な時に止めてあげる。

そのことが子どもを成長させていくのではないかと思っています。