カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本権力構造の謎』

読書さとう

私はこの本を早川文庫で1995年に読んでいたと思います。篠原勝の訳でした。

外国人が書いた日本人論といえば、私が最初に接したのはルース・ベネディクト『菊と刀』だったと思います。次が「イザヤ・べンダサン『日本人とユダヤ人』」です。ただこの著者は今では、山本七平だったと分かっています。

思えば、この二つの本についても私はまたいずれ書いて行きます。

この書物は「日本はアメリカが総力をあげて戦ったもっとも異質な敵国」ということから、その「異質」とは何なのかということを分析したものだと言えると思います。ただ、私はもともとルース・ベネディクト『菊と刀』に書いてあることに感心しながらも何故か違和感があり、そのように思う自分の感じ方に安心もしていました。この「日本/権力構造の謎」でも最初に次のようにあります。

日本人のあいだでは、自分たちの文化はユニークだということが、ほとんど信仰のようになっている。それも、すべての文化はユニークである、という意味でのユニークさではなく、いわくいいがたいユニークさ、究極的に他の文化とは異なる、ほんとうにユニークはユニークさである。それは日本人のユニークな感受性の源であり、そのために外国人がそれに言及してはいけないということはないにせよ、理詰めに追及されることからは守られているというものである。外の世界と比較する場面が生じるたびに、日本人は学校でも会社でも、報道メディアや役人のスピーチを通して、日本という国は特別なのだと言い聞かされる。(1章“ジャパン・プロブレム”)

私も「結局は、ベネディクトだってアメリカの女さ、日本の本当の姿なんか判らないさ」と思ってしまうところがあったわけです。このK・V・ウォルフレンは、そうしたところから、日本人とは何かというところへ入っていきます。彼が書いたものも結局はそう言われてしまうのではということを念頭においていると私には思われます。

日本は幕末開国に応じたときから、欧米との異質さに気づきました。その異質さを充分に認識して、それを日本の独自性として訴えていこうというすることをやってきました。だがそれは大東亜戦争の敗北ということで終りました。

そのあとの時代は、この日本の異質さを主張するのではなく、もはや日本も欧米と同じ形の社会を作っているのだと日本人は意識してきました。もう日本も欧米からとやかく言われることはないはずなのです。だが、今の今こそ、「日米構造協議」の指摘があったり、市場解放の要求を突き付けられています。まだ日本には「異質」さが存在していると指摘してくるのですが、実は日本人のほうは、その言うところが理解できません。もう欧米と戦争する気はないし、充分社会体制を変えてきたし、国際貢献もしているはずなのに、欧米は一体何が不満なのだと日本人は思い込んでいます。

ここのところに、この著者は一番問題があるのではと考えています。どうして日本人はそうした日本の持ってしまっている異質さ、違う社会構造を作りあげてしまっているのかということに気がつかないのだろうか。それはそうした日本人の意識を作りあげてしまっているものが、まさしく日本の「権力構造の謎」なのだということでしょう。かの戦争で敗北してしまったから、終ったわけではない。まだまだ日本が自らの「異質」さを明確に認識できないかぎり、この日本の不可解さともいう存在感はなくならないのではというところでしょう。

そしてそうしたことを強く指摘しているのが、この著書であり、今後もさらに著者は私たちに強く指摘してくると思われます。ただ、この著書はかなり膨大なる量であり、著者の緻密な情報収集と丁寧な取材に感心します。ちょっとこれだけで紹介できるものではないことは、ここで言っておこうと思いました。