猫の島が見る夢は

『春海ちゃん、猫好きだよね。ちょっと頼みたいことがあるんだけど』
 その手紙がわたしの元に届いたのは、桜の花が開きはじめた四月上旬のことだった。 長月美弥が残した最後の手紙は、とてもそっけないものだった。
 十八年ぶりの手紙だというのに、「元気にしてた?」の一言もない。まるでわたしが十八年前と変わらず元気で、あのころと同じように美弥のわがままを聞いてあげると確信しているようだった。
 わたしがその手紙を見せられたのは、都内の弁護士事務所だった。 突然の電話で呼び出された先で、わたしは美弥の遺骨と対面することになった。きれいな布で包まれた桐箱を前にして、「どういうことですか?」と問うわたしに、事務所の主である弁護士は一枚の便箋を手渡した。
 猫のキャラクターがプリントされた便箋の上には、子供のような丸っこい文字がおどっている。懐かしい美弥の字だった。
「長月美弥さんの遺言です。正式な遺言書は別にあるのですが、こちらはあなた——結城春海に宛てた、個人的な連絡とのことでして」
 人の良さそうな中年の弁護士は、わたしと目が合うと「すみません」と言って顔を伏せた。
「なぜ長月さんが私に遺言の委託をしたのか、私にもよく分からなくて」
 世界的な生物学者にして、言語学者――それが長月美弥の肩書きだった。 晩年はアメリカを活動拠点にしていた彼女が、なぜ見ず知らずの日本人弁護士に依頼をよこしたのか。依頼された側は困惑するしかないだろう。
「さあ。天才のすることなんて、誰にも分かりませんよ」
 そう返答しながら、わたしはさきほど受け取った名刺に目を落とした。名刺の左上には「猫田リーガルオフィス」と事務所名が記載されており、その横には可愛らしい猫のイラストが添えてあった。 美弥が依頼した理由はきっとこれが理由だろう。だがそれを話したところで、余計に猫田さんを困惑させるだけだろう。 わたしは黙って美弥の手紙に目を落とした。
『あたしの身体がなくなったら、春海ちゃんにやってほしいことがあるの。それはね——』
 その下には、わたしへの頼みごとが簡潔に記されていた。
「オワァアン、アオーン」
 わたしが手紙を読み終えるタイミングを見計らったかのように、足下に置かれたプラスチックのキャリーケースから、動物の鳴き声がした。なめらかで、甘えるような声だった。 しゃがみ込んでケースの脇にある小さな透明な窓を覗き込む。窓の向こうから、色違いの二つの瞳がわたしを見つめてきた。
「アォンッ!」
 そこにいたのは、真っ白い毛皮の四足獣――美弥がわたしに託した猫だった。
「よろしく、猫ちゃん。名前は、えっと……」
 美弥の手紙を見直す。
「……カローンっていうのね」
「ウー……」
 美弥の猫——カローンは、けだるそうに鳴いた。
「呼びにくいから、カロで良い?」「アーオ」
 カローン改めカロは、甘えるようにひと鳴きし、ケースの中で丸くなって寝てしまった。ずいぶん勝手なやつだな、と思いながら、わたしは美弥の遺書の内容を頭の中で反芻する。
『あたしとカローンを、ある場所に届けてほしいの。届け先は——』
  *
 翌日、わたしは船の上にいた。
 小型の連絡船の縁に立つわたしの髪を、瀬戸内の優しい汐風が吹き上げる。 売れないフリーライターなんて身軽なものだ。わたしは美弥の遺言を読んですぐ、付き合いのある数少ない編集者に「取材に行ってきます」とメールを投げ、旅行の準備に取りかかった。
 持ってきた荷物は、ノートパソコンとスマートフォン、数日分の着替え、化粧道具と洗面道具、旧式のカセットプレイヤー。 そして、猫。
 目指す先は、瀬戸内海に浮かぶ空霞島――通称「空猫島」である。 地元の人は空猫島のことを、ただ「猫島」と呼ぶこともあり、このあだ名は島に住む猫たちに由来する。人間の住人は二十人にも満たない空猫島だが、猫の数は百匹をゆうに超えるそうだ。 辺鄙な島ではあるが、猫目当ての観光客が意外といるらしい。猫の世話は島の住人だけではまかないきれず、本土のNPO法人も協力している――というのが、わたしが事前に調べた情報だった。
 遺言を読んで初めて知ったが、この空猫島こそが美弥の生まれ故郷だった。 大学時代の三年間、わたしといっしょに暮らしていたとき、美弥は自分の故郷や家族の話は一切しなかった。わたしからその手の話を振ったこともない。聞かなかったのは単純に興味がなかったからなのだが、美弥はわたしのそんな大雑把な性格を好ましく思っていたようだった。
 初めて出会ったころから、美弥は変わった子だった。 春の瀬戸内の風に当たりながら、わたしは学生時代のことを思い出す。 大学二回生の四月だった。新歓シーズンだ。 当時わたしは小規模な文芸サークルに所属しており、新入生の対応にあたっていた。 サークルBOXに集まった数名の入部志望者のなかに、美弥はいた。
 体格が小さい上に化粧っ気がないので、はじめは中学生か高校生が紛れ込んでいるのかと思った。 髪はカラスの羽のように真っ黒で、肩口で無造作に切りそろえられていた。無造作なのは服装も同じで、上は毛玉のついたパーカー、下は安物のジーンズとスニーカーという出で立ちだった。おまけに、何が入っているのかは分からない巨大なナップザックを背負っている。 こういう垢抜けない女子学生が来ると、男の先輩方はどこかよそよそしい対応になるのが常だったが(わたしはそれが大嫌いだった)、美弥の場合は違っていた。先輩たちは積極的に話しかけにはいかないものの、美弥から目を離せないでいた。
 なぜかと言えば、度を超えた野暮ったさを差し引いても、美弥は桁外れに可愛かったからだ。 なめらかな曲線を描く頬。少し上向きの、形のいい鼻。口紅もしていないのに、華やかな薄桜色をした小さな唇。 なによりも印象的だったのは、大きくて丸くて黒目がちな瞳だった。瞳に宿った光はどこか神秘的で、子供のような無邪気さと、超越者の知性のようなものを感じさせた。
 侵すべからざる美というのは、ああいうもののことを言うのだろう。 誰も美弥を無視することはできなかったが、声をかけることもできなかった。 そんな中、気を利かせて——いや、気まずさに駆られて——美弥に話しかけたのが、わたしだったのである。
「ねえ、あなた学部はどこなの? わたしは文学部」「学部?」
 わたしが尋ねると、美弥は小首をかしげながら大きな目でわたしを見上げた。
 話を聞いてみると、彼女はそもそもうちの大学の新入生ではなかった。近くにある別の大学の人間で、年もわたしと同じ二十歳だという。 驚くわたしに、美弥は一枚のカードを巨大なバッグから取り出して見せてくれた。緑色の小さなカードには、少し離れた場所にある超名門大学の校名と、美弥の生年月日が記載されていた。
 うちのサークルは他大学の学生を受け入れたことがなかったので、美弥の入部は見合わせになったのだけど、彼女はそのあとの歓迎コンパと二次会にまでついてきた。 ちょっと図々しい子だなとは思ったが、美弥は話していて楽しい子だった。 見てくれは可愛かったし、わたしが知らないことをたくさん知っていた。大学では生物学をやっていると言ったが、彼女の関心は物理学や工学といった理系の学問だけではなく、文学にまで及んでいるようだった。 わたしは飲み会の間、ほかの新入生そっちのけで美弥と話した。
 話を聞くと、美弥がサークル見学にきたのは、うちの部誌に載っていたエッセイが気に入ったからだそうだ。 そのエッセイは子猫の日常を描いたもので、何を隠そう作者はこのわたしだった。 それを伝えると美弥は大いに喜び、わたしも少し誇らしい気持ちになった。
 二次会が終わり、ほろ酔い加減の面々が解散すると、わたしも帰途についた。 暗い夜道。ふと後ろを振り返ると、そこに美弥がいた。
「あなたの家もこちらなの?」
 驚きながら聞くと、美弥は首を横に振った。
「おうちはないよ」「ないって……どういうこと? これまでどこに住んでいたの?」「ホテル」「ホテルって……」
 カプセルホテルにでも泊まり歩いていたのだろうか。大学生なのに? いぶかしく思ったが、美弥の抱えた大荷物を見ると、住むところがないというのは本当なのかもしれない……。 わたしが一瞬考え込むと、美弥はとんでもないことを言い出した。
「あたし、春海ちゃんのおうちに泊まりたい」
「なんでわたしの家?」「だって、春海ちゃんのおうちには猫がいるんでしょう?」
 だってもなにも、答えになっていない。 たしかに、わたしの下宿には猫がいた。大家さんが猫好きでペットOKなのをいいことに、友達の家で生まれた子猫を引き取ってきたのだ。
「子猫、見たい!」「なに言ってるの! あとで写メ送ってあげるから!」「写真はイヤ」
 しばし押し問答が続いたが、最後にはわたしが根負けした。 この不思議ちゃんを夜の路上に放り出すのはしのびなかったのである。
 自宅に帰り、玄関のドアを開けると、小さな毛玉が飛び出してきた。 茶色と白の毛で覆われたフワフワの子猫は、わたしの身体にしばしじゃれついたあと、美弥を物珍しそうに見上げた。
「かわいい! この子、名前は?」「ミィちゃん」「ミィちゃん、はじめまして! あたしは美弥。春海ちゃんが留守で寂しかったのね、よしよし。これからはあたしがいてあげるからね」
 この日から、美弥はわたしの家に住み着くようになった。 小さな猫を迎え入れたばかりの我が家に、もう一匹大きな猫が転がりこんできたわけである。
  * 
「お客さんも猫が目当てですか?」
 低い声が、わたしを過去から現実へと引き戻した。 イヤホンを外して振り返ると、よく日焼けした三十前の青年が笑いながら立っていた。 わたしが乗っている連絡船の船員さんらしい。
「知り合いが飼えなくなった猫を、預けに行くんです」
 そう答えると、船員さんは「なるほど」と言い、わたしが手にしているキャリーケースを覗きこんだ。 カロが「ニャーオ」と鳴くと、彼の頬がほころんだ。この青年は猫好きらしい。
「綺麗な猫ちゃんですね。島ではお友達がたくさん待ってるよー」
 前半はわたし、後半はカロに向けた言葉だ。
「あの……島には、猫、多いんですよね?」
 なんとなく間が持たなくなって、当たり前のことを聞いてしまった。
「ええ、なんと言っても空猫島ですからね!」
 それから彼としばらく、島の話をした。 彼の話によれば、空猫島には70年以上前から多くの猫が住みついているらしい。
「長月さんという学者が飼い始めたらしいです。長月家は古くから島の庄屋を務めて、優秀な人が多く出ているらしいですよ。戦時中は軍の研究に協力していたとかで、戦後は本土に居づらくなって、島に戻ってきた……なんて話もあるようですけど」
 島の猫が増えたきっかけを聞くと、青年は笑いながらそう答えた。
「詳しい事情は知りませんが、長月さんのおかげで、空猫島は観光資源を手に入れたってわけです。猫と幽霊。この二つが、いまの空猫島の名物ですからね」
 幽霊。 青年の口から、意外な言葉が出た。
「幽霊が出るんですか?」
「ええ、こっちは猫ほど有名じゃないですけどね。十数年前から、あの島には幽霊が出ると、僕たち地元民の間で少し話題になっています」
 青年は照れたように笑った。
「実は俺も、亡くなった人の霊を見たことがあるんですよ。猫の世話をしていたおばあちゃんが亡くなったんですけど、それからしばらく経って島に行ったら、そのおばあちゃんが猫にエサをあげていたんです」
「エサを?」
「ええ。猫が十匹くらい固まっている場所に、おばあちゃんがエサを地面に置くのを見たんです。猫たちもおばあちゃんの姿が見えているようでしたが、出されたエサを食べようとしても身体が突き抜けちゃうんで、目を白黒させてましたね」
 わたしが黙って聞いていると、青年は自分の話を疑われていると思ったのか、また照れた表情を浮かべた。
「まぁ、信じられないかもしれませんが、ときどき不思議なことが起きます。人間だけじゃなく、猫の霊も出るんですよ。死んだはずの猫がときどき歩いているんです」
 生きてる別の猫と見間違えたのでは? 百何十匹もいるんですから、似ている子もいるでしょう——と口に出しそうになったが、黙っておくことにした。 死んだ猫の霊も、猫好きのおばあさんの霊も、きっと彼の願望が生んだ優しい幻だ。

  *

 やがて連絡船が島に着くと、わたしは船員たちに礼を良い、コンクリートの桟橋に下りた。 桟橋には十匹ほどの猫たちがいて、昼寝をしたり、あくびをしたり、かくれんぼや追いかけっこに夢中になったりしていた。
 遠くの方から、時報のサイレンのような音が聞こえた。普通のサイレンとは少し違う。耳慣れない曲調だった。
 空猫島は、寂しげな島だった。 まばらではあるが、民家や電柱はたっている。人が住んでいるのは間違いないのだが、人間の匂いのようなものが希薄だった。 わたしは事前に船員さんから聞いていた情報を頼りに、美弥の実家——長月家——を目指すことにした。そこにはもう誰も住んでいないらしいのだが、美弥が遺言で指定してきたので仕方がない。
 道を歩けば、必ず視界のどこかに猫がいた。 民家の屋根、道路の側溝、放置されたビールケースの下、植木鉢の影。猫たちはあらゆる場所に潜んでいて、わたしとカロに好奇の視線を送っていた。まるで島全体の猫に監視されているような気分になった。
「ウニャオ!」 
 キャリーバッグの中で、カロが不満そうな鳴き声をあげた。どうしたのだろう。外の様子が気になるのかもしれないし、おなかが空いたのかもしれない。 それはともかく、ここでバッグを開けてやるわけにはいかない。周囲には猫が隠れる場所は山ほどある。逃げ出されたら捕まえきれる自信がなかった。
「ウワーオ! アーオ! アアアーオ!」
 そんなわたしの思惑など知ったことではないというように、カロが大声で鳴いた。その声は、どこか往事の美弥を彷彿とさせた。

  *

「春海ちゃん、ごはん! ごーはーんー!」
 美弥とわたしが同居していたころ。 美弥はお腹が空くと、不憫そうな声を出しながら、わたしの周りをうろうろするのが常だった。美弥が騒ぐとミィも真似してミャーミャーとごはんの催促を始める。
「うるさい! 分かった。なにか作ってあげるから、おとなしくしてなさい」
 そう言い聞かせると、美弥はいつもうれしそうな顔をして、ミィを抱えてリビングの椅子にちょこんと座るのだった。
 美弥はわたしから食べ物をもらうのが好きだった。外食はほとんどしていないようだった。 それは決して美弥が貧乏だったからではない。 むしろ美弥はお金持ちだった。子供が使うような猫のワッペンがついた財布には、わたしが見たこともない真っ黒なクレジットカードが何枚か入っていたし、ぱんぱんに荷物を詰め込んだナップザックには、一万円札を無造作にゴムで括った束がゴロゴロ入っていた。 そのくせ、服はろくに買わないし、携帯電話も持っていなかった。
 大学にはあまり行ってないようだった。 大学の用事がないとき、美弥はたいていわたしの家でゴロゴロしており、ミィと遊ぶか、昼寝をするか、旧式のポータブルカセットプレイヤーで音楽を聞くかしていた。カセットの中に入っている曲はだいたい猫にまつわるものか、あるいはノイズとしか思えない奇妙な音楽だった。美弥はよくそれを聞きながらミャーミャーと奇声をあげていた。 だが、ときどき思い出したようにナップザックの中身を漁り、ノートパソコンのキーボードを一心不乱に叩きはじめることがあった。そうなると美弥と仲良しのミィも釣られて、わたしのノートパソコンにバシバシと猫パンチをお見舞いするのであった。
 奇妙だが、幸せな生活だったと思う。
 美弥はまさしく、大きな猫だった。甘えたいときに甘え、興が乗らないときはゴロゴロ寝てばかり。 ときどきよく分からないものに興味を示して騒ぎ回る。温かいものが好きで、狭いところに閉じこもるのが好きだった。 よくわたしにくだらないいたずらを仕掛けてきた。そしてわたしが叱ると、美弥は決まって小首をかしげ、子猫のような瞳で見上げてくるのだった。 わたしは、そんな美弥を見るのが大好きだった。
 当時、美弥には奇妙な習慣があった。 どこからともなく次々と捨て猫を拾ってくるのである。いや、拾ってくるだけなら別に奇妙ではない。猫好きのネットワークでもあったのだろう。 不思議なことに、美弥は保護した猫を片っ端からどこかに送り出してしまうのである。そんなに次々と里親が見つかるものだろうかと、わたしは少し不審に思っていた。 それに、猫好きの美弥が捨て猫たちを手元に置きたがらない理由も分からなかった。 幸い、うちで飼っているミィは気性が優しく、別の猫と同居しても問題を起こす子ではない。ほかの猫がきても、上手くやっていけるはずだ。
「うちで飼えば良いのに。お金はあるんでしょう?」
 わたしが聞くと、美弥は少し困ったような顔をして、何も答えなかった。 美弥はせっせと猫を拾ってきては、自分のお金で予防接種や避妊手術などを施していった。それらを済ませるころには、美弥はすっかり捨て猫に情が移っており、別れのたびに「元気でね」と言って涙を流し、別れを惜しむのであった。
 奇妙なことをしていると思った。 しかし、美弥の細かい奇行はほかにも山ほどあったので、わたしは深く気にすることもなく、追求もしなかった。

  *

「オワァアン! アーオ! アーオ!」
 カロの鳴き声は、どんどん大きくなっていく。どこか具合が悪いのだろうか? わたしは道ばたで立ち止まり、キャリーケースを地面に置いた。窓から中を見ると、カロはいたって元気そうである。
 つい仏心を出してしまい、キャリーケースのふたを開けてしまった。 カロはするりとケースから這い出ると、わたしの足下にまとわりついた。その姿は、昔の美弥の姿を思い起こさせた。
「おなかがすいたの?」
 わたしがバッグから猫缶を取り出すと、カロはうれしそうに「ニャン」と鳴いた。 なんだ。それだけか。パキンと音を立てて缶をあけてやると、カロは「アウアー!」と変な声を出し、目を細めた。
 紙皿に広げたウェットフードをガツガツと平らげていくカロの後頭部を眺めながら、わたしは考えを巡らせていた。 かつて美弥が保護猫を送り込んでいた場所。それはこの島で間違いないと思った。 美弥はなんのために猫を集めていたのだろう? ただ猫が好きだったから? 美弥が度を超えた猫好きなのは確かだが、何か違う気がする。 そして、美弥はなぜこの島にわたしを連れてきたのだろう? 猫を送るだけなら、ほかにもツテがあるはずだ。 美弥は気まぐれだった。理由なんてないのかもしれない。だが、気になった。
 気になることはもう一つある。
 なぜ美弥は、突然わたしの前から姿を消したのだろう——。

  *

 美弥がいなくなったのは、わたしたちの共同生活が始まって三年近く経ったころ、わたしが大学四回生の冬だった。
 わたしは大学院への進学を決めていた。すでに卒業論文は提出し終えて、院試でも満足の行く答案を出せていた。 進学を決めたのは、大した理由があったからではない。折からの不況で就職難だったから。それだけの話だ。
 美弥の進路は聞いていなかった。わたしと同い年なのに、詳しい事情は知らないが、大学にあまり行ってないところを見ると、美弥が今年卒業できるとは思えなかった。 わたしはなんとなく、大学を卒業しても美弥との生活は続いていくのだろうと思っていた。
 ある日、大学の図書館に本を返して帰宅すると、珍しく美弥が家にいなかった。 奇妙なことに、美弥のナップザックもなくなっている。胃の奥がムズムズするような、嫌な予感がした。
 リビングを覗くと、テーブルに一枚の便箋が置いてあった。 猫のイラストが入った、子供っぽい便箋だった。その上に、重石代わりのポータブルカセットプレイヤーが載っていた。
『ちょっと出かけてくるね』
 便箋に書かれていたのは、その一行だけだった。
 最初は、旅行にでも行ったのだろうかと思った。 しかし二日経っても、三日経っても美弥は戻ってこなかった。 わたしは居ても立ってもいられなくなり、美弥の通っていた学校に行ってみた。もしかしたら、同級生や指導教官が何か知っているかもしれない。
「この大学に通っていた友達がいなくなったんです! 調べてください!」
 わたしは学生課に言って事情を話したが、職員たちからはうさんくさそうな目を向けられた。 後ろには、いらだたしげな様子の学生たちが並んでいた。彼らは白い学生証と何かの書類を手にして、わたしが起こした騒動が終わるのを待っていた。
「いっしょに暮らしていた友達が帰ってこないんです! 名前は長月美弥。年はわたしと同じだから、留年してなければ四回生だと思います。学部は、えっと……」
 そのときはじめて、わたしは自分が美弥のことを何も知らないことに気がついた。所属学部も知らないし、実家がどこかも知らない。兄弟はいるのか、親は健在なのか——わたしは何もしなかった。
 わたしにとって幸運だったのは、美弥の知り合いが、たまたまその場を通りかかったことだった。彼が通りかからなければ、警備員を呼ばれていたに違いない。
「きみ、長月さんの知り合い?」
 わたしに話しかけてきたのは、温厚そうな初老の男性だった。
「はい、美弥とはずっと一緒に住んでいて……」
 わたしが答えると、彼は「なるほど、きみがそうなのか」と呟いた。
「指導教員の方ですか?」
 そう尋ねると、彼は「なにも聞いてないのかね?」と気まずそうな顔をし、ポケットの中から一枚のカードを取り出した。
「私はこういう者だが」
 それは美弥の持っていたのと同じ、緑色のカードだった。カードには彼の名前や生年月日、その他細かいアルファベットが刻まれており——。
 緑色? わたしの後ろに並んでいる学生たちは、白い学生証を持っている。つまり——。
「長月美弥さんは私の同僚だ。人間学部総合コミュニケーション学科の特任教授。それが彼女の肩書きだ」
 老教授は気遣わしげな口調で言った。
「そして、長月さんは今期をもって我が校を退職し、アメリカの政府系研究機関に移ることになっている。すでに手続きは終了し、いまはアメリカにいるはずだ」
 その後、わたしは老教授に連れられて大学のカフェテリアに移動し、いろいろな説明を受けた。
 長月美弥は、言語学と生物学の天才児と言われており、アメリカの大学を飛び級で卒業したこと。 その後は、世界各地の大学や研究機関を転々としたこと。 この大学での任期が最も長く、彼女が三年も同じ土地にとどまった事例はこれまでにないこと。 美弥はときどき、同僚の教授にわたしの話をしていたこと。
 老教授はその後、わたしに気遣って美弥に連絡を取ろうとしてくれたが、彼女から応答が返ってくることはなかった。
 わたしは大学院を卒業してからも、ずっと同じ家に住み続けた。 いつか美弥が「ただいま」と言ってひょっこり戻ってくるのではないかと思ったのだ。
 あれから十八年の月日が流れた。 子猫だったミィは二十歳で大往生を遂げ、美弥は二度と我が家に帰ってくることはなかった。 わたしが愛した猫たちは、みんな居なくなってしまっていた。

  *

 ちりん、ちりん、と鈴の音がした。
 ハッと我に返ると、目の前の紙皿に広げたウェットフードはもうなくなっていた。 直後、わたしはたいへんなことに気付く。
「……カロ?」
 カロがいない! わたしが物思いにふけっている間にどこかに行ってしまったのだ!
「カロ! カロ! どこにいるの? 出ておいで!」
 わたしの声に応えるように、ちりん、ちりん、と鈴の音がした。 カロの首輪に付けていた鈴だ!
 慌てて荷物を拾い上げ、音を追って走る。 民家の脇を走る舗装の悪い道に入り、苦労しながら通り抜けると、広い空き地に出た。
 雑草が生い茂り、タイヤや土管が無造作に放置されたその空き地には、多くの猫が集まっていた。 カロはすぐに見つかった。おなかがいっぱいになって眠くなったからか、土管の上で丸くなっている。
「カロ!」
 呼びかけると、カロは大儀そうに尻尾を振って答えた。
「もう、人騒がせなんだから……」
 わたしはホッと息をつくと、カロに近寄って抱き上げた。
「勝手にどこかに行っちゃダメよ」
 カロの顔を覗き込みながら叱ると、大きな目がくりくりっと動き、わたしを見つめ返した。反省の色はまったくない。 カロは十秒ほどわたしを見上げていたが、眠気に襲われたらしく、大あくびをすると目を閉じてしまった。
 そのとき、わたしは自分の身体に異変を感じた。 目の前が少しぼやける気がする。その反面、風の音はさっきよりはっきり聞こえる気がする。どこか遠くで、サイレンが鳴っているのが分かった。嗅覚も鋭敏になっている気がする。カロの口から、かすかにツナの匂いを感じた。


「春海ちゃん」


 不意に、わたしを呼ぶ声がした。 懐かしい声だった。忘れもしない声だった。甘えるような、からかうような、独特の声調。 わたしをそんな風に呼ぶ人間は、この世に一人しかいなかった。
「春海ちゃん」
 もう一度声がした。今度は、わたしの真ん前から。 わたしはカロと目を合わせたまま、顔を上げることができなかった。
 ——俺も以前、亡くなった人の霊を見たことがあります。
 船員の青年が言った言葉が脳裏に蘇った。
「お久しぶりね、春海ちゃん」
「美弥!」
 三度目の呼びかけをうけて、わたしはどうしようもなくなり、顔を上げた。
「元気にしてた?」
 そこには美弥が立っていた。 わたしの知っている美弥とは少し違っていた。なめらかだった顔には若干の小じわが見て取れる。 美弥は毛玉のついたセーターとヨレヨレのジーンズの上に、薄汚れた白衣を着ていた。 少し老けたようだし、顔色もあまりよくないが、往事の愛くるしさは健在だった。 わたしの知っている美弥とは違うけど、そこに立っていたのは間違いなく美弥だった。
「あたしはあまり元気じゃないけど、心配しないで……」
「美弥、どうして……!」
 わたしは美弥に駆け寄り、抱きつこうとした。 しかし、わたしの手は空を切り、美弥の姿はかき消えるようになくなってしまった。
「美弥……?」
「あなたがこれを見ているとしたら、あたしの試みは成功したということでしょう」
 今度は後ろから声がした。
「そして、それは同時に、あたしがもうこの世にいないということでもあります……って、あはは! こういう台詞、人生で一度は言ってみたいよね」
 振り向くと、さっきと同じ姿をした美弥が立っていた。
「ゆ、幽……霊……」
「幽霊。春海ちゃんはそう思うかもしれないけど、不正解です。ブブー!」
 戸惑うわたしに、美弥は得意げな顔を向けた。
「おはよう。こんにちは。こんばんは。改めましてお久しぶりね、春海ちゃん」
 美弥の柔らかな唇が、いたずらっぽい弧を描く。
「ようこそ、猫の楽園へ。気に入ってもらえるとうれしいのだけど」
「あなたは、いったい……?」
 美弥は面白がるようにクスクスと笑い、小首をかしげた。あまりにも懐かしい、いたずらを見とがめられた子猫のような仕草。
「あたしは美弥であって、美弥ではない。長月美弥がこの世に残した断片が生み出す影法師」
 わたしの腕の中で、カロが「ウニャン」と得意げに鳴いた。
「少し説明するね」
 美弥が言う。
「これまで話したことなかったけど、あたしの先祖は戦時中、軍の命令である研究に従事していたの。大戦末期、日本軍の一部では反人道的な研究や、オカルトめいた研究が行われていたのだけど、あたしのご先祖様もそういった研究に噛んでいたのよ」
 戦争? 研究?
「長月家が研究していたのは、超感覚的知覚——俗にいうテレパシーだった。あたしの曾お祖父さんと、そのお父さんは、テレパシーの実在を信じ、動物同士の非言語コミュニケーションにその鍵があるんじゃないかと思ったらしいの。バカバカしい話なんだけど、ご先祖様は、一部の動物はテレパシーで意思疎通を行っているのではないか、と考えたの」
 そこまで言い切ると、美弥は少し顔をこわばらせた。
「……ご先祖様たちが注目したのは猫だった。人間に身近な動物で、何か不思議な力を持っていそうだから、というひどく短絡的な理由だったみたい。猫の集会ってあるでしょう? なぜ別の場所に暮らしている猫同士が、同じ時刻に同じ場所に集まるのか、これは何らかの精神感応を用いているのではないか——とか考えていたみたい。仮説にもなっていない思い込みだけど、ご先祖様たちはそれを信じてたくさんの猫を実験に捧げ、多くの猫が無駄に命を落とした。でも、実験はたいした成果を生まなかったの。この話を知ったとき、あたしは許せないと思った。あたしが生まれてからずっと側にいてくれた猫たちの先祖は、そんなバカげた実験のために連れてこられたのかと思った」
 美弥の口角が上がる。八重歯が見えた。
「だから、あたしはご先祖様たちに復讐することにしたの。猫たちといっしょに。こっそりと」
「復讐……?」
 呑気でお気楽だった美弥の口から、そんな物騒な言葉が出てくるのは意外だった。
「あたしは、かつて猫の監獄だったこの島を、猫の楽園に変えることにしたの。猫たちが安心して怠惰に暮らせる楽園に。でもそれだけじゃ復讐にならないから、もう一工夫加えることにしたの」
 美弥は軽く呼吸を整える。
「あたしは、この島の猫たちを使って実験をした。ご先祖様がやったようなバカげた解剖や虐待じゃない実験で、彼ら以上の成果を出してやろうと思ったの。その成果が、いまここにいるあたし」
 理解が追いつかない。美弥が何を言っているのか分からなかった。わたしにできるのは、ただ美弥の言葉を待つだけだった。
「ご先祖様の実験ノートには、面白い示唆が二つあったの。一つ、猫の脳は人間が思っているよりずっと多くの情報を保存できる。そしてもう一つは、猫は何らかの方法を使って個体間で非言語コミュニケーションを取っている。それがテレパシーなのかは分からないが、猫同士は何か高度な情報をやりとりしている可能性が高い、ということ。だったら——」
 だったら、なんだというのだ。
「ためしに、猫に言語を与えてみようと思ったの」
 美弥が笑う。楽しそうな笑いではなく、自嘲めいた笑みだった。
「人間の脳において、言語を司る中枢と言われるのが、ブローカ野と呼ばれる部分」
 美弥は自分の前頭部分を軽く指で叩いて見せた。
「アメリカの大学に通っていたとき、あたしは猫の脳にも同じような器官があるのではないかと考えて、探してみたの。そしたらね、わりと簡単に見つかっちゃったのよ。それは普段眠っていて、猫が猫としての暮らしをしている間は、目覚めることはない。でも、あたしは特殊な音域の音を日常的に聞かせることで、眠っているブローカ野が活性化することに気付いた。どう、すごいでしょ?」
 美弥が得意げに笑った。 一緒にくらしていたとき、美弥がわたしの前で自分の研究成果を語ったことはなかったので、少し新鮮な感じがした。
「ブローカ野が活性した猫たちは、あたしの予想しなかった行為をはじめたの。猫たちが獲得した言語は、あたしたちの言語とはまったく違う性質のものだった。いわばそれは——」
 美弥は一度言葉を句切り、咳払いをした。
「それは、テレパシーとしか言い様のないものだった。猫たちは無意識に、自分が見た風景や音、匂いなどを、ダイレクトに互いの脳でやりとりするようになっていったの。まるで、匂いつきの動画ファイルを直接やりとりするみたいに。そしてその現象は、猫が眠っているときに、より顕著に現れることが分かった」
 猫同士がテレパシーで会話……?
「いわば、互いの脳と脳、夢と夢を繋ぐネットワーク。それが猫たちの獲得した言語」
 にわかには信じがたいが、いまこの場で起きている不思議な現象を考えれば、美弥の話には説得力があった。
「あたしたち人間は、言語を使って脳で思考し、まとまったものを言語としてはき出すよね。乱暴に言うと、人間が使う言語には、思考のツールとしての側面と、伝達のツールとしての側面がある。でも、猫たちが獲得した言語は、思考のツールとしての力が非常に弱かった。その代わり、猫の脳には、別の個体の脳と直接コミュニケーションを取る能力が眠っていた、というわけ。そして、その対象は猫だけにとどまらないことも分かってきた——」
 話の流れに理解が追いつかないが、わたしはおぼろげながら、美弥がやったことを理解し始めていた。 わたしは自分の腕の中でじっとしているカロを見た。カロは眠そうな顔で大きな欠伸をしている。 わたしがいま見ている美弥の姿。これはきっと——。
「猫が脳から発した記憶は、人間にも読みとれる。でも、人間は猫に比べて受け取る力がとても弱かった。しかし、多くの猫が集まり、記憶を共有すれば、起きている人間の脳でも受信できるようになる。あたしはこの島に多くの猫を集めて、猫たちに記憶を共有させた。この島全体を、猫による巨大な記憶のネットワークにしたのよ。猫たちがここに居る限り、その記憶はずっと受け継がれていく。島に住む猫や島を訪れる人間は、かつての島の光景を目にすることができる、というわけ」
 この島で目撃されている幽霊の正体。そしていま、わたしの前で話している美弥の正体。 それは、猫たちの脳に刻まれた風景の再演なのだ。 いまわたしが見聞きしたことも、生前の美弥がカロに語ってきかせた話が再生されたものなのだ。
 だが、疑問が残る。なぜ美弥はそんなものを作り上げたのだろう。
「最初の動機は、ご先祖様への復讐。たくさんの猫を犠牲にしたご先祖様より、もっと凄いものを作りたかったから。あたしは猫を犠牲にせず、あなたたちよりもずっと良いことをしたぞ、と証明するため。フフ、我ながら子供っぽい動機だね。まぁ、結果的に春海ちゃんとの再会に役立ってくれたんだから、いいよね。あら、カローン? どうしたの?」
 美弥が——美弥の幻影が、困った顔でわたしのほうに近づいてくる。 近づいてきた美弥が、わたしに向けて手を伸ばす。
「もう眠いの? でもお願い、もう少しだけ話を聞いてね」
 美弥の手がカロに触れる。カロの半開きになった口から、ニャゴニャゴと寝言のような声が漏れた。 わたしの目の前で、美弥が楽しげに微笑する。
「春海ちゃんには、ちゃんと謝っておかないといけないから。長い間、おうちに帰れなくてごめんさい。あたしのごはん作って待っててくれたらごめんね。本当はすぐ帰るつもりだったの。でも、めんどくさいことに巻き込まれちゃって、帰れなくなっちゃったの」
 美弥の眉が下がり、泣き笑いのような顔になった。
「いまいる研究機関ね、政府の極秘任務とかをやっているらしくて。ここで働いている外国人がアメリカから出国するとマズいんだって。学会に出るときも、雑誌のインタビューを受けるときも見張りがついてくるの! すごくない? あたしがもしプライベートで他国の人に会ったら、CIAだかなんだかの監視対象になるらしいよ。なにが自由の国だよ。そんなの刑務所と一緒じゃん。笑っちゃうよね」
 美弥の目尻に涙が溜まり、こぼれ落ちた。
「あたしもいろいろ考えたんだよ。どうにかして春海ちゃんに会いに行けないかなって。でも、いくら考えても良い方法が見つからなかった。そんなことをしているうちに、あたし病気になっちゃった。余命一ヶ月だってさ。ますます笑っちゃうよね。バッカみたい。もしかして、ご先祖様が悪い研究をしたバチが当たったのかな? 猫は七代祟るって言うしね」
「美弥……」
「でも、考えようによっては良かったかも知れない。死ねば、あたしはここから出られる。カローンの受け取り人には、春海ちゃんを指定しておいた。賢い子だし、ブローカ野の発達もほかの子より進んでいる。きっとあたしのことを春海ちゃんに伝えてくれると思う。そうだよね、カローン?」
 わたしの腕の中で、カローンがモゾモゾと動いた。 それと同時に、わたしの目の前にいる美弥の輪郭もぼやけはじめる。
「いつも身勝手なことばかりしてごめんね、春海ちゃん。あたしは先に虹の橋の向こうで待ってるけど、ゆっくり来なよ。十八年でも二十年でも、三十年でも、それ以上でも、ずっと待ってるから」
「美弥、わたしは……!」
「春海ちゃんの家にいた時間が、わたしの人生で一番楽しかった。素敵な三年間をありがとう! またね!」
 そう言い終えると、美弥の幻は完全に消えてしまった。 わたしの腕の中でカロが欠伸をし、ブルブルと頭を横に振った。 夢から覚めたカロは、泣いているわたしをしばらく不思議そうな顔で見ていたが、やがてスルリと腕を抜け出すと、鈴の音を響かせながら、どこかへ走り去ってしまった。 まるで、自分の役目は終わったとばかりに脇目も振らずに。
 わたしは空き地で眠っている別の猫の隣に移動し、そっと頭を撫でた。 すると、わたしの目の前に一人の女の子が現れた。美弥だった。出会ったばかりのころよりも、少し顔つきが幼い。 若い美弥は何かに怒っていて、顔を真っ赤にしながら泣いていた。やがて美弥は意を決したように口を引き結び、どこかへと走っていった。美弥のあとを追って、一匹の猫が駆けていく。こちらも幻のようだった。 これはきっと、わたしが撫でている猫が、親か祖父母の世代から受け継いだ記憶なのだろう。
 遠くの方で、またサイレンが鳴っていた。 小さくなっていく美弥の背中を見ながら、わたしはこれからの身の振り方を考えた。
 この先、空猫島に移住するのも悪くないと思った。 ここで猫たちといっしょに暮らしていれば、わたしも猫たちの記憶に刻まれ、猫の夢に溶けてしまえるかもしれない。 そうなれば、わたしたちはこの島に猫が居る限りずっと、夢の中でいっしょにいられる。 美弥の幻とわたしの幻が互いに交わることはないけれど、わたしたち二人の姿がずっとここに残り続けるのだとしたら。
 それは。 猫の島が見る夢は、とても素敵なものに思えた。