二人ベンチに腰掛けて、ただ時間だけが過ぎていった。対岸を眺めると、ちらほらとたたずむ民家に灯が燈り始め、そのうちのいくらかの家からは夕食を作る煙が昇り始めている。相変わらず景色は水底に沈んでいて、遠く、国道を走る車の音もにじんで響く。
気付けば俺は上を向いて鼻を抑えていた。鼻血が出たわけではない。あの、おかしな癖が出てしまったのだった。
「上を向いてはだめ。」
突然言われて振り向くと、頬杖をついたマサキは眼だけこちらに向けていた。
「出るだけ出してしまった方が早く止まる。」
「でもこれは鼻血じゃないんだ。」
鼻に手をやったままそう答えると、マサキはそのままの姿勢で小さく二度うなずいて、視線を前に戻した。
しばらくマサキの横顔を見つめる。それから湖の方に目を向ける。鼻からは何かが流れ続けている。出るものは出て行けばいい。
と、一筋の煙が立ち昇るのが見えた。中島のこんもりとした山の麓からだ。火事か。違う。細々と昇り続ける煙はそれ以上広がる様子ではない。人工的な煙だ。遠い稜線の縁取りを残して随分と青みを増してきた中天に突き出た中島の小山の縁を濁して広がり溶けていく煙。その先の、空のずっとずっと奥のほうにまだ白っぽい月が張り付いている。
突然いても立ってもいられなくなり、立ち上がって前へと突き進んだ。
ふわふわとした足取りで水の中に足を滑り込ませた。水は思ったよりも温かかった。一度水に浸かった後の皮膚が空気にふれると少しスースーする。細かい風が足の間に起こって抜けていく。そして水は重かった。
最初の二足で前へつんのめり、大きく手を振り回した。自分の起こした水面の波がおかしなゆがみ方をして巻き返してくる。その度に砂交じりのざらついた水が足をこすっていく。それは本当に水なのだった。
今まで自分が持っていた水底のイメージがどれほどのものか。
それは、甘い匂いに誘われてゆりの花を口に含んでしまった時の感じに似ていた。あまりの苦さにあの頃思わずゆりの花をすごい勢いで吐き出したのだったが、今回は、今更水から出るにはもう水に浸かりすぎていた。
予期せぬ方向へまとわりつく水を掻き分けて、どんどん進んでいく。すぐに足が立たなくなる。体の内の何らかの部分が上へ上へあがろうとし、水がそれを手伝う。次には体の別の部分が水面下へ沈み込んでいく。とにかく手と足を盛大に動かし続ける。体の浮き沈みに伴い、水の上と下の世界が何度も入れ替わる。水が頭を乱雑につかんでは肩越しに流れていく。目には水の膜ができ、何も見えない。というより目をつぶって開けない。圧倒的な大きさでねっとりと絡みつく水流。がむしゃらに泳いでどこに向かっているのかも自分がどこにいるのかもわからない。ただ、水面から一瞬顔をあげた時、つきが目の中に飛び込んできた。肺が新しい空気で一杯に膨らむ。こけの腐った匂いがかすかに香る。すぐに次の水の塊に沈み込んで何も見えなくなった。灰色の水。頭上に月。月は泳ぐ夢には出てこなかった。夢の中でいつも見えていたのは自分の背中だった。あの、夢の中で自分の背中を白く照らしていたのは、あるいは月だったのか。
それ以上の思考は水に溶けて流れていった。灰色の水を掻き分け、沈まず前に進み続けるということはそれ程に忙しいことだった。他には何も無く、とにかく動き続ける。
決して夢のように体が溶けて水そのものになることはなかった。ある程度の大きさで体にあたり続ける水の塊。常に抵抗されているというのはかなり気持ちがいいらしい。生ぬるい水抵抗は消えることなく体にまとわりついては後ろに流れていく。
気がつくと土の上に膝をついて肩でひいひい息をしていた。しずくが体から、顔から流れ落ちていく。気を失っていたわけではないと思う。無我夢中になって、文字通り我を忘れていたのかもしれない。
服がぐっしょりと濡れて重い。体温が急激に下がっていく。地面がやたらと暖かく感じる。震えながらTシャツを脱ぎ、水を搾り出して体を拭く。いくらか暖かくなったがそれでも寒い。周りは暗く深い林が広がるばかり。中島に何とか辿り着いたらしい。未だにおかしい耳にぼんやりと鳥の声が聞こえてくる。暗闇に感じられる息遣いに飲み込まれてしまいそうで前に出ることができない。
まんじりともせずに突っ立っていると、いつのまにか横にマサキがいた。彼女はどこも濡れた様子がなかった。声をかけようと思っているうちにマサキが歩き出した。
はじめは岸に沿ってしばらく歩いたが、やがて突然木々の間に分け入って行った。言われても気付かないほどの獣道がそこにはあり、彼女はずんずん奥へと進んでいく。よく分からないまま後についてい歩いていたが、随分歩いて、ここがどこなのか気になりだした。
振り返ってみると茂みと木々に阻まれ湖もその向こうにあるはずの景色も全く見えない。茂みが無ければ本当に見えるのだろうか。このままどこに向かっているのだろう。視界が開けてみればやぐらの組まれた傍らで炎を囲み踊り歌う半裸の民がいるのではないのか。マサキから数歩も離れない暗闇を、あの狼が歩いているのではないか。ここはどこだ。
「狼役をやってもらう。」
マサキの声がよみがえる。暗い林の中、マサキを追い続ける狼。そして今、マサキを追っているのはこの俺。握りこぶしを握る。ほら、ちゃんと人間の手だ。人間の形をしている。そんなはずないのにこみ上げてくるイメージ。四つ足でマサキを追う黒い獣。まさか。まさか。
マサキ、と声をかけようとしたとき林から抜け出た。
そこは夢で見た広場のようになっていてやぐらの替わりに木造の古い小屋が立っていた。木造といっても現実離れしているほど古い小屋ではない。屋根は色あせた青色の塗炭だし、玄関の引き戸にはガラスが入っている。玄関脇には口の開いた魚の缶詰や洗剤の空きボトルが木箱から溢れ出していてその横にはビールや酒の空きビンが並べられている。そしていくつかのビンが立てかけてあるのは、プロパンガスの管なのだった。
そこまで観察してから、いつのまにか吸ったまま止めていた息をゆっくりと吐き出した。少し古いが現代の小屋だ。マサキの世界とは関係の無い、普通の小屋だ。
「小屋だ。」
意味無くつぶやいてみた。マサキは隣に立って何も言い返さなかった。
小屋の向こう側で何かが動いた気がした。よく見ると小屋の裏側の木々や葉がにわかに明るくなっている。影が揺れていることから考えても裏で火を焚いているようだ。どちらからともなく無言で明かりのほうに足を踏み出す。近づくごとに葉を照らす明かりが動いて模様を変えていく。家の影から時に火の粉さえ舞うのが見える。木のはぜる音が頭の中で響いた。これは昨日の夢の音だ。燃え上がる火の粉、土ぼこり、踏み鳴らされる足、飛び散る水しぶきと汗の間を縫って泳ぐ黒い手の群れ。鳴り響く太鼓の音。やぐらに座った少年が木の筒を構えて深く息を吸い込む。
「ひっ。」
思わず声が出てしまった。小屋の裏側、踊り手などいるはずもない。ただごみや小枝なんかで作った焚き火が盛んに燃えているだけだ。湖の向こうから見た煙は多分これだったのだ。
突然くぐもった声が聞こえた。びくっとなって声のほうを見ると、雑然とした小屋の壁のごみや洗濯物らしい布類に混じって小柄なじいさんが立っていた。作業用ズボンに地下足袋、上は以前はもっと白かったであろうランニングシャツを着ている。たるんだまぶたの下で黒目ばかりがやけに光るそのじいさんは、なおもぶつぶつと言いながらおもむろに背を向けると裏口から小屋の中に入ってしまった。
横の窓から一瞬物影が見えたが、焚き火が窓ガラスに反射して、暗い部屋の様子は全くわからない。マサキもじっと中の様子をうかがっている。
「今、あのじいさんなんて言ったんだ?」
「私にもよくわかんなかった。」
とりあえず、二人で黙って立っていた。居心地が悪くなりかけてきた頃、戸が開いてバスタオルを抱えたじいさんが現れた。じいさんは相変わらずブツブツと何かつぶやきながらタオルを押し付けてきたので遠慮せず受け取ると、タオルの下から缶コーヒーが出てきた。手にしてみると生暖かかった。いったいどこに置かれていたものなのか。
次にじいさんはもう片方の手に残っていたコーヒーをマサキに差し出した。マサキがとらないでぼうっとしているのでどうしたのかと思ったところで、俺も固まってしまった。つまり、じいさんにはマサキが見えている。硬直しているマサキの手に無理やりコーヒーを握らせたじいさんは、そのまま手を話さず、マサキの顔をまじまじと見つめた。薄く開いた唇が心なしか震えているように見える。火の明かりが無数のしわを照らし、ギラギラした目が潤んで見えるのはたぶん焚き火の炎のせいだけではなかった。
そして噛み締めるように何か一言つぶやいた。マサキは反応することができないらしく、相変わらず固まっている。
じいさん、今度は視線を落としてまたつぶやき始めた。多分、今日話をしたおばあさんの言っていたじいさんに違いない。それはいいとして、まずマサキが見えるというのがおかしい。いや、おかしくないといえばおかしくない。マサキが俺にしか見えないのだとは誰も言っていない。見ようとしなければ見えないだけなのだから、見ようとすれば見えるのはあたりまえだ。それでもなぜこんなじいさんに限ってマサキが見えるのか。それにしてもいつまで手を握っているつもりなのか。俺は祖父母と一緒に生活したこともないし、老人のことはよく分からないが、以前病院で看護婦の手を離そうとしないじいさんを見たことがある。そのエロじいさんはたぶん入院中で退屈していたのだろうが、なんだかんだと言ってはでれでれと笑って看護婦を困らせていた。看護婦の方も慣れたもので、何とかかんとかあしらってはいた。まさかこのじいさんもただのエロじじいか?「やっぱり若い子はいいねえ」とか何とか言っているのか?それとはどうも違う雰囲気だと思うのだが、何せここまで年寄りになると、いまいち表情が読めない。
それでもとうとうじいさんは手を離し、こっちに向かって何か言うとまた小屋の中に入ってしまった。マサキはまだ呆然としている。しばらくして口を開いた。
「よく帰ってきたなあ、って言われた。」
「知り合いなのか?」
マサキがすごい顔でこちらを向いた。自分でも間抜けな質問だということはわかっている。けれども他に何を言えばいいか思いつかなかった。なんだか俺は馬鹿なことばかり言っている。マサキの目にはきっと物凄い間抜けなオヤジに映っていることだろう。
「今、食べるもの持ってくるから火にあたってろだって。」
「ああ。」
そういえば濡れたシャツを着たままの体はすっかり冷えて震えるほど寒いのだった。急いで火のそばにあったベンチに腰掛けTシャツを脱いで体を拭いた。
「なんでマサキは濡れてないんだよ。」
「私は元々もう水に浸かってるから。」
意味不明の回答をされたことは気にならなかった。それに、別に本当に知りたかったのではなく、あまりに寒くって、なんだかとにかく文句を言いたい気分だったのだ。あのじいさんはなんとなく気に食わない。
「あのおじいさん、なんか勘違いしてる。」
「だろうね。」
「私のこと、アキって呼んでた。多分アキエさんのことだと思うけど。」
「なるほどね。」
「でもなんか変だ。だっておいて行って悪かったって言ってた。」
「アキエさんを置いていったのは旅芸人だろ。」
「本当にお前を連れて行きたかった。約束の日に帰ってこれなくて悪かった。でもここで待っていればいつか会えると思ってただって。」
「じゃあ、あいつは旅芸人てことか?」
「それは違うと思うけど。」
「どっちにしても、マサキを見てばあさんになってるはずのアキエさんと間違う時点で狂ってるな。」
「私をアキエさんだと思う時点でおかしい。」
しばらくしてじいさんがカップラーメンを持ってきた。匂いをかいだとたん猛烈に腹が減ってきて物凄い勢いで食べた。
じいさんはなぜだかまた小屋へと消えていったかと思うと今度は古い竹の筒のようなものを抱えて出てきた。一メートルくらいありそうなその筒の上方には不自然な形に切り込みが入っている。多分これが例の、芸人の形見の笛なのだろう。
じいさんがマサキに一生懸命何か説明していたが、俺にはよく聞こえない。
「私、この笛知ってる。」
「知ってるって?」
「知ってるものは知ってるの。」
そう言うとマサキは立ち上がった。
じいさんは何とかその笛を吹こうとしていたが、マサキがそれを取り上げて火の中に放り投げた。じいさんが慌てて拾い上げる。
「何やってんだよマサキ。」
「私あの笛大嫌い。音が嫌い。別れの節しか鳴らせないだめな笛。大嫌い。」
マサキが何のことを言っているのかはわかっていた。マサキがふるさとで毎日聞いていた、昨日の夜、恋しそうに語っていた笛の音。
「これはその笛とは別だろ。」
「違わない。」
「どうしてそうなるんだよ。」
「どうしても。」
じいさんはきょとんとしてこちらを見ていた。たぶん会話も聞こえていたと思う。マサキは意識してか無意識にか、殆ど叫びながら話していた。
「音を聞けばもっとはっきりするから。」
マサキがぼうっとしているじいさんからまたもや笛を取り上げてこちらに突きつけた。
「吹いてみて。」
慌てたのはじいさんだ。さっきは火の中に捨てられたのだ。今度は何をされるかわからない。物凄い形相で笛を取り返そうとした。けれどもマサキがそれを許さなかった。じいさんを取り押さえて怒鳴り出す。
「あれはおじいさんのものではないでしょう。あなたはアキエさんのお兄さんでしょう。アキエさんを置いて旅になんか出てないでしょう。」
じいさんは座り込んだままなおも抵抗し続けたがマサキのあまりの剣幕にとうとう黙り込んでしまった。すっかり放心している。じいさんが大人しくなるとマサキは凄まじい目つきのままでこちらをにらんだ。
どうすればいいのかわからない。何しろこれは元々じいさんの持ち物ではなかったかもしれないがその前に、俺の笛でもない。マサキのめちゃくちゃなのはわかっているがいくらなんでもあんまりだ。
「吹き方がわからない。」
一応抵抗してみたが、マサキは無言でなら見つけるばかりだ。
仕方なく吹き口らしいところに口をつけて吹いてみたがさっぱり音が出ない。マサキのほうを見ると変わらぬ様子でにらんでいる。もう一度試す。音が出ない。マサキを見る。にらんでいる。試す。出ない。
繰り返すうちに、やっと音になりそうになってきた。
「思い切り吸って、息がなくなるまではいて。」
マサキが言った。もう一度彼女の顔を見る。もうにらんでいなかった。ただじっとこちらを見ている。何を考えているのかはよく分からない。最初からそうだった。じっと見つめるだけでこちらが見つめ返してもまつげ一本動かさない。そして俺にはどうすることもできない。
笛を構えなおして息をできる限り深く吸い込み、そしてゆっくりと筒の中に注ぎ込んだ。
音は一つだった。耳がおかしいせいか、音という認識よりも、腹のあたりを震わせる振動を感じる方が先立った。その振動は次第に体中に広がっていき、気付けば震えているのは自分ばかりではないのだった。震えは体内から溢れ出し、木々や土、炎や小屋のガラス窓、じいさんの髪の毛の先まで同じ速さと細かさの波で震えているのだった。マサキの姿もちらりと見えた。と思った時、自分という枠組みがあいまいになり、どこまでが内側でどこまでが外側なのかの区別がわからなくなった。今なら百キロ先の小川に住む魚の目に映るものまではっきりと感じ取れる気がする。
神経は音の波と共にどんどん広がっていく。海を越え、雲を越え、人工衛星のごみの群れを越え、いつか、突き抜ける柱を感じた。音の波は太く真っ直ぐな柱の形をしている。柱が際限もなく伸びていて無限に膨張した神経はその柱に凝縮されていく。
次にその柱が細くなり始めた。濡れたわたを絞るようにどんどん細くなっていく。しまいには切りきり細い糸になって、どんどん細くなって、そして、切れた。