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手すりについた水滴が落ちるのを目で追いつつ、男は深く息を吐いた。
サウナというよりこの水風呂に入りたいがために来ているんだな、と頭の中で独り言ちてみる。
場内のどこかでフロ桶が床石を打つ音が響く。男は目を閉じる。
時計は見ない。きっちり時間を決めたくない。好きな時に入って好きな時に出たい。
ここだけのことではない。例えば定期券は買わないし、タバコはカートンでは買わない。通勤ルートはその日の気分で決めたいし、いつも同じタバコを吸いたいとは限らない。
そういうスタンスで日々を過ごしているはずなのに、結局毎日同じルートで通勤し、毎朝同じコンビニで同じタバコを買い、月曜にはA定食、火曜にはB定食を食べ、毎週きっちり三回サウナに来ている。そうやって、いつの間にか何もかもがルーティン化していることに薄々気づいていながら、それでも男は断固とした決意で時計を見ずに水風呂を出る。
全ての音が響いて滲む浴場から一転、静けさと熱気に全身を圧迫されるサウナ。
誰かが焼き石に水をかけた。
たちまち湯気が立ち上り、薬っぽい香りが室内を満たす。
煙る宙をぼんやりみつめていると、瞼が落ちてきそうになる。
下がる瞼を懸命に持ち上げると、睫毛に溜まった水滴が虹色にきらめる。
虹の奥で湯気は雲海のごとく湧き上がり、雲海の向こうには人影が見えはじめる。
見えてきたのは黄金の背中。黄金の光を浴びて、睫毛の虹がじりじりときらめく。
黄金の背中がゆっくりと振り返る。
しかし振り向いた顔は黄金ではなく、生身の人間のそれだった。目を伏せ、口元に微笑みを浮かべている。こんな表情をアルカイックスマイルというのだったか。
微笑の瞼が、持ち上がり始めた。このままいくと、もう少しで、目が、合う。
自分のよだれをすする音で目が覚めた。
危ない危ない、サウナでうとうとしてしまうとは。
男は慌てて水風呂へ向かった。
翌土曜の休日当番。
平日とは違い、人もまばらな帰りのプラットフォーム。
男は、サウナで夢に出てきた顔を思い返していた。
やけにはっきり思い出せるが、知り合いの顔ではない。あるいはテレビで見かけた芸能人の顔かなにかか。
「…運転を見合わせております」
場内アナウンスが耳にとまり男は顔を上げた。どこかで信号トラブルが発生したらしく、当面電車は来ないらしい。
こんな時、定期券を持たない身はお気楽だ。入場を取り消すだけ。後は好きなルートで帰ればよい。
改札階へ降りる階段の前では女の子が三人、知らない言葉でなにか言い合っていた。横目で通り過ぎようとした男を、そのうちの一人が呼び止める。
「スミマセン、デンシャ、コナイデスカ」
「あ、そうです。しばらく来ないみたいですよ」
三人、不安そうに言葉をかわしている。
「振り替え輸送もあるみたいですよ。どこに行くんですか?」
男が尋ねると、先ほどとは別の子が、握りしめたスマホから顔を上げた。
「ウェーノ」
「あ…!」
男は思わず声を上げた。彼女の顔から目が離せない。
その顔を、男は知っていた。先ほどまで思い返していた顔。サウナの夢で見た、光の中で微笑んでいたあの顔なのであった。
「あ…、えっと、上野ね」
しどろもどろになりながら、男はなんとか乗り換え方法を三人に教えた。払い戻しのことも教えた。
「アリガトウゴザイマス」
そう言ったサウナの子の顔に浮かんでいたのはアルカイックスマイルではなく、はじけ飛びそうな満面の笑みだった。他の二人もきっと挨拶をしていただろうが、男にはもう何も見えなかったし、聞こえなかったのであった。
月曜の朝。
改札を出るなり男の口からは、その日何度目かのため息が漏れた。
あの時、どうして連絡先を聞かなかったのか。
いや、路線を尋ねられただけなのに連絡先を聞くなんてどうかしている。
そもそもちょっと夢に出てきたからって。
というか、出会う前から夢に見るってどういうこと?
そんなこと考えてももう仕方ない。自分はチャンスを逃したのだ。
あの時、どうして連絡先を聞かなかったのか。
そこに思考が戻ってまたため息をつく。
いつものコンビニに寄って、どれがいいかなと選びつつ、いつものエナジーバーを手に取る。
いくら気ままを気取っても、いつの間にか出来てしまったいつもの道から一歩も踏み出せない。
またしてもため息をつきながら、レジでタバココーナーに目を漂わせる。どれがいいかなと選びつつ、結局いつもの
「6バン、デスカ?」
言われて驚き、男は店員を見た。
「あ!」
思わず声が出る。店員の顔から目が離せない。
その顔を、男は知っていた。
店員は、素早くタバコを一箱とってきて会計を進める。
会計をすませながら男はしどろもどろにつぶやいた。
「あの…、この前…、駅の…」
店員はいたずらっぽく微笑んで頷いた。
「アリガトウゴザイマシタ」
それからすぐに「ツギノカタドゾー」と視線を外した彼女の顔に浮かぶのは、こなれたいつものアルカイックスマイル。
聴いた曲:睡魔 (アルバムⅥより) by ミツメ