A子とB男は一緒に暮らし始めて三ヶ月になる。そろそろお互いの癖や生活習慣の違いが鼻についてくる頃である。ある休日の遅い朝、B男はA子のシュミで買った水色のちゃぶ台の前に座り、雑誌片手に煙草をふかしながら、顔を洗っているA子をじっとりと見つめていた。
だらんとしたスウェットパンツの上で薄ピンク色のシャツに覆われた丸い背中が水の音に合わせて揺れている。その小山のような背中から左右に突き出た二の腕が大きく動くたびに、水しぶきが流し台からはみ出して、べちゃりべちゃりと床やらなにやらに飛び散っている。
A子から視線をはずしたB男は軽く舌打ちして溜息交じりの青い煙をゆっくりと吐き出した。
A子にもB男の舌打ちする音は聞こえていた。その舌打ちのわけにもおおよそのあたりはついていた。
二人が一緒に暮らし始めたばかりの頃、B男はA子が念入りに顔を洗う様子を面白そうに見ていた。
「女の人は大変だな。」
「洗顔は基本中の基本だからね。」
それが幾日か前、B男がさりげなく言ったのだ。
「顔を洗ったあと床拭いた方がいいかも。傷むし。」
B男が実際床の傷むことを気にするような人間でないことくらいA子にはわかっていた。そのはっきりしない物言いにカチンと来たが、そんなことにいちいち食って掛かるA子ではなかったので、さりげなく答えただけだった。
「そうだね。」
それから、洗顔のあとには必ずモップできっちり床を拭いている。
A子は舌打ちの音に、水を掬いかけた手を止めたが、またすぐにその手を動かし始めた。舌打ちは聞こえなかったことにした。ちょっと間抜けな不利をするのがA子の常套手段だ。
そうとは知らぬB男は、本当にA子には舌打ちの音が聞こえていないのだと思った。自分が不機嫌であるというのに、全く気付きもせず、A子は能天気にジャブジャブやっている。そう思うとB男の苛立ちはよりいっそう高まった。
「そのうち顔の皮剥がれんじゃないの。」
A子にはB男のつぶやきがはっきり聞こえたが「えっ?」とさわやかに聞き返した。そのあとB男が
「なんでもない。」
と口の中でつぶやいたのは本当に聞こえなかったが、それはA子にとってどうでもよかった。ここでB男の態度にいちいち反応することはA子のプライドが許さなかった。しかし、実際、心の中ではB男の言葉を無視しきれないという事実が、よりいっそう長々とA子に顔を洗わせるのだった。その上、いくら水道水を顔面にたたきつけてもB男の言葉は流れ落ちていかないのだ。
―そのうち顔の皮剥がれんじゃないの、顔の側剥がれんじゃないの…。
剥がれるものなら剥がしてみたい。そんな考えが一瞬A子の頭をよぎった、途端に、水音に合わせて頭の中で繰り返される言葉が変化した。
―顔の皮、剥がしてみたい。顔の皮、剥がしてみたい。剥がしてみたい…。
A子はぴたりと動きを止めゆっくり水道の蛇口を閉め、タオルに顔をうずめた。剥がしてみたい、剥がしてみたい、顔の皮を剥がしてみたい。
「パック。」
突然A子が言った。タオルから顔を上げ、B男を真っ直ぐに見つめて。すばやく化粧棚をかき回し始めた。確か一度使って肌に合わずに放っておいた、通販ものの輸入品パックがあったはずだ。
A子は見つけ出した白いビンをちゃぶ台の上に置いた。
「何?」
不信そうに雑誌から顔を覗かせているB男を、A子はじっと見つめた。
「顔の皮、剥がしてみよう。」
「何?急に…。」
「あんたが言ったんじゃん。」
「何を。」
「顔の皮剥がしてみたいって。きっとすごく気持ちいいと思わない?」
A子の瞳は輝いていた。B男の言葉と自分の思いつきを混同してしまっていることに気付かないほど、A子は勢いづいていた。
「このパック、顔にガムテープ張ったみたいに強力すぎるから、使ってなかったんだけど、普通よりもっと乾燥させれば顔の薄皮一枚くらいはがせるよ。ね、やってみようよ。」
「何言ってんの。」
「ねえ、一緒にパックしようよ。」
そう言いながらA子はたちまち自分の顔に白いクリームを塗りこめてしまい、そのままB男の顔にもクリームを塗った繰り始めた。
B男はというと、「やめろ」とか、「何だよ」とか言って抵抗する姿勢は見せつつも本気で怒り出しはせず、結局されるがままになっていた。と言うのも、B男はまさにA子がたまに見せる、こういうメチャクチャなところに好意を感じていたのだ。そして、彼女の、思いもよらないような、お茶目な我がままを受け入れてしまう自分の姿に、改めて自分がA子を愛しいと思っているのだと実感するのだった。しかし、意識のずっと奥のほうで、自分が、こんな状況ででもなければパックなんか正々堂々と試してみる機会など人生には訪れないだろうと思っていることに、B男は気付いていないのだった。
そんなわけで、益々盛り上がりつつあるA子と、自分でもよく分からないうちにすっかり機嫌のよくなったB男はパックが乾くまで仲良くお昼のバラエティーなど見て過ごすことにした。
それから殆ど時を置かず、チャイムがなってA子が玄関口に立った。B男は自分たちがパック中だということにすぐ思い当たって、慌ててA子を止めようとしたが、B男がA子の片腕をつかんだ時には、A子は別の方の手でドアを開けていた。
チャイムの主はB男の友人、C男だった。C男は、B男に借りていたキャンプ用具を返しに来たのだったが、二人の白い顔を見て言葉を失った。そんなC男の様子を目にし、B男の、パックの下に隠れた顔は急激に青ざめていった。彼女のわがままを聞いてやることは幸福だが、それを友人に見られるのは最悪だ。霧の中、素っ裸で踊っていたら突風が吹いて何もかもあらわになってしまったようなものだ。
しかし、A子だけは相変わらず興奮状態だった。彼氏の友人に自分たちがおそろいのパックなどして仲の良いという所を見られるのはなんとも言えず良い気分だった。そしてA子は考えた。この上、彼の親友と自分が友好的な関係にあることを彼氏に見られるのはもっと素適に違いない。
「C男君、いいところに来たね。まあ、あがっていきなよ。」
不気味な白い顔の女にさわやかに誘われたC男は、返しにきた物を玄関に放り出して、出来るだけ早くその場を去りたかった。
「いや、オレ、すぐ帰るし。」
「そう言わずにあがっていけよ。」
声を上ずらせたB男はがっちりとC男の肩をつかむと、半ば引きずり込むように、C男を部屋に上がらせた。見られたからにはもうこのまま返すわけには行かない。
「いいから、お前もこれ顔に塗れ。」
旅は道連れ、死なばもろとも。B男はやけくそだった。
「そうだね。C男君もいっしょにやってみよう。」
元来、「一緒に」とか、「おそろい」とかいった言葉が大好きなA子の勢いは、もう誰にも止められない。たちまちC男はB男に羽交い絞めにされ、A子にクリームを塗られた。
C男も殆ど無抵抗だった。女の子の前で、真剣にB男と組み合って逃れるのは気がひけたし、何より、不気味な二人に逆らうのがちょっとばかり恐ろしかった。
三人でテレビを見ながらパックが乾くのを待った。A子は最高の気分だった。B男はやけくそだった。C男は自分がどうしてこのような状況に陥ってしまったのかさえ恐ろしくて聞き出せないでいた。
A子の提案で、C男のパックが乾くのを待って三人一緒に剥がすことになった。そしてその時が来た。A子が号令をかけた。
「せーのっ。」
C男のパックは首尾よく剥がれた。ぺりぺり小気味良い音をたてて一度に全部、きれいに剥がれた。A子とB男は、最初に「ヴっ」とうなってから動きが止まってしまった。二人のパックは乾燥しすぎて殆ど皮膚に癒着してしまっていたのだ。
A子は半べそをかきながら、たまに、低いうめき声をあげつつ、それでも何とか最後まで剥がしきった。何がA子をそこまで駆り立てるのかはA子自身にさえもわからなかった。
B男はどうしても自分でパックをはがすことが出来ず、ついにはC男に一気に引き剥がしてもらい、断末魔の叫び声をあげた。A子とB男の顔は所々赤くなっていて、本当に皮が剥けてしまった部分もあった。二人はパックをはがしたあともこらえきれずにうめき続けていた。
「ううっ、痛い、痛いよう。」
「畜生、本当に皮が剥けやがった。」
顔に手をあてがって苦しむ二人をかわるがわる見やってC男はおろおろするばかりだ。
「大丈夫か?」
そうは言ってみたものの、何について大丈夫かと聞いたのか自分でもよく分からなかった。A子とB男はしばらく悶絶していたが、とうとう疲れ果てて静かになった。そしてA子がぽつりと言った。
「顔の皮、剥けたね。」
「そうだな。」
B男が答えた。
「超痛いね。」
A子が微笑んだ。
「マジ痛えな。」
B男が笑った。それから思い出したようにC男を見た。
「あれ、おまえ、顔の皮剥けなかったの?」
「ああ。」
「そうか、良かったな。メチャクチャ痛えぞ。な。」
「本当だよ。すごく痛いもん。ね。」
C男は、ふと、ある種の疎外感を感じた。
「おまえ、ラッキーだったよ。」
「本当、ラッキーだったね。」
そう言って微笑む二人の顔に「俺たちは痛みを知っている」というような優越感が浮かんでいるのを認めたC男は、なんともいえない悔しさがこみ上げてくるのを感じたが、途中で物凄い脱力感に襲われた。
「じゃ、おれ、帰るわ。」
「え、まだお茶も飲んでないのに。」
「いえいえ、お構いなく。」
「なんか、悪かったな。付き合わせて。」
「いや、キャンプ道具サンキューな。じゃ。」
C男が帰ってしまうと、二人は悲鳴を上げながら顔に傷薬を塗りあった。二人はとてもとても幸福だった。それからゆっくり静かにお茶を飲んだ。言葉も無く、お茶をすすりながら、二人を結ぶ絆を強く感じていた。
釈然としない気持ちでB男の家をあとにしたC男は、コンクリートの隙間から顔をのぞかせている緑を見るともなしに見やりながら、なんとなく指を頬にあてがって驚いた。肌がすべすべになっていた。パックが思いのほか効いたらしい。パックなど、したのはこれが初めてだった。自分のすべすべの肌を触りながら、C男は驚きをもって考えた。結構いいな、パック。