茜に燃える山の端を切り裂いて走る枝葉の黒い影。ほんのちょっとみとれたうちにも遠ざかる、枯れ枝踏みしだく足音。慌てて後を追うけれど、木の根や石くれに邪魔されてさっぱり前に進めない。買ってもらったばかりの黒いワンピースもエナメルの靴もすっかり泥だらけ。このまま永遠に登り続けるのかもしれない気がしてきた頃、突然目の前が開けた。山肌に散らばる家々。それらを繋ぐ電線と電信柱。電灯の冷たい光。裸の畑が畝々に影を溜め、沈む陽を、静かに見送っている。生まれて初めて目にする、里山の景色。
上から足が降ってきて、枯れ葉の上に着地した。いつの間にか木の実でいっぱいになった、子供の体には大きすぎる籠を脇からふわりと拾い上げる。今同じ道を登ってきたとは到底思えない身の軽さ。振り向いてにやりと笑う、橙色の頬。
「使う?」
差し出された棒切れを掴もうとして、明日美は小さく悲鳴をあげた。
掌を見てみると、無数の木くずが産毛のように逆立って刺さっている。
悠太は小さく鼻をならしてから、手を引っ張って覗きこみ、ささっと木くずを払って、残ったトゲは爪をたてて抜き取った。悠太の手の熱さ。明日美は母の「あーちゃんの手は熱いね」という言葉を思い出した。大人になればなるほど体温が低くなるものなのだと母は言う。同い年なのに彼の手がこんなに熱いのは、自分よりも体が幾分小さいからだろうか。
「ハンカチ持ってる?」
言われて差し出したハンカチを、悠太は素早く棒きれにしばりつけ、そこを持つように促した。先に出した手はまだチクチクする気がして、反対側の手で掴む。今度こそ遅れをとらないよう、大きな籠の揺れる背中を必死で追いかけた。
下りの道は登りよりも随分楽で、まだ明るいうちに家までたどり着いた。
「これ置いてくるからまってて」
悠太がそう言って籠を背負ったまま走っていくのを見送って、明日美はお勝手口の台に腰かけた。足の指先がジンジンする。スカートに付いた泥を払ってみたけれど、今更どうにもならなそうだ。
台所からは、母が親戚のだれかと話す声が聞こえていた。
「あーちゃんもすっかり大きくなってて、びっくりしちゃった。三回忌の時なんてこんなちっちゃかったのに」
「まだ学校上がる前だったからねえ」
「これからが大変でしょう。都会は塾とかいろいろあるんでしょ?」
「まあ…、なんとか、ね」
艶をすっかり失ったエナメルの靴を脱いで逆さにして振ると、砂や小石がパラパラと落ちてきた。かつて白かったはずの靴下も薄汚れて、手で払ってもどうにもならなかったけれど、足はそれで幾分か楽になった。
「…でも、…養育費ももらってないんでしょ?」
「まあでも…、なんとかね」
「まわりに親戚もいないし、いざって時大変じゃない?こっち戻って来ちゃったら?」
「職場の人たちとか、みんなに良くしてもらってるから」
「そうかもだけどさ。あんたの母さんは戻ってきてほしいんじゃないの?悠太君がいるったって、慎一さんはやっぱり他人なわけだし」
「そんな、他人てことは…」
靴を履きなおしたところに丁度悠太が戻ってきたので明日美はもう一度外へでた。
あたりはもうずいぶん暗くなって、建物にも、明日美にも悠太にも、影が無い。
「さっきの籠の、あれどうしたの?」
「納屋に置いてきた」
悠太は母屋と納屋の間を通り抜け、裏の花壇の中を歩いた。母屋よりも大きな納屋の入り口は開け放たれていたけれど、中は真っ暗で何も見えなかった。
「納屋に置いて、それでどうするの?」
「ろうそくにする」
「ろうそく?」
「そう、じいちゃんとばあちゃんが」
クリスマスケーキやバースデーケーキに刺さった色とりどりのキャンドルを思い浮かべて、明日美は首を傾げた。あの木の実の、どこをどうしたらそうなるのか見当もつかない。
花壇の突き当り、砂利の小道を登って短い木立を抜けると、小さな小屋が立っていた。小屋といっても、先ほど通り過ぎてきた大きな納屋よりよっぽど立派な様子で、神社のような飾り屋根が重たげにのしかかり、正面入り口へと上る階段の手すりにも、細工が掘りこまれている。階段を降りたところには板張りの道が脇へ続いており、その先にはバスの待合所のようなプレハブが一棟。カーテンの隙間から灯りが漏れていた。
悠太はプレハブの方へは行かず、小屋の手前から斜面をよじ登りはじめた。途中まで登って、はっと気づいて後ろを振り返る。ぼんやりと突っ立っていた明日美の方に手を伸ばす。斜面に片足をかけてから悠太の手を掴むと、明日美の体はぐんっと斜面の上に持ち上がった。勢いでよろける体が再び悠太の手に引っ張られ、傾いた地面の上でバランスを取り戻す。学校の遊具とも、車や電車とも違う体の持っていかれ方が不思議で、明日美は悠太のびくともしない熱い手をみつめた。手首にも、足首にも膝にも、自分の体とは別の部品が使われているのだろうか。
悠太に手を引かれながらなんとか斜面をすすみ、小屋の裏側に回り込む。小屋の背面は山の斜面に接しており、壁の一部が斜面にめり込んでいて、一番壁のめり込んでいる斜面の上に立つと、丁度明り取りの窓から中の様子を覗くことが出来た。
小屋の中は灯りでゆらゆらと揺れていた。手前に座った祖母の背中が見える。奥に座ってこちら側を向いている顔にも見覚えがあった。昼間の法要で見かけたおじいさんだ。二人の間には一本の小さなろうそく。おじいさんはじっとろうそくの炎をみつめている。
「あのじいちゃんは毎回死んだ息子さんに会いに来んの」
悠太がひそひそとつぶやいた。
「ばあちゃんが、ろうそくの火の中に、その人の会いたい人を呼びいれてくれんの」
思わず眉をひそめて悠太の顔をみつめる。部屋の中をじっと覗く横顔。明日美のことをからかっているようには見えない。
「…魔法?」
悠太が明日美の方に向き直って、首を傾げた。しかめた顔の半分だけ照らされて影がゆらゆら揺れている。
「魔法…、まじない?」
自信なさそうにそう返した悠太に、明日美もうなずき返す。眉はひそめたまま。
悠太に中を見るよう促され、改めて、小さなろうそくに目を凝らす。五百円玉みたいな形の蝋の上に浮かぶ炎は、バースデーケーキのキャンドルなんかより随分と明るく大きいようだ。溶かした飴を引っ張り上げたみたいに伸びあがったり、左右にゆっくりとしなったり、絶えず形を変える炎についつい見入ってしまう。
「ろうそくじゃなくて、じいちゃんの、目、見て」
ひそひそと言われて視線を移す。おじいさんの瞳の中で、大きな炎が揺れている。と、炎の揺らぐ影が、人の形に見えることに気づいた。目をこらす。男の子だ。男の子が、おじいさんの瞳の中で走っている。立ち止まって手を振る。おじいさんの手が動いて、小さく揺れた。瞳の中の男の子は、おかしくてたまらないというふうに体をゆすって、また走り出す。
おじいさんは黙って炎をみつめ、手を振ったり、小さくうなずいたりしていたけれど、やがて炎はだんだんと小さくなり、やがて部屋の中は真っ暗になった。
一息置いて、電球の明りが部屋を照らした。まぶしさに、思わず目を細める。ちらりと横を見ると、悠太も同じように目を細めている。おじいさんは黙ったまま深々と頭を下げ、小屋を出ていった。
「見た?」
小声のまま、悠太が聞いてきたので、小さくうなずく。それを見てにやりと笑う、茜色の頬。それから素早く身をひるがえして、斜面を下り始めた。慌てて後を追う。
別の人が板橋を渡っていくのが見えた。見つからないように、そのおばさんが小屋に入るのを見届けてから、一気に斜面を駆け下りた。登ってきた時より緩やかな道を選んでくれたのか、今度は助けを借りずに小道まで降りることができた。
あたりはすっかり日が暮れて、丸い月が、木立の向こうからチラチラと姿を見せていた。低い声で鳴く鳥の声。来るときには気づかなかった、何処かで流れる水の音も。
納屋の前まで戻ると悠太はとなりの車庫を覗いた。
「お父さんまだ帰ってない」
それから納屋の中に入っていき、机の上の電気スタンドにスイッチをいれた。納屋の中がぼんやりと照らされる。机の横に、悠太がさっきまで背負っていた籠が置いてあり、その奥の壁には体がすっぽり入りそうな麻袋が高く積まれていて、手前の、口が開いた袋から、例の木の実がこぼれ見えていた。
悠太は、袋の山を飛び跳ねて登り、屋根の梁に飛び移ると屋根裏の暗がりに吸い込まれていった。屋根の軋む音が天井を移動して、見えない姿を思わず目で追う。
再び梁から麻袋に飛び移り、戻ってきた悠太の手には、500円玉のような形の塊が握られていた。
「まじない用の」
手渡されたろうそくは、ザラザラとしていた。
「どうしてこんな小さいの?」
「一回に会える時間が決まってるから」
「それって、どれぐらい?」
「...だから、そのろうそくが燃え尽きるぐらい」
「それってどれぐらい?」
「5分くらいかな」
「なんでそんな短いの?」
「長く会ったら…引っ張られるから」
「引っ張られる?」
先ほど、山の斜面で手を引っ張られた時の感覚が頭をよぎる。
一度は麻袋の上に腰を下ろした悠太が、すぐに立ち上がって壁際に走り寄り、少しだけ開いていた窓をぴしりと閉めた。納屋の中が急に静かになった気がする。外から何かが聞こえていたわけでもなかったのだけれど。
思わず出口に目をやる。月の明りが、轍にそって並んだ小石を照らしている。
「やってみたい?」
問われて振り返る。
「ばあちゃんいないからなんにも見えないけど」
電気スタンドのスイッチを切って走り出した悠太を追いかけて納屋の外に出る。砂利を踏む、四つの靴音。隣の車庫に入る。
闇に眼が慣れて、漏れ入る月明りだけでも車庫の中がなんとなく見える。奥にあったトランクを開けて、悠太が中からなにか取り出した。ライターだ。閉めたトランクの上に二人腰かける。
「ねえ、おばあちゃんは生きてる人でも呼べるの?」
「生きてる人?」
悠太の眉と眉の間にしわが寄るのが見える。
「生きてる人には普通に会えばいいじゃん」
「会えない人もいるじゃん。遠くに住んでたり」
「…ばあちゃんに聞いてみないとわからんけど」
促されて、先ほど手渡されたろうそくを、トランクの上に置く。
「おばあちゃんに、誰か呼んでもらったこと、ある?」
悠太が小さく首を横に振る。
「子供はまだだめだって」
「だめなの…?」
目の前のろうそくと、悠太の顔を交互に見比べる。なぜか二人とも、さっきからひそひそ声で話している。
「…やめる?」
ささやいてこちらをうかがう。月の明りを浴びた、青白い頬。
引き金を引く音とともに、シュッと空気の燃える音がして、オイルの香りがふわりと漂う。ろうそくの芯に火を近づけると炎が小さく踊りあがり、離すと、スンと光がしぼむ。しぼんだ炎はしかし消えはせず、ゆっくりと、音もなく盛り上がり、有るべき形へと収まっていく。型が定まった後も、炎は左右に膨れたり、上へ伸びあがったり、ちらちらとはためいたり、いつまでも揺らめいて目が離せない。それでも、炎はやはり炎でしかなく、期待するような人影が浮かび上がることは無かった。
小さく吐いた息で炎が大きく揺らめいた。
揺らめく炎の奥で、照らされた頬の輪郭がくるくると形をかえる。目を上げる。悠太の瞳。瞳の中で揺れる炎。
と、瞳の中の炎の奥に、人影が見えた。一瞬息が止まって、すぐに、そこに写っているのは自分に違いないということに気づく。再び息をつく。
悠太は、瞬きもせず、炎に見入っている。
瞳の中の人は悠太をみつめている。優し気な笑顔で。手をあげて、緩やかに振っている。
明日美はきゅっと手を握って自分の指を確かめる。手を振っているのは自分ではない。瞳に写っている人は、自分より年上の女の人だ。一瞬、母の笑顔が頭をよぎる。いや、明日美の母よりは随分若い人のようだ。
悠太の手が宙をさまよう。さまよう手の指先で火影が踊っている。
炎が、急激にしぼみ始めたかと思うと、音も無く消え去った。立ち上る煙のにおいが鼻にとどく。目の裏に焼き付いた炎の影が、ぼんやりと青く宙に浮いている。
目が慣れてくると、青白く照らされた頬の輪郭が見えてきた。悠太は消えてしまったろうそくをまだぼんやりとみつめていたけれど、はっとなって顔をあげた。目が合う。その瞳に何が映っているのかは暗くてよくわからない。悠太が即座に目を伏せた。息を吸い込む音が聞こえたけれど、開いたままの口からは、一言も出てこない。
明日美も口を開く。息を吸う。再び顔が上がる。悠太の瞳に映る、自分の影が見える。
月明り、煙のにおい。
遠くで、エンジンの音が聞こえた。ヘッドライトが二つ、こちらに向かってくる。
「お父さん帰ってきた」
誰ともなくつぶやいて、悠太が車庫から走り出る。
慌てて後を追いかける。