ブロッコリーの、モシャモシャしているところがいやなのです。お弁当の端っこの、四角いくせがついてしまうところもいや。他のおかずのいろいろな汁が混じって、モシャモシャにしみこんでしまうのもいやです。
お母さんに、ブロッコリーがきらいだと、うったえたことはありません。それでもお母さんだって、わかっているはずなのです。なのに、お母さんときたら、気にせずお弁当に塩ゆでのブロッコリーを入れるのです。
いつもの美佐なら、だまって食べます。モシャモシャするのはいやだけど、思い切って飲みこめば、あっという間のできごとですから。
けれども今日は遠足です。年に一度の遠足です。クラスのみんなが一緒なのに学校ではないのです。教室でもないのに、みんなでお弁当を食べられるのです。絶対に、ちょっとでも、いやなことなんて、あってはならないのです。
おやつだって、じっくり選んで持ってきました。新しいパンツと靴下をはいたし、一番好きなスカートもはきました。すばらしいことに、空は抜けるような真っ青。春のスキー場は緑の香りに包まれ、グループごとに広げられた色とりどりのしきものが、春山の芝をにぎわしています。担任の澤田先生も、今日は一度もどなり声をあげていません。今のところ、完ぺきな遠足です。ここで、たった一つまみのブロッコリーに、全てを台無しにされるわけにはいかないのです。
美佐は、ブロッコリーを左手でつまみ上げ、あたりを見まわしました。一緒に座ったマキコちゃんは、牛乳用のストローを配る当番で、みんなの間をまわっています。他のみんなも、自分のお弁当を調べるのに夢中で、こちらを見ている者はありません。
すっと息を吸いこむと、美佐はブロッコリーを肩ごしにポーイと放り投げました。
青空の中に浮かび上がったブロッコリーが、黒い陰になって、後ろのほうに消えていきました。ブロッコリーの消えた空の、雲ひとつない空の、なんと青いことでしょう。
ズシン
後ろで、重たい音がして、美佐はとっさに頭をおおいました。思わずぎゅっと目をつぶります。恐ろしいほど大きな音です。他の音が全てかき消されて、何もかもが美佐から遠のいてしまったみたいです。
しばらくたって音が消えた後も、耳の中がチリチリします。美佐は動くこともできません。
そこへ今度は、スルスルと、袋をひきずるような音が聞こえてきました。
そっと目を開けてみると、手前の地面に落ちた自分の影の、頭のてっぺんが、もこもこと動いているではありませんか。
あわてて頭に手をやりましたが、どうも、全くなんともないようです。そうするうちにも、もこもこは、目覚しい速さでふくらんで、一本の木の形になりました。木の影はむくむくと枝を広げ、幹は太くなり、美佐の影をすっぽり飲み込んでしまいました。
あまりのことに、美佐の口はぽかーんとあいたまま。体は石のようにこわばって、息をするのもやっとです。
高いところでは、緩やかな風が吹いているらしく、こんもりとしげった枝の影が大きく揺れています。影が大きく揺れるたび、枝葉のすれ合う音が耳に届きます。それがまた、少々おかしくて、動物の鳴き声に似ているのです。
メェー、メェー、メェー。
美佐は、なんとかうでを下ろして、ひざをかかえて、風の音に耳をそばだてました。
メエメエという鳴き声は、内緒話のように何かをささやいているようです。
「ずいぶんと明るいようだ。」
「そうか?」
「どこと比べて明るいのさ?」
「もちろん、腹の中と比べてだ。」
「なぜわかる?」
「ぼくら、まだ腹の中に入ったことなんてないだろう?なのになぜさ?」
「私達の根が、それを知っているのだ。」
「ネが?」
「ネって根っこのこと?」
「根は全てお見通しだ。私達の緑の毛皮も、花も茎も、既に腹の中へと旅立った私達の祖先も、全ては根に宿るのだ。」
声はいくつもあって、何の話をしているのか全く分かりませんでしたが、美佐の知っている言葉には違いないのでした。ただし、それだって、少しでも気を抜けばメエメエ言っているだけに聞こえるのです。
「それにしても、あの女は何を考えている?」
「あの女って、俺達を湯に放りこんだ?」
「ぼくは好きだな。あの人、歌うだろ。」
それから、押し殺した声の鼻歌が聞こえてきました。美佐の知っている歌でした。お母さんが、いつもお台所で歌っている歌です。
「確かに、お前の歌よりはましだな。」
「ぼくはあの人の腹に入りたかったのに。」
「それはむりさ。」
「どうして?」
「あの女は私たちがきらいだからね。」
「では、なぜ娘に食べさせる?」
美佐はびくっとしました。より一層会話に耳を傾けます。
「あの女も知っているのさ。」
「あの女も、根に聞いたのか?」
「もちろん。形あるものは全て根に宿る。だから、みんな、私達の美しさを知っている。」
「美しさ?俺のこの、上等な毛皮のことか?」
「おい、そこはぼくの毛だ。」
「俺の毛さ。」
「私達の毛は美しいが、芯はもっと良い。すきとおるような美しい緑色なのだ。」
「それなら、俺もなぜだか知っている。」
「根からの記憶だ。あの女、私達がきらいだが、美しいことは知っている。だから娘に食べさせるのだ。」
「そういうものか。」
「そういうものだ。」
「ところが、あの娘、食べなかった。」
「美しい俺達を?娘も食べなかった?」
「だから、ぼくたち、腹の中に入れなかった?」
「だから、ここは、腹の中ではないと?」
「それで、ここが腹の中でないんなら、俺達、どうなるんだ?」
「どうなるのさ?」
「どうなるのだろう。」
「どうなる?」
「どうなる?」
「どうなる?」
パラパラパラ、パラパラパラ。
やにわに、真夏の花火の高いところではじけるような音がしました。
美佐は首をすくめながら、上のほうをうかがいました。いつの間にか、少しくらいなら体を動かせるようになっていたのです。
じっと見つめていると、緑色の、ほおずきくらいのつぼみがいくつもいくつも落ちてきました。
つぼみは途中で破裂して開き、くるくるとまわりながら、地面に落ちるのでした。
つぼみの中には緑に光る四角い実がありました。美佐は落ちてくるつぼみを一つてにとって、その実を口に入れてみました。
緑の実は、冷たく、かむと青くささが口の中に広がりました。舌の根元がピリッとしびれてつばがじわっとにじみます。それが、間違いなくブロッコリーの芯の味なのでした。
緑の花が地面に落ちると、花びらがくずれて砂になり、緑の実はその砂の中にうずまりました。
一呼吸置いて、砂の山から小さな芽が飛び出しました。その芽は音をたてて伸びていきます。袋のひきずられるような音です。はじめに聞いたスルスルという音はこれだったのです。
芽は、勢いよく伸び、あっという間に美佐のくるぶしくらいの高さになりました。茎は緑色のままずんと太くなり、深緑色の葉がおいしげりました。まるでブロッコリーそのものです。違いがあるとすれば、深緑のしげみのところどころに、白い花がのぞいていることくらいです。
メェー
白い花から、小さな鳴き声が聞こえました。美佐は驚いて目をこらしました。花に見えたのは、羊の顔だったのです。
メェー、メェー
鳴き声は、あちらこちらから聞こえてきます。気がつくと、そこら中にブロッコリーの木が生えてきていたのです。そして、その一本一本で、すずなりの羊達が、いっせいにメエメエと鳴き出したのです。
メェー、メェー、メェー
美佐は目をつぶり、耳をふさぎました。
ブロッコリーの木はどんどん芽を出し、羊の声はどんどん増えていきます。
メェー、メェー、メェー、メェー
メェー、メェー、メェー、メェー
メェー、メェー、メェー、メェー、メェー…
「ネェー。」
美佐が目を開けると、クラス一のお調子者、山口君が美佐のとなりにしゃがみこんでいました。
「ねえ、その緑の木みたいの、なに?」
指差されたほうをみると、美佐の左手には、放ったはずのブロッコリーが、まだしっかりとつままれていました。ブロッコリーの木も、美佐の影をおおった大木の影も、すっかり消えています。
「ねえってば!」
山口君が美佐をゆさぶります。
「ブロッコリーだけど。」
美佐が言うと、山口君は
「えーっ、はじめて見た。食っていい?ねえ、ちょうだい。」
と、手を合わせました。そして、美佐がうなづくが早いか、左手につままれたままのブロッコリーにパクリとかぶりつきました。
いつの間にか戻ってきていたマキコちゃんが言いました。
「山口君、ブロッコリー食べたことないの?」
山口君がうなづくので、美佐とマキコちゃんは、顔を見合わせてケラケラ笑いました。
美佐とマキコちゃんは、笑いながらお弁当を食べました。
お弁当の後には、みんなで輪になって、ハンカチ落しや、鬼ごっこをして遊びました。澤田先生も、一日中にこにこ顔でした。
美佐はブロッコリーを食べずにすみました。
けれども、あの羊が山口君のおなかに入ってしまったのかと思うと、少し、惜しいことをしたような気もするのでした。