何かの栓が抜けたみたいに音が終わった。肺に酸素が物凄い勢いで押し寄せてきて目がまわりそうだ。薪のはぜる音がぱちぱちと響く。むんとする草いきれ。数歩先の草木を炎が照らしている。あたりに静寂が戻った。そして。
無意識のうちに両手が耳に伸びていた。耳たぶを引っ張ってみる。次は穴。穴に指を突っ込んで引っかいてみる。穴の中で指が動くたび、ゴリゴリと乾いた音が聞こえてくる。はっきりと聞こえてくる。耳が、元に戻っていた。
マサキの姿はなかった。林に入っていって探してみることもできたかもしれないが、それが無駄なことはわかっていた。
見るとじいさんはほうけたような顔をしてマサキの立っていたあたりに視線をさまよわせていた。マサキが現れてから何度も思ったことだが、ちょっと自分の経験からは考えられないようなことが目の前であっさりと起こってしまうとその事実を受け入れたにしろ無視したにしろ次の行動に移るにはとても時間がかかり、多くのエネルギーを必要とするらしい。それに、俺はとにかく疲れていた。そんなわけでじいさんがぼんやりしている間、こちらもただ黙って自分からは何もせずにいた。
水底の生ぬるい圧力から開放されて耳がすっかり元に戻って、実のところかなり気分爽快だった。ただ、できるだけ動きたくない気分だったので頭も働かせる木にならず、ああ、なんかすっきりしたなあとか、マサキがいなくなったなあ、くらいの事しか考え付かなかった。
「いっちまった。」
じいさんが口を聞いた。
「私はアキを置いて一人でこの町を出たのさ。帰ってきたときにはもうアキは死んでいた。でもやっと会えた。もうこれで思い残すこともない。」
尋ねてもいないのにじいさんは一人で語っていた。
「あの、犬山さんですよね?」
「ああ。」
「犬山さん、町を出たんですか?」
「そうさ。」
「でも、犬山水産の社長だったんでしょ?」
「そうさ。」
「町を出たのはアキエさんの恋人ですよね?」
「そうさ。」
それ以上質問するのは止めることにした。このままあなたは実は女ですよね、と聞いてもそうさと答えそうな雰囲気だった。なんだか、昔ファミコンの画面が固まってしまった時のイメージが頭に広がった。自分にもいつかはこんな時が来るのだろうか。とりあえず、ここは逆らわない方がいい。
じいさんはなおもしばらく口の中でもごもご言っていたが、俺から笛を取り上げると、代わりにつるはしの柄が取れたものを俺に持たせて湖に向かった。来る時は恐ろしく狭い獣道を通ったが、車も通れる砂利道があって、岸には手漕ぎの船がつないであった。
じいさんはその船で対岸とのちょうど中間あたりまで来ると、船を止め、つるはしの先を縄で笛にくくりつけて水の中に沈めた。
「アキの所まで行けよ。」
笛はゆっくりと沈んでいき、見えなくなった。
「これで終わった。」
かなりの時間をおいて、じいさんがつぶやいた。それからまたしばらく間があって、それから、今はじめて俺の存在に気付いたようにこちらを見た。
「あれ、あんた誰だっけ。」
苦笑しながらも、ただの旅行者だと言うと、そのまま対岸まで送ってやると言ってくれた。じいさんは突然元気になったのか、湖のことや、自分の息子が経営しているウルフ製菓の饅頭の話をしてくれた。
じいさんはやっぱりただの犬山のじいさんだった。また言動が怪しくなったらどうしようかと思ったが、笛のことを聞いてみると、やはり、アキエさんが旅芸人からもらって大事に持っていたものらしかった。
「アキエが死んだ時、一緒に埋葬してやる気にはどうしてもならなくてなあ。」
規則的に櫂を動かしながらじいさんはそうつぶやいて、鼻で笑った。
それから今度は俺の話になった。たまにこうやって旅行をするという話になると、じいさんは羨ましいもんだと笑った。
「私だって若い頃はこの町を出てみたかったなあ。」
空を仰いでそう言ったじいさんは小屋の前で自分と旅芸人を混同していた時とはまるで×人のような気がした。
すっかり夜更けだと思っていたが予想していたほどに時間が経過しておらず、タクシーで駅まで行くとちょうど夜行列車が来る頃だった。駅前にコンビニがあったので、とりあえず入ってみようと思いポケットの小銭を探ると、紙切れが指に触る。取り出してみると彼女から来た引越しの手紙だった。水の中でもまれたせいで文字がにじんで何も判別できなくなっていた。しばらく眺めて読み取ろうとしたけれどだめだった。それでもう一度丸めて店先のくず入れに捨てた。コンビニに入るのは止めた。例のごとく、振り返りそうになったが途中で気付いて何とか踏みとどまった。顔がにやけた。
久々に体を動かしたせいか暖かい車内にいると泥の中を掻き分けているかのように体を動かすのが困難だった。明日はたぶん筋肉痛地獄が待っている。
電車が動き出すとどっと眠気が襲ってきた。心地よく遠のいていく意識の中で繰り返し見た夢のことを考えていた。多分もう二度とあの夢も見ない。とも限らないな。明日またどうなっているかなんかわからない。なんて。今頃マサキはどうなっているだろうか。月には辿り着けたのだろうか。それともまた、笛の音を探し続けるのだろうか。あのじいさんはこれからも元気に暮らしていくのだろうか。麦茶をくれたおばあさんは、石投げをしていた子供たちは今頃もう寝ているだろうか。
明日は一日ゆっくり休もう。そうして仕事場に『月の嫁』饅頭を持っていってやろう。三木が大喜びしてくれるに違いない。黒崎や田部由子も、饅頭の由来を知れば面白がってくれるだろう。
それから、何年も月日がたって、いつか香港から帰ってきた彼女に偶然街で遭ったりでもしたら、手紙は水で滲んで読めなくなったことを教えてやろう。けれども誰にもマサキのことは言わないのだろう。そして、ししおどしの音を聞くたび、あのおかしな着物や、強い瞳や、裸足の足を思い起こすのだ。静かで冷たい感触と共に。
消灯を告げるアナウンスが入り、音もなく社内の明かりが消えた。暗い社内に窓の外から光が流れ込む。随分高くなった月が電車を追いかけてきた。窓から湖は見えない。それでも目を閉じると、月影が湖面に映っているのが見えた気がした。