チャイムを押した。何も起こらなかった。
饅頭屋のじいさんの住んでいるらしき家は、まわりに並ぶほかの家同様、こじんまりとしていて静まり返っていた。モルタルの壁にはさびの流れ落ちた跡がつき、窓の桟は細かい砂がこびりついてびくともしなさそう。庭の雰囲気や窓から見える洗剤のプラスチック容器やなべの感じから、生活している様子はうかがえるものの、今現在人がすんでいるとはどうしても思えない。
庭の方にベランダがありそうだったのでそちら側に回ってみようとしたとき、道の向こう側からじっとこちらを観察している風なおばあさんと目が合った。
小汚い格好をした見知らぬ男がお向かえさんをかぎまわっている。お婆さんにしてみればさぞ怪しく見えよう。
今更、何も無かった振りをして立ち去るのもあまりにわざとらしい。けれど、もう、そうするしか他に無い。ぎこちないそぶりで踵を返し、おばあさんには気付かれないようにチラッとそちらを見た。と、おばあさんはこっちに向かって歩いてきている。うわっと思ったらまた目が合ってしまい、もう立ち止まるしかなかった。
近づいてきたおばあさんは五十代くらい。最近のお年よりは物凄く若く見えることが多いから、もしかしたら六十代かもしれない。年上の人というのは本当に年齢がさっぱりわからない。
そのおばあさんがにっと笑って何か言ってきた。何を言っているのかわからないが、とりあえずうなずくとおばあさんも嬉しそうにうなずいた。そしてそのまま、自分の家のベランダに引っ張っていき、麦茶とせんべいを出してきてくれた。そうしている間中、なにやらしゃべっていたが、さっきの小学生の話を口にすると、眉を寄せてああっと溜息をつき、右手を立てに一振りした。おばさんがよくやるあれだ。たぶん仕様の無い子どもたちだというような事を言ったのだと思う。あいまいにはははと笑うと、おばあさんも笑ってまたしゃべり始めた。
何を言っているのかはさっぱりわからなかった。おばあさんのおしゃべりは延々と続き、たぶん終わりの無いような内容だったのだと思う。マサキにおばあさんが何を言っているのか聞く暇は一切無かった。それでもおばあさんの身振り手振りに合わせて相づちを打っていれば二人の間には何の問題も生じず、夕暮れに近づいて、おばあさんがとうとう話し止めた時、作り笑顔のせいですっかり頬がひきつってしまっていたものの、俺とおばあさんの間には何かとても暖かい物が流れている気がした。全く内容が無くても麦茶とせんべいと時間さえあれば会話なんていくらでもできるのだと知り、なんだか感動した。多分、今回の旅の中で一番の感動だし、一番心に残る出会いだろうと思いながら、別れの挨拶を十分にしておばあさんの家を後にした。
歩き出した途端、どっと疲れが押し寄せてきた。お婆さんとの感動的対話は、予想以上に体力を消費する作業だったらしい。とりあえず湖周辺に点在する公園に行って一休みするよう提案した。
「あのばあさん、何言ってんだか、俺、さっぱりわからなかった。」
「やっぱり。」
「でも楽しかった。」
「そう。」
「向かえの爺さんのことなんか言ってたか?」
「近所の子どもがめちゃくちゃな噂を立てては家の周りに集まってくるんだって。」
「そんなところだよな。やっぱただの嘘か。」
マサキが急にこちらを見つめて目をそらした。その口からそっと溜息が吐かれる。
「なに?」
マサキはしばらく黙り込んでいたが、結局は口を開いた。
「お爺さんていうのは犬山水産の元社長の犬山ゲンキチさん。女の人って言うのはお爺さんの妹のアキエさんのことだって。」
「女の人って、閉じ込められてた?自分の妹を閉じ込めてたのか?」
「そのアキエさんが、若い時にある旅芸人と懇ろになったんだって。」
「懇ろ…。」
「アキエさんは男と一緒に町を出ようとしたんだけど、犬山の家がそれを許さなかったんだって。」
「あのばあさん、そんなことしゃべってたのか。もっと自分の家族のことでもしゃべってんのかと思ってた。」
「そっちの話が殆ど。ハルキと同じくらいの孫がいるとか。」
「ああ、やっぱり。で、アキエさんは駆け落ちできないように閉じ込められたのか?」
「違う。アキエさん、子どもを産んだんだって。」
「え、誰の?」
「旅芸人の。それで犬山さんはアキエさんと子どもを人目につかないように中島に住まわせた。」
「閉じ込めたって、そのことか。」
「そうみたい。それで、犬山のお爺さんには子どもが無かったからアキエさんの子どもを引き取ってあとを継がせたんだって。その子どもって言うのが今のウルフ製菓をはじめたんだって。」
「アキエさんは?」
「子どもを獲られてからもずっと島で一人で暮らしたらしい。で、アキエさんが亡くなって、家から笛が出てきたんだって。」
「は?笛?なんで?なんの?」
「旅芸人が自分の持っていた笛を渡したの。」
「なんでただのお向かえさんがそんなことまで知ってるんだ?」
「ここらではみんな知ってる話だって。」
みんな知っているということは、つまりそれは噂というものなわけで、ということは、胡散臭さという点においては、あの小学生が教えてくれた話と大した違いはないということか。特に最後の笛が出てきたところなど、いかにも作り話っぽい。
たった一人で暮らしていたアキエさんが毎日そっと愛した男が置いていった笛を取り出して眺めているところなどは確かに絵になるかもしれないが。
「笛か。」
前方に見えたベンチに座り込みながらつぶやいた。大きく伸びをしてゆっくり息を吐く。マサキもすぐあとからやってきて大人しく隣に座った。
目の前は湖。昼飯を食べたときとは違う場所なので中島やその奥に見える景色も多少違ってくる。
ベンチは三人掛け程度の長さで、不ぞろいな石畳の上で不安定なまま置かれていた。石畳は、歩道というには広く、公園というには狭い。周りには人口であろう芝生が敷かれていて、その芝のふちには木の杭が並んでいる。そしてその先はすぐに水だ。
マサキは座ってどこを見ているのかわからないがとにかく前方を見据えている。
「アキエさんてさ、毎日何やってたんだろうな。」
「一人でもやることなんて一杯ある。」
思わずマサキを見つめる。何気なく浮かんできた疑問を口にしただけだったが、そういえば、マサキも隔離されて生活していたのだった。そして毎日姿の見えない狼役の吹く、笛の音を聞いていたのだった。
「アキエさんの笛ってどうなったんだ?」
「知らない。」
「じゃあ、やっぱりあれだな、犬山のじいさん探し出してだな。」
「何のために。」
「何のためにって、笛要るんだろ。」
「その笛は嫌だ。」
例のごとく、実にさらりとマサキが言ってのけた。
「そんな笛、絶対狼の笛の代わりなんてできない。」
初めは、口笛で間に合わせようとしたくせに何を言い出すのか、この小娘は。
「なんでだよ。笛なら何でもいいんだろ。」
「そう。吹き手がちゃんとしてればね。」
語尾を強めてマサキが言い捨てた。今のは厭味か?厭味を言われたのか?あまりの理不尽さに息をするのも忘れてぼうっとしているとマサキがつぶやいた。
「もう、帰っていいよ。」
「はあ。」
「やっぱり、誰にも何にも代わりなんかできない。」
すました顔で言い切るマサキ。そこはいつもと変わらない。けれどもその時、なんとなく気付いてしまった。
マサキはいつもめちゃくちゃなことを言うが、マサキの中では芯が通っていて真っ直ぐ一本の線が見えているようなのだ。ところが今、初めてその糸を見ないようにして話している。別段表情に表れているわけでも、声に出ているわけでもないのに、なぜか手にとるようにそれがわかるのは自分にもその体験があるからだろうか。自分にも矛盾に矛盾を重ねるような、それでいて自分はしっかり前を向いていると思い込んでいるような、そんな時があっただろうか。
いやいや、どこをどう探しても自分がマサキのように自信たっぷりの態度をとれた記憶など出てくるはずが無い、と思う。それなのに、なぜか、今のマサキには親近感が湧いてくるのだった。
ただ、親近感が沸くからといって、ではどうするかというと、どうしようもないのだった。
「マサキはどうするんだ?」
「私は私でどうにかする。」
「そうか。」
「そう。だからもう帰っていいよ。」
「ああ。」
と返事をしたきり、その場を動くことも、何か他に言うこともできずじっとしているしかなかった。