一緒に起きていようと思ったのにいつのまにかやはり眠ってしまっていた。
夢を見た。仕事場の印刷機の前に人が群がっている。何かしきりに話しているが印刷機の音がうるさくて全く聞こえない。ストップボタンを押そうと思うのにどうしてもそれが見つからない。隣に立っていた男が笑いながら足元を指差している。見ると、その男は裸足で、他の人々もみんな裸足なのだった。そのとき不意に、男が黒崎であることに気付く。黒崎は印刷機を指して何か言うと、その音にあわせて足踏みし始める。他の人々も次々と足並みをそろえていく。土煙が舞い床のあったところは砂に変わっている。その黄色がかった砂浜を踏みしめる浅黒い足に水しぶきが飛ぶ。黒崎はもうどこにもおらず半裸の人々が炎に照らされて踊り狂う。誰かが太鼓をたたいている。揺れる腕の群れ。火の粉が月に降りかかる。
緑の中をマサキが狼にまたがり駆け回っている。獣の吐息に合わせて長い黒髪が波打つ。その狼は前にも一度見たことがある、と思ったと同時に狼の口がぱっくりと開いて俺はその中に飲み込まれる。闇に包まれる寸前、視界には月が映り、さざなみだって散っていく。
目が覚めても少しの間そのままじっとしていた。光の感じから言って朝はとっくに過ぎてしまっているようだ。窓を見ると、本当に眠らなかったのか、マサキが相変わらず座って外を見ていた。俺はもう一度向き直ってしばらく天井を見つめていた。泳ぐ夢は見なかった。
マサキ曰く、とにかく笛が必要とのことだった。
「大人の男の人が笛を持ってないとは思わなかった。」
「何で笛なんか持ってなきゃなんないんだよ。」
「悪いものをよけ、良いものを呼ぶため。」
「悪いものって?」
「そんなのその笛の持ち主が決めること。」
「マサキは持ってないのか?」
「女は持たない。」
「なんで?」
「必要ないから。」
マサキの答え方には、いちいちどうしてそんなことも知らないんだ、というような含みがあって、あまり尋ねる気にならなくなってくる。
「とにかく笛を手に入れないと。」
と言ってもこの小さな田舎町に楽器店などありそうもない。ホイッスルのようなものならどこかにあるかもしれないが。
「笛か。」
「本当は低くて大きい音が出るといいんだけど、小さいものでも何とかなると思う。大事なのは吹き手だから。」
そう言ってマサキがこちらを見た。吹き手というのはやっぱり俺のことらしい。
「いかによく狼の声を吹き表わせるか。」
「そんなこと言われてもさ、第一狼の声なんて知らないし。」
「声ぐらい聞いたことあるでしょう。」
「ない。」
「ない分けない。」
「ないものはないんだよ。だいたい狼なんていないし。」
マサキの足が止まった。
「どうしていないのに狼を知ってるの?」
「それはつまりあれだよ。ここには狼なんていないけど、いるところにはいるんだよ。」
マサキが小さく溜息をついた。
「ハルキってどうしてそうやってめちゃくちゃなことを平気な顔で言うの?」
そしてもう一度溜息をついてまた歩き始めたのだった。そちらこそ、どこへ行くのかわからないくせに前を歩くのは止めてもらいたい。
真っ昼間の商店街は閑散としていて、たまに買い物用の手押し車を押すおばあさんが、限りなくゆっくりと道を横切る姿が見られるくらいだった。商店街といっても、食料品店が何軒かと理髪店やラーメン屋などがぽつぽつと並んでいるだけの小さな通りで、端から端までゆっくり歩いても十五分といったところだろう。
とりあえず手前の食料品店に入ってみることにした。こう言う小さな町の場合、食料品店がコンビニのような役割を果たしていて、文具から下着まで幅広く扱っていたりする。ひょっとしたら何かの棚におもちゃの笛ぐらい置いてあるかもしれない。
ちょうど腹も減ってくる頃だし、ついでに何か口に入れるものをと思い、軽食の棚を物色している時、隣にあった土産物コーナーで面白いものをみつけた。
それは、十個か十二個入りくらいの箱入り饅頭で、包み紙には湖と月が描かれていた。そして、その月の中にはウサギの代わりに着物姿の女の影が映っているのだった。箱の右上部分には筆文字で『月の嫁』と銘打ってある。
マサキも興味を持ったらしく、箱を手にとって眺め始めた。
「月の嫁だって。」
小さくうなずいて、マサキは更に箱にかかれた線をなぞったりした。月の中に映りこんだ長い髪の黒い影は昨日湖へ入って行ったマサキの後姿に似ていないこともない。箱を裏返してみると、饅頭の名前の由来が簡単に書いてあった。
「湖で貝を採るのは女たちの仕事でした。それは非常に厳しい仕事で、命を落とす者も少なくありませんでした。そのようにして命を失った娘は月の元に嫁入りしたといわれ、弔いの替わりに婚礼を挙げてもらえるのでした。湖面に月が美しく映る夜にはお嫁に行った娘の影が月の中に見えるといわれています。」
「私は貝採りなんてしなかった。」
「ただ書いてあるんだよ、ここに。」
マサキは何も言い返さずに読めもしない字面を指で追う。
全くマサキの話と重なるわけではないけれども、何かの縁があってもよさそうな感じだ。仕事が厳しくて死人が出たという話をお土産の饅頭にしてしまう感覚はちょっと信じられないが。
「これは何?」
マサキが箱の一角を指した。見るとそこには円の中に狼の首をモチーフにしたマークが描かれていた。下にはカタカナでウルフと書かれている。
レジに座ってテレビを見ていた店主らしきおやじに尋ねてみると、おやじは箱を手にとり、眼鏡をはずしてしばらく観察してから「ああ」と納得して何か言った。よく聞こえなかったので聞き返すと生産もとの欄を指して説明してくれた。
生産元はウルフ製菓となっている。狼のマークは商標のようなものだということだろう。俺の耳が悪いことを察してはっきり話そうと努力しているおやじの言葉の中にまた別の名前が出てきた。
「犬山?」
主人は小さく何度かうなづいて、またなにやら一生懸命説明している。
「犬山水産。」
突然マサキが言葉を発したので慌てて振り返る。当然店主は気付いていない。
「昔は犬山水産だったって言ってる。」
「ああなるほど。」
思わずつぶやくと、店主はやっとわかってくれたかというようににかっと笑って何度もうなずいた。
実際はさっぱりわかっていなかったけれども、とりあえずお礼を言ってその饅頭と少しの食べ物を買って店を出た。
「あのおやじ、何言ってたかわかったか?」
マサキは肩をすくめて見せた。
「結局あの印は狼じゃなくて犬だってことでしょ?」
「全然違うと思うぞ…。」
マサキはおやじの話がしっかり聞こえていたはずなのに俺よりもわかっていないらしかった。文字が読めないということはこんなに面倒なことなのか。
「あのマークはな、ウルフ製菓のウルフ。で、犬山水産はひっくり返せば山犬。どっちも狼のことなんだよ。」
「ああ、そうなのか。」
「そうなのかって…。でもなんで昔水産会社で今お菓子屋なんだろうな。」
マサキはもう一度肩をすくめて言った。
「知らないけど、貝が採れなくなたからだって言ってた。」
「あのおやじが?」
マサキがうなずく。貝が取れなくなったことは水産会社がお菓子屋になった理由には全くなっていないような気がするが、まあそれはそれとして。
「犬山水産、貝採ってたのか?」
「ってオヤジが言ってた。あんな饅頭売ってるけど、昔は犬山水産のせいで本当に死んでしまった人がけっこういたんだって。」
「うわー。」
そんな自分の会社のマイナス部分を最大限に生かして土産物の饅頭にしてしまうとはなんという恐ろしい会社だ。でも、確かにインパクトあって売れそうな気もする。実際、土産物というのは大概信じられないセンスと想像力で作られているものが多い。そしてなぜか旅行中だとそういうゲテモノを面白がって買ってしまうものだ。
だから土産物は嫌いなのだ、などと考えている間に、マサキは別のことを考えていたようだった。
「狼は娘たちを貝採りにやっていたのか。」
犬山水産を狼と考えれば、確かにそういうことになる。そして、狼が娘たちを月に嫁入りさせていたとも、こじつけて考えれば言えなくもない。なんだかちょっと面白くなってきたかもしれない。
「貝なんて採らなかった。」
眉をひそめてマサキがつぶやいた。マサキにはあまり面白くないのかもしれない。
笛は結局どこでも見つからなかった。
湖のほとりで昼飯を食べることにした。饅頭と一緒に買ってきておいたパンとお茶。マサキは昨日の夜と同様、食べたくないと言い出した。考えてみれば、俺の知る限り、マサキは一度も食べ物を口にしていない。理由を尋ねてみると、そんなどこから取ってきたのかも誰がつくったのかもわからないものは怪しくて食べられないとのことだった。なんだそれは。それではどうやって食料を調達するつもりだったのか。
散々大丈夫だと言って聞かせ、自分で食べながらすすめると、やっとマサキも口をつけた。全くどれだけそうやって食べないでいたことやら、食べ始めたらなかなかすごい勢いで平らげてしまった。ただ、食べる前に、
「ハルキを信じる。」
と、神妙な顔で言った時にはちょっとぎくりとしてしまった。実際のところ、マサキの言うとおり、今食べたものの中のどれ一つとしてちゃんと説明できるものはなかった。今だけではない。日常生活の中で自分が腹に入れているものなんて殆ど何が入っているのかわからない物ばかりだ。
けれどもそんなこと言って飢え死にするなんてもっと笑えない。マサキだってなんだかんだ言って残らず食べた。人間腹が減っていれば毒が入っているかもしれなくたって目の前のものを食うしかないに違いないのだ。昔、たくさんの野良犬や野良猫が毒饅頭で殺されたという話を聞いたことがあるが、誰もそうやって死んでいった犬や猫を馬鹿にはできない。
「考えたんだけど。」
すっかり満腹になってお茶もすっかり飲んでしまった頃マサキがいった。
「なにを?」
「饅頭のこと。」
一瞬マサキも毒饅頭のことを考えていたのかと思って驚いたが、もちろんそんなはずはなくマサキの視線の先にあるのはウルフ製菓特製、『月の嫁』饅頭なのだった。
「きっと、この世界の未来は、私のふるさとに繋がっている。」
マサキはどうしてもここを過去の世界だと思いたいらしい。逆の可能性は全く考えもつかないらしい。同じ饅頭のことを考えるにしても、いろいろだ。俺は饅頭ひとつでそんなファンタスティックな考えには及ばないだろう。
「この、月の嫁饅頭の話と、犬山水産の狼の印象が長い年月をかけて私の知っている歌の形に整えられていったんだ。」
「そんな、強引なさあ。もしそうだとしたらさあ、狼と娘は主人と雇われだぞ。なんかがっかりじゃないか?」
昨日やたら熱っぽく笛の音のことを語っていたマサキの顔を思い出した。表情のころころ変わるタイプではなかったけれども、だからこそそういうちょっとした変化がやたらと印象に残っている。
黙ってしまったマサキをチラッと横目で見た。固まってしまっているように見える。自分で仮説を立てておきながら、マサキにとってもそこは考えたくないところだったのかもしれない。ここは一つ話題を変えたほうがよさそうだ。
「ってゆうか、それより笛だよ笛。結局見つからなかったんだからさあ。何とかしないと。」
マサキは膝を抱えて目を伏せてしまった。声をかけても反応がない。こうなってしまうと、もうどうしてよいか分からない。何度か、何か言おうとしたがこれ異常事態が悪化しても困るのでとりあえず様子を見ることにして、さっき店先で購入した使い捨てカメラなんかで景色でも激写することにした。
ファインダーを覗き込む。けれどもシャッターを押すことができない。明るさが足りない。朝から薄々気付いてはいたが、どうも視界がどんどん暗くなってきているようなのだ。暗く、光が届きにくくなってきて、ものの形がぼんやりしてくるような。マサキに会ってからまわりの水底感は強まるばかりのようだ。このまま行くとどうなってしまうのだろう。生ぬるい水の中で、見えるのも話せるのもマサキ一人。ゆらゆらうごめく街の中を二人で行く。かなり深刻な事態だというのになぜか穏やかなイメージばかりが浮かんでくる。
カメラを持ったままぼうっとしていると耳をつんざく甲高い声が響いた。子供の声だ。振り返ると、小学生らしき三人組がすぐそばに立っていた。女の子が二人に男の子が一人。女の子二人のほうが体が大きく、男の子は二人の後ろに隠れるようにしてこちらを伺っている。
「旅人さんですか。」
髪が長いほうの女の子が叫んだ。子供の声はよく響く。少し耳が痛いがおかげでよく聞こえた。
「絵描きさんですか?」
もう一人の女の子がたたみかけるように聞いてきた。首を振るとまた尋ねる。
「じゃあ、写真家?」
今度は髪の長いほうが叫ぶ。
「じゃあ探検家?」
「馬鹿じゃない、探検家なんていないわよ。アルピニストならいるけど。おじさんアルピニストでしょ。」
笑いをこらえながらもう一度首を振るとアルピニスト発言をしたショートカットの女の子は少し戸惑って言った。
「じゃあ、なんでもない人?」
「そう。」
「ふーん。」
三人ともあからさまにがっかりしている。申し訳ない。三人、しばらくこちらを観察していたが、男の子が湖の方に駆け出した。長髪の子がどすどすと後を追う。残った一人はそれには続かず、置いてあった饅頭に目をつけた。
「あ、買ってる。」
うん、とうなずきながら笑顔を作る。水辺の二人は石投げをはじめたようだ。男のこの方は簡単に二段飛ばしができるのだが、女のこの方がどうしてもうまくできない。女の子が「なんであんただけできんの?」と叫んでいるが、男の子は首を傾げるばかりだ。
「私この饅頭やさんのお爺さん知ってる。」
隣に突っ立っていた女の子がさも得意げに言い放った。
「そのおじいさんね、女の人をあの島に閉じ込めたんだって。」
女の子の指差した先には湖の中央にある中島がそびえている。女の子が続けた。
「それでね、夜になると、あの島から女の人の吹く、呪いの笛が聞こえるんだって。」
「女の人が笛を吹く?」
「そう、その女の人はもう死んじゃったの。それでのろいの笛を吹いてるんだって。」
「のろいの笛か。」
「そう。私、お爺さんがその笛持ってるの見たことあるんだ。」
「あ、お爺さんは生きてるの?」
「あたりまえじゃない。あそこに住んでるの。私見たの。」
「あそこって、どの家?」
「ほら、あの家、あの一番はじの。」
「あ、へえ、ほんと?すごいなあ。」
俺が興味を示したことに満足したのか女の子は「じゃあね」といってそれから湖に向かって叫んだ。
「もう行くよ。」
すると石投げをしていた二人が犬のようにかけよってきて三人仲良くどこかに行ってしまった。三人の姿がすっかり見えなくなってしまった頃、マサキがスッと立ち上がった。ずっとそこにいたのだ。子供たちは気付かなかったようだけれども。そしてマサキも今の話を残らず聞いていた。マサキは何も言わずに歩き出したが、もちろんどこに向かうつもりなのかはわかっていた。
急いで、食べ物のくずをまとめると、俺もだまってマサキの後を追った。