夕食は宿で出してくれたがもちろん一人前。マサキは食欲がないといって食べなかった。食事が終わるとどっと疲れが押し寄せてきた。特に体を動かしたわけではなかったが、今日一日耳のよく聞こえない状態だったストレスが案外大きかったのかもしれない。
部屋に戻った途端目を開けているのも難しくなり、ほんの少し休むつもりでテーブルに突っ伏したまま何も分からなくなった。
夜もすっかり深まった頃、寒くなって目が覚めた。真っ暗な部屋の中、寝ぼけ眼で押入れから布団を引っ張り出してくるまったところで風を首筋に感じた。窓を振り仰ぐと、暗がりに薄明るく浮かぶカーテンがかすかにたなびいていた。さらさらと流れる布のすそから二本の足がにゅうっと突き出している。驚いたが、声は出さなかった。マサキのことを忘れていたわけではない。格好つけているわけではなくて本当に、マサキがいることは分かっていた。ただ、今このとき、マサキがどうしているかということに気をまわせなかっただけだ。寝ぼけていた。
目が慣れてくると、カーテンにマサキの影が映っているのが分かった。カーテンの動きに合わせて影も揺れている。影が在るなんて。幽霊みたいなやつなのに。俺にしか見えないのにちゃんと影があるんだな、と思ったら、ひょっと、おかしな考えが頭に浮かんだ。俺にしか見えないのなら、もし俺が眠ってしまってマサキがここにいることを証明できなくなったら、マサキ自体、この場所に存在しなくなるのだろうか。なんだかさびしい気分になって声をかけた。
「眠らないのか。」
カーテンの向こうからマサキが顔を出した。やけに青白い顔をしていると思ったら月光だった。
雨はすっかり止んで、今は星も見えないほど明るい月がぽっかりと夜空に浮かんでいた。
「最初、ハルキの家で目が覚めた時、あそこについたと思った。」
「うん。」
「やっぱり本当にここは月じゃないんだ。」
「今見える月と、マサキの知ってる月は全く同じ?」
マサキが無言でうなずく。
「ここはどこなんだろう。」
マサキの言う『ここ』が何を指すのかよく分からなかったのでとりあえず次の言葉を待った。ここは湖畔。ここは旅先の窓辺。ここは月の下。
いくら経ってもマサキが何も言わないのでこちらから話を切り出した。
「あのさ、月に行くのはいいけどさ、今回もしうまくいって、ここから月に出発できたとしてさ、また今みたいなわけの分からない月以外のところに着いたらどうするんだ。」
「そうしたら、また海を探して月に向かう。」
「それでもまただめだったら?」
「何度だって同じ。何度だって、あの狼の声に乗って月に向かう。」
実際、その行為が一歩も月に近づいていないかもしれないとは考えないのだろうか。だいたい、娘と一緒にいたいと思っている狼の声で月に辿り着けるなんておかしい。
「狼の笛って、どんななんだ?」
マサキは長い間考え込んでからぽつぽつと語った。
「見た目はよく知らないけど、竹でできた大きな笛だった。」
「音は?」
「音は、深くて、腹の奥のほうに響くようで、青竹の匂いが本当に感じられるようなかぐわしい音。」
それはなんだかマサキの声のことだ、と思ったがなんとなく黙っていた。
「それで、うたによくあう調べだった。」
「調べか。どん何なんだろうな。」
駅前でマサキが歌い出した時、確かになんとなく旋律は聞こえたけれども、何せ状況が状況だっただけに、全く覚えていなかった。
ぼうっと外を見ていると、マサキが息を深く吸い込んで歌い出した。
耳がおかしいせいで、うたはどこまでもぼんやりと遠くで響いた。小さい頃、よく祖母が歌っていた子守唄に似ているかもしれないと少し思った。遠い歌声を聞きながら月を見上げれば、マサキと同じような服を着た踊り手たちが山の稜線をなぞるように腕を滑らせながら水辺で踊る姿が見えてくるような気がした。