宿は元々一つしか部屋をとっていなかった。もう一つ空き部屋がないか尋ねてみようと思ったが、宿の主人にとって一人旅に見える客が部屋を二つ取るのはちょっとうさんくさかったし、第一耳がこんな状態で、殆ど普通の会話さえ自信がなかったので何も言えずじまいだった。
こぎれいな六畳間で、畳が敷いてあり、窓からは草むらが見えた。草むらはなだらかな下り坂になっていて、ずっと下のほうに小さな商店街があり、更に降りたところに例の湖が見えていた。その向こうはかなり低い山が連なっており、窓から見える景色の大分は空だった。
宿についてすぐにマサキが海を見に行きたいと言い出した。海とはもちろん、窓から見えている湖のことだ。
日の沈みきった湖面には大きなつきが映ってちらちらと揺れていた。対岸は殆ど山のような中島に視界をさえぎられて見えない。
岸辺まで来るとマサキは近くの林にかけていってまもなく両手に小枝を抱えて戻ってきた。
「火打石持ってる?」
「ライターならあるけど。」
ライターに興味を示しつつ、マサキは手早く小枝の山に火をつけた。こんなところで焚き火はまずいのでは、と言ってみたが無視されて終わった。火がうまく燃え出すと、マサキが言った。
「これから月に行くための祭りをするから。」
「はあ。」
「ハルキには狼の役をやってもらう。」
「オ、オオカミ?」
いろいろなことを連想してしまってちょっとどぎまぎしてしまったがマサキは気付かず続けた。
「そこにある岩の上に座って、そう。それで、笛を吹いて。」
「笛。」
「本当はもっと大きな笛がいいんだけど、仕方ないから普通のでいい。」
「笛って、どの笛?」
「笛は笛だよ。普通の。持ってるでしょ、笛くらい。」
「持ってないよ。」
「持ってないの?」
「持ってないよ。」
「大の男が…。」
大の男は笛を持っていなければいけないなんてチャンチャラおかしいと憤りつつ、マサキのものすごい呆れ顔に、つい恥かしいような気がしてうつむいてしまう。
「どうしよう、まさか笛がないなんて。もう、この際口笛でいいか。」
「口笛。」
「そう。狼が吠えるように吹く。やって。」
わけがわからないながらもとりあえず口笛を一息吹いてみる。
「もっと、私が月に行くことを悲しむように吹いて。」
そんなこと突然言われてもさっぱりだ。とにかく口笛を吹いているとマサキは湖のほうに向き直り、ゆっくりと湖に向かって歩いていった。そしてそのまま水の中に入っていく。
「おい、何やってんだよ。」
「途中でやめないでよ。」
そう言って振り返ったマサキはまた岩のところまで大急ぎで戻ってきた。それからしばらくじっとこちらを観察した。
「そんな座り方じゃないの。」
言うなり、もっとしっかり足を組むとか、背筋を伸ばせとか、恐ろしく細かく姿勢を直した。
「もう一度最初からやる。今度は途中でやめないで。そしてずっと私から目を離さないで。」
「はあ。」
マサキがまた湖に向かって歩き出した。傍らでは夜露でしけった小枝がぶすぶす燃えている。いったい俺は何をやっているのだ?つきへ行くなどとわけのわからないことを言う小娘が水辺でジャブジャブやっているのを見つめながら息も絶え絶え口笛を吹くなんて。こんなところでこんなことをしている自分の姿を頭の中に描いて、物凄く情けない気持ちになってきた。
水の中を歩き回っていたマサキの足が止まった。
「だめだ。」
しばらく水の中に立ち尽くしていたがやがて岸に上がってきた。
「行けない。やっぱり口笛じゃだめだ。」
二人並んで岩の上に腰掛ける。どこか遠くで鳥のなく声がぼんやりと響く。湖を囲む木々の吐き出した白い息が霧となって湖面に這い出してゆっくりと広がっていく。
マサキは長い間何も言わなかった。と言っても、元々声を発しているわけではないらしいが。マサキは心の中を直接相手に伝える、というようなことを言っていた。もしそれが本当だとしたら、彼女が何も言わない時、頭の中は正真正銘空っぽなのだろうか。それとも、沈黙そのものが心の中に存在するイメージであり、心中隙間なく積もった沈黙の、そのあまりの濃さに何も聞き取ることができないのだろうか。
「どうして月に行きたいんだ?」
「私の家は代々歌を伝えていくの仕事なんだ。」
「歌って、例の?」
「そう。昔起こった出来事を伝えていく。それから新しい歌も作る。自分たちの周りで起こったことを歌にする。そして子供たちに伝えていく。」
「それと月と何の関係があるんだ?」
「私たちの仕事は歌を伝えることと、もう一つ、その歌われている出来事を繰り返すための祭りを行うこと。」
「繰り返す?って、どうやって?」
「歌になぞらえた踊りを踊ったり、獣を狩ったりいろいろ。私は月に嫁ぐ歌の祭りを行った。」
「はあ?」
「本当は歌は歌以外の言葉で伝えてはいけない慣わしだけど、ここはあの世でもこの世でもないところみたいだから、特別に教えてあげる。
ある娘が月の主に見初められた。月の主は地上に遣いを出す。遣いは狼に姿を変えて娘に近づく。ところが狼と娘は互いに思いあうようになってしまい、狼は月へ向かう入り口を壊してしまう。それを知った月の主は起こって地上に災いを呼ぶ。胸を痛めた娘は海に見を投げ、悲しみにくれる狼はいつまでも海に向かって吠え続ける。そうしたらその狼の声が月へと続く道となって娘を月に導く。災いは去り、地上はより豊かになったという歌。私は娘役としてその歌の祭りを行った。」
「祭りって、実際どんな?」
マサキは立ち上がるとすっかり炭になってしまった焚き火のところへかけていった。
「これの、何倍もの大きな火をたいて、近くの集落の人々がみんな集まって踊りを踊る。それで、狼役の笛吹きがやぐらに座って笛を吹く。私はその笛の音を聞きながら海に入っていく。」
マサキが目を閉じて思い出すように言った。さっき悲しいと思いながら口笛を吹けと言われたことを思い出した。笛の音は娘を惜しむ狼の鳴き声なのだ。
「狼役ってどんな人だったんだ。」
「知らない。」
「え…。」
「私、小さい頃、娘役の住む特別な社に入ったから、その後は世話役の人としか会えなかった。後は別の集落に住む歌い手と心で直接語り合うだけ。小さかった頃、まだ社に入る前に他の子供たちと一緒に遊んでいた時に、狼役の男の子も一緒にいたのをおぼろげに覚えてるけど、後は全く知らない。」
なんと言うこともなく、マサキはさらさらと語る。狼の役は大して重要ではないと言うことだろうか。
「でも、笛の音はよく知ってる。」
少し間を置いて、マサキがつぶやいた。相変わらず活き活きしているとは言いがたい、単調な声音だ。ただ、目前に広がる暗がりを見つめているだけのはずの瞳が、獲物を見つめる獣の瞳さながらに、やたらと凄みを帯びてきたような気がした。
「社に入ってから、夕方になると毎日笛を練習する音が遠くから聞こえてきていた。雨の日も風の日も。嵐の時なんか、世話役たちは今日は流石に笛もお休みだ、なんていっていたけど、私には聞こえていた。本当に一日も休んだことなんかなかった。そうして少しずつ深まっていく音を毎日聞いていた。」
そんなに何年も練習して習得した笛の代わりをしかも口笛でさせようとしたとはなんとひどい話だ。
「祭り当日の笛は今まで聞いた中で一番だった。すごく響いてて、頭のてっぺんまですっかり水に浸かってしまってもよく聞こえた。その音を聞いていると水の中でもちっとも苦しくなかった。」
「へ?」
いま、この娘はおかしなことを言わなかったか?
「ちょっと待て。頭まで水に浸かったのか?」
マサキがうなずく。
「それで、その後は?」
「その後は、そのまま音を聞きながらどんどん進んでいって岩の門みたいなものがあってその中に入った。」
「それで?」
「それで終わり。次に目覚めるのは月のはずだったのに、なぜかハルキのところにいた。」
マサキの語り口があまりにさらっとしているのでピンとこないが、それではつまり、マサキがその祭りとやらで入水自殺をしたということではないか。
月に行くとは死ぬということなのか。というか、いわゆる生贄とか人身御供のようなものなのでは。なんと言う恐ろしげな祭りだ。マサキの様子から、素朴で平和な村を想像していただけに不気味さもひとしおだ。
一度死んだということは、今目の前にいるマサキは世に言う幽霊というものなのか?だからみんなに見えないのか?俺だって今まで一度もそんなもの見たことないが。一気に体中に鳥肌が立っていく。思わず腕をさする。
さっき俺に口笛を吹かせているときそれと同じ事をしようとしていたのか。
「でも、これからどうしよう。やっぱり狼の笛がなあ。」
「考え直すって言うのは?」
「何を?」
「その、月に行くっていうのをやめるって言うのは?」
「何のために?」
「だって怖くないか?まだ若いんだし別の道だっていくらでもあるだろう。」
「私は月へ行く。それ以外にない。」
語調を強めるでもなくまるで朝ごはんは納豆に限るといっているくらいのあっさりした口調で言い切るマサキ。
ふと、見たことさえ忘れかけていた朝の夢が急激に蘇ってきた。水下に足を進める、あれは、マサキではなかったか。熱い二本の足、淡々とした足取り。そこには何の決意も覚悟もなく、けれどもゆるぎない意思が無意識の奥のどこかにどっかりと腰をおろしていた。
マサキの歩みはそれ程にゆるぎなく静かで、そして体温より少し冷たいようなのかもしれない。マサキだけが知っている、水の底に続く一本道を急ぐこともなく歩いていくように。
ゆらゆら揺れる景色の中で俺とマサキは座り続けている。たまに夜風がマサキの髪の間を通り抜けていく。
と、急に月が翳り、雨粒がしとしとと振り出した。それで、本降りになる前にと、急いで宿に引き返したのだった。