高いビルが減り始め、電柱の群れが家々の上に浮き出している。
電車から見る電信柱には本当に飽きない。突き出た柱は遠くへ行く程間隔が狭く、ゆっくりと流れる。そしてその柱に張り巡らされた無数の電線はどこまでも広がり、繋がっている。その線ばかりでできた世界は雲の上に似ていると思う。初めて飛行機に乗ったとき、雲の上に広がる世界を見て涙が出るほど興奮した。電信柱と電線の風景はあの雲の上の別世界に似ていると思う。電車の揺れるリズムに乗って柱が後ろへ流れていく。一定のスピードで。そして電線は、たるんだ電線はつるつると滑っていく。少しずつ上下に揺れながら、屋根の上、空の下の不思議な空間を滑らかにすべっていく。
その様子を見ていると、つい時間のたつのも忘れてしまう。何も考えず、ただひたすら眺め続ける。まさに無我の境地だ。包装用ビニールのプチプチをつぶしている時と電車の窓から電信柱を見ているときこそ無我の境地を味わえると言うものだ。
そして夕焼けか何かでふと我に帰ると逆行で黒くしか見えない家と電信柱のシルエットがみたこともないような風景を作り出している。
四角い塊から無数の棒が突き出し、それをつなぐ線がゆっくりと上下している。とても自分たちが住んでいる場所だとは思えない。自転車旅行でも電車旅行でもみな同じ、こうやって日常の中に異様を見つけたときに自分の中で旅というものが成立する。
電車の中で、マサキはあまりしゃべらなかった。ただ窓の外をじっと見つめていて、たまに、「こんなに広いところ初めて見た」とか、「人が多すぎて数えられない」とかいった感想を独り言のようにつぶやくのだった。その度になんと言葉を返してよいか分からず、いろいろ考えた末に結局、「そうだな。」とかいった類の相づちを打つことしかできないのだった。
「あれは何?」
マサキは丘の向こうに現れた銀色のすじを見つめていた。
「え、海のこと?」
一筋の帯は瞬く間に窓辺に迫り、打ち寄せる波の一つ一つが見分けられるほどに近くなった。電車はしばらくこの海岸沿いを進んでいくらしい。
「海?」
じっと窓の外を見つめたまま、マサキが訝しげにつぶやいた。
「向こう岸が見えない。」
「海見るの初めてか。」
マサキは小さく首を横に振った。
「私、海辺に住んでた。でもこんな騒がしい海は見たことない。」
「騒がしい?」
改めて窓辺に広がる浜辺を観察してみる。人気のない小さな砂浜に穏やかな波が打ち寄せている。水平線まで船一艘なく、カモメの飛ぶ姿意外はこれといって目に付くものもない。空は青く晴れ、まだ夏雲というには薄すぎる雲がそこここを漂っている。
マサキはじれったそうに指で窓ガラスをつついた。
「だって、ほら、海っていったら、普通もっとこう…見てるだけで心が休まるのに、ここは、あんなに波が大きいしずっと遠くまでずっと青くて、空と繋がってて、なんだか…、落ち着かないって言うより…」
そこで言葉が途切れたかと思うと、マサキはちょっと腰を浮かせ、何か大声で叫びだしたようだった。一瞬まわりを見てしまったが、こちらに注意を向ける者は一人もいない。
押し上げ式の窓だったので、開けてやった。子どもの頃は俺だって海を見れば叫びたくなった。まして、初めて見たのならなおさらだ。それにしても、好きなときに好きなだけなりふりかまわず叫んだり歌ったりできると言うのは羨ましい。
どういうしくみになっているのか分からないが、彼女の叫び声は他の音と同じように、こもってよく聞こえない。歌を歌った時もそうだった。けれども普通に会話している時の声ははっきり聞こえるのだ。ただし、その場合、マサキの唇は動いていない。彼女の声だけはっきり聞こえるのが第一におかしい。もしかしたら、自分の中で作り出した別人格とは考えられないだろうか。それ程ストレスがたまっている自覚はないが、そういう人に限ってと言う話も聞いたことがある。マサキが実は幻だとは到底思えないが、だからこそ多重人格というのだし。
マサキは、もう叫ぶのを止め、窓の桟の上に組んだ腕の上に頭をのせて海に目を細めている。たまに頭をかいたり、髪の毛をいじったりしている。もしこれが妄想なのだとしたら、どうせならこんな狼少女みたいなのではなく、もっと大人っぽい女を想像すると思うのだが。
視線に気付いたのか、マサキがこちらを向いた。顔にまとわりついた髪の毛を払いのけながら紅潮した頬で笑って見せた。まあ、いいか。なんでも。
「すごいな、ここの海。」
「いや、別にどこにでもある普通の海だと思うが。」
すっかり浜辺が見えなくなって、座りなおしてからマサキが言った。
「そうなんだ。私の住んでいたところにはこうゆう海しかなかった。」
そう言ってマサキが取り出したのは例の湖の写真の載った宿の紙切れだった。
「海って、これ?」
軽くうなずいて、紙を懐にしまいこむ。
「なんだか納得した。」
「はあ。」
「さっき、歌を歌ったでしょう。あれ、昔起こったことを伝える歌なんだ。その中で海のことをただ海とは言わないんだ。」
マサキは耳元に顔を近づけ、ゆっくりはっきりと発音した。
「シ・ズ・カ・ノ・ウ・ミ。」
声は、ぼんやりと低く響いた。こんなににじんでいるのにししおどしの、青竹のイメージは相変わらずだな、と思った。
「静かの海。」
「そう。どうしてそんな言い方するのか、節回しを整える枕詞みたいなものなんだけど、昔の人はきっあんな騒がしい海も知っていたのかも。」
自分の方がよっぽど昔の人みたいな格好をしていると言うのに、マサキの物言いにはどうも今いるこの世界を自分のふるさとよりも過去の世界、と、とられているようなところがある。
古代社会から飛び出して来たような少女が現代のことをいちいちノスタルジックに語るのはどうも違和感がぬぐいきれない。けれども、逆に考えれば、マサキにしてみれば俺のほうこそまさに古代人と言うように映っているのかもしれない。そんなマサキに「お前は古代人のようだ」なんて言ったら、笑われてしまうだろう。
自分が抱いている古代のイメージだって、実際随分いいかげんなものだ。勝手に創り上げてしまったイメージの中の古代が現在に確実に繋がっていると思い込んでいる。けれども、想像の中の古代世界は決して現在自分が住んでいるこの場所には辿り着かない。そもそも、時間というものは歴史の年表のような一つの帯のように流れているのだろうか。
なんだかおかしな方向に考えが進んでしまった。どうしてこんなところにはまってしまってしまったのだろう。旅をする時、乗り物に揺られていると時どきこんな風になってしまう。それとも今回の原因は窓に映る景色の感じや揺られるリズムのせいではなく、耳がおかしいせいなのだろうか。