電車を降りた後、おかしな少女がついてくる様子はなかったので、安心して家に帰った。それは、少しは気になってはいた。せめて、交番にでも連れて行ってやるべきだったのかもしれない。けれども、今は、自分だって他人とうまくコミュニケーションを取れない状態なのだ。きっと、別の親切なおばさんか誰かが彼女を助けてくれるだろう。あの、むかえの席に座っていたおばさんたちがあるいは彼女に気付いて何とかしてくれるかもしれない。
そんなことを都合よく考えているうちにすぐに忘れた。それに、家に帰ると郵便が届いていて、その中に、もう付き合っているとはいえない彼女の名前があったので、それどころではなくなってしまったのだった。
女の子から手紙が届いたのなんて、小学校の時の年賀状をのぞけば、生まれて初めてかもしれなかった。もちろん男からもないけど。そもそも、あのポストにダイレクトメールやチラシと請求書や領収書の類のもの以外の物体が入っているところを初めて見た。それが存外に楽しく感じられたので、自分も誰かに手紙を出そうかと思ったくらいだ。いっそのこと、文通でもしたら面白いかもしれない。絶対に実行しないであろうそれらの計画に思いをめぐらせながら手紙の封を切った。そこには大きな字でこう書いてあった。
「引っ越します。」
それからその下に、新しい住所が書いてあった。それだけだった。ただ、その住所と言うのが、どうも、香港らしいのだった。果たして、これっぽっちの内容をメールではだめだったのか?それに、引っ越しますってなんだ、ますって。まだ引っ越していないのか、それとも手紙を出した時点では引っ越していなかったけれども今はもう引っ越したと言うことか。そしてなぜいきなり香港?何かの冗談か?
とりあえずケータイに電話してみたら解約済みになっていた。しかも、耳がおかしいせいで、たぶん電話はつかえないと言うことに気付いた。電話を置いて、もう一度手紙を見つめる。こんなもの送ってよこしていったい俺にどうしろと?元々口数の多いやつではなかったし、だからこそ、疎遠にもなったのだろうが、この手紙は極端すぎる。
意味のわからない住所をじっくり眺めていると最後の一行が少し話されて書かれていると言うことに気付いた。しかも数字だけだ。もしかして電話番号かも、という考えが浮かぶ。確かめてみるか。けれども耳が聞こえない。手紙と電話を握り締めてボーっとしているところにマサキが現れた。
あまりにも自然に入ってきたので止める間もなかった。靴を脱いで、と言おうとしたが彼女は裸足だった。
「この部屋は好き。本物の昔の家。」
「昔?」
「昔々の人々はあらゆるものを家の中に溜め込んでいたって聞いた。」
「溜め込んでって…そうだけど…。」
「あらゆるものが人の命よりも長く一つの形を保っていたとか。」
「はあ。」
マサキは冷蔵庫に手を置いて壁にもたれかかった。
「溜め込まれたものは育つことも朽ちることもなく、形をとどめていたのだって。言葉さえ溜めておかれたらしい。」
マサキがおかしそうに笑った。何がおかしいのかさっぱりわからない。
「私は本当に古い家を見たことはないけど、私の住んでいた社は昔を真似て作られたもので、すごく風変わりだった。ここは社に似てる。それよりももっと古い。」
「そうか。」
突然理解不能なことをまくし立てられて、出て行けというタイミングを逃してしまったわけだった。けれどもこのまま放っておくわけにも行かない。できれば放っておきたいが、さすがにそうも行かない。
中学の時、似たような状態に陥ったことがあった。ちょっと変わったクラスメイトがいた。少し得体の知れない雰囲気があると言うか、人との接し方が独特な少年で、友達何人かと海水浴に行って、二人浜辺で少し休んでいる時に、
「もし俺とお前と無人島に二人で残されたら、どうする?」
と言う不気味な質問をするようなやつだった。
ある日、家に帰ると、そいつが自分の部屋に座っていた。そのときも、あんまり驚いてしまってわけがわからなくて、ただ相手のなすがままにしておくことしか出来なかった。彼は楽しげにしゃべりまくり、テレビゲームで遊び、マンガを借りて帰っていった。今思えば大した出来事ではないのだが、誰もいないはずの自分の部屋に人がいたのはかなりの衝撃だった。
その上、あの時は友達だったし、男だったし、家族がいたし、放っておけば帰ってくれることが分かっていた。けれども今回は、初対面だし、女だし、二人きりだし、放って置いたらどうなるのかさっぱりわからない。もしかしてラッキーな状況なのか?いやいや、それは犯罪だ。やっぱり何とかしなくてはならない。
「帰った方がいいんじゃない。のか?」
マサキはゆっくりとこちらを向き、まじまじと俺の顔を見つめ、スッと視線をそらしたかと思うと黙ってその場に座り込んだ。そして座卓の上でほこりをかぶっているビールの缶やら何やらをいじりまわし始めたのだった。
膝の力が抜けて自分もその場に座り込む。膝を抱えて体育すわりになりながら、ここは何か一つびしっと言わなければと、必死に考えているようで、実は殆ど頭が動かない状態で、ただ膝の上に置かれた自分の指とその手に握られた彼女からの手紙を見つめるばかりなのだった。
もう何でもいいから誰かに状況を変えて欲しい。例えば、今この瞬間に窓ガラスが割れて野球ボールが部屋に飛び込んでくる。俺はそのボールを拾い上げ、窓の外に突っ立っている悪がきに向かってコラーッと叫ぶ、というような、ドラえもんに出てくるパターンでも何でもいい。とにかく何か起こってくれ。
マサキは手当たりしだい目に付くものを手に取っている様子だったが、座卓の下にあった紙切れを引っ張り出してきた。
「これは何?」
それは今回旅行をするにあたってネットで調べておいた現地の資料で、今日泊まるはずだった民宿のホームページをコピーしたものだった。安らぎがどうのと言う宣伝文句の下には、売りにしている大きな湖の写真が掲載されていて、更にその下には住所などの細かい情報が書き込まれている。忘れかけていたが、今日は本当は旅行に行くはずだったのだ。この宿もキャンセルしなければならない。
「今日行くはずだったんだけど。」
「行くってどこに?」
「だから、その湖のさ、ところに。」
「じゃあ行こう。」
マサキが手も使わずに難なく立ち上がったことになんとなく感心しつつ自分もつられて立ち上がってしまってから慌てて言った。
「ちょっと待てよ。」
既にドアに手をかけていたマサキがどうしたのかと言う風に振りかえる。
「いや、だってさ。」
そう言ったものの、次の言葉が見つからない。第一、このまま部屋で座って自分のつばを飲む音に耳をすましているよりは、理由はどうあれ、とにかく外に出る方がずっとよいはずだ。別に、本当に湖まで行かないにしても、今はとりあえず外に出た方が言い。耳は聞こえないし、本当はこんなことしている場合ではないのだが。
「いや、うん、そうだな。ま、とりあえず、あれだ。外出て。ああ。」
などとつぶやき、手に握られたままになっていた彼女からの手紙をポケットに押し込んで、マサキの後について外に出たのだった。
確信的歩みを進める少女の後をなすすべもなくついて行く。頭の中では、今こっそり引き返しても、また家の中まで入ってくるのだろうかということばかり考えている。それともここは警察か何かに任せるのが無難なのか。
そうして一つ目の曲がり角まで来た時とうとうマサキが振り返った。
「どの道?」
「あっと、あー、ちょっとその紙見せて。」
マサキから例の紙を受け取り、一応住所を確認する振りをする。どうしよう。
「ええと、まず駅に行かなきゃいけないから…」
「駅って?」
「普通の。電車の駅。ここで左に曲がってもいいし、もう少しまっすぐ行ってもいいし。」
「どっち?」
「いや、だから、どっち通ってもいいんだけど。」
「そんなのおかしい。一つのところに通じる道は一つだけのはず。」
「いや、ここ、向こうの通りと平行だから、今曲がっても後で曲がっても同じだってこと。」
「今曲がったのと後で曲がったのでは同じところに辿り着けるとは限らないでしょう。」
マサキがまたよく分からないことを言い出した。何を言いたいのかさっぱり分からない。
「じゃあ、とりあえず真っ直ぐで。」
そう言って歩き出すと、マサキも、ものすごく不信そうな目つきでにらみつけながらも大人しく着いてくる。どうしてこんな目で見られなければいけない羽目に陥っているのだろうか。全く意味が分からない。道は一つ、ということは交差点のないところで育ったとでも言うのだろうか。いや、もしそうならさっきの曲がり角で平然とどっち、だなんて質問しないはずだ。こんなことまじめに考えても仕方がないのだ。どうせ初めから支離滅裂なことばかりなのだから。とかなんとか考えているうちにもう駅前通りまで来てしまった。
「ねえ、それ、文字?」
ほら、またおかしなことを言い出すらしい。見ると、俺の手に握られたままになっていた宿の案内を目で指している。面倒なので適当にああ、と返事をするとマサキは誇らしげに鼻を鳴らした。
「やっぱり。古い岩の裏に、似たようなものが刻まれているのを見つけたことがあるんだ。」
今度は非文字文化の話だろうか。
「文字、知らないのか?」
「私たちは使わない。不便だから。伝えられることは限られるし、あまり正確じゃないから。」
「そうか?」
「それは、口で伝えるよりずっと不便だから。」
「でも、書かないと忘れるだろう。いろいろと。」
「本当に必要なことは忘れない。それに、特別な覚え方がある。」
言うなり、マサキは口をパクパク動かし始めた。今まではっきり聞こえていた声がすっかりぼやけて何を言っているのか分からない。ただ、何かの旋律なのは伝わってくる。はじめは彼女が何をはじめたのかぴんとこなかったが、ふいに彼女が大声で歌っているらしいと思い当たった。駅前の通りは日中とはいえそれなりの人通りがある。その人ごみの中をおかしな衣装を身につけた少女が大声で歌いながら歩いているのだ。
「止めろよ。」
慌ててマサキの腕を引っ張りながら周りを見回した。すれ違ったおばさんが怪訝そうにこちらを見ている。目が合うと慌てて目を伏せた。
「そんな大声出すなよ。」
「でも、これは喉を使わないとだめなんだ。」
「知るかよ。そうじゃなくて、こんな人がいるところで、そんなでかい声で歌ったら迷惑だろう。」
マサキはしばらく黙ってこちらを見つめてから言った。
「どうせ誰も気付かない。」
そして、またなにやら不思議なメロディーを歌いだしたようだった。本当にいいかげんにして欲しい。さりげなく、彼女から離れつつ知らない人のふりをする。
俺が無駄な抵抗を繰り広げていると、向こうから若い女の人が近づいてきた。彼女は俺とマサキの間を通り抜けていった。しかも、マサキがよけなかったらたぶん方と肩がぶつかっていたに違いないほどすれすれのところを。マサキの横を通り過ぎる時、風が起こって彼女の髪が乱れた。彼女は一度髪の毛を押さえつけて、そのまま何事もなかったかのように颯爽と歩いていってしまった。おかしな服を着て歌なんか歌っている少女にぶつかりそうになったというのに、そちらには目も向けようともしなかった。思わず足を止めてマサキを眺めた。マサキはかまわずに歩いていく。大声で歌いながら、たまにぶつかってきそうになる人を器用うによけて進んでいく。
マサキは完全に無視されていた。いや、そんなはずない。さっきすれ違ったおばさんがすごい目つきで俺たちを見ていたではないか。急いでマサキに追いつこうとしながら考える。さっきのおばさんは確かに俺と目があったけれども、マサキを見ようとはしなかったのではないか。しかめ面をしたのはマサキの歌に対してではなく俺に対してだったのか。
「じゃあ、俺今、ずっと一人でしゃべってるように見えてるわけ?」
マサキは歌うのをやめて前を向いたままゆっくりと言った。
「そうだろうね。」
「そうだろうねって…。」
ついあたりをきょろきょろ見回す。顔が熱くなってくるのがわかる。さっきのおばさんの攻めるような目つきがまぶたの裏でちらつく。そんな、まさか。マサキは呼吸一つ乱さずに歩いていく。沈黙が続いた。けれども、マサキがもし本当に他人には見えていないのだとしたら、今マサキに話し掛ければ、俺は怪しい独り言男だ。どうすればいいのか。全くわけがわからない。マサキのほうは見ずに、小さな声で話し掛けてみる。
「じゃあさ、例えばマサキが誰かにぶつかったりしたらどうなるわけ?」
「さあ。」
振り返りもせずにマサキが答えた。
「とにかく、みんなにとって私はいないのと同じなんだ。」
はっとして彼女の横顔をのぞき見た。頬が白く光っている。無表情な瞳からは何も読み取れない。さっき離れて見た、まるで森の中の木でもよけながら歩くような彼女のうしろ姿がよみがえる。人の間をすり抜けるたびに黒い髪がなびいていた。何か言おうとしたけれども頭に血が上ってしまってつじつまの合わない言葉が喉の奥で渦を巻くばかりだ。
なすすべもなく、とうとう駅についてしまった。相変わらず黙ったまま、マサキが改札に突進していくので慌てて腕をつかんだ。
「何やってんだよ」
「何が?」
「切符買わなきゃだめだろ。」
「さっきはそんなものなくても平気だった。」
それはそうだろう。どうせ誰もマサキが改札を通ったことに気付かないのだ。
「電車に乗る人は切符がなきゃだめなんだよ。」
「なくても誰にも見えない。」
「俺には見えてるんだよ。」
そう言って無理やり切符売り場に連れて行く。マサキはそれ以上抵抗しなかった。おそらく切符が何かもよく分かっていないのだろう。考えてみれば、一見、どこへでも勝手に突き進んでいっているように見えるが、さっきから、俺から離れると言うことがない。本当に俺についてくるしかすべがないかのようだ。
切符の料金表と時刻表を見比べる。それからもう一度マサキを見るマサキは黙ってじっと俺のすることを見ている。
湖畔の宿にまだキャンセルの電話はしていない。今からなら、夕暮れ前に間に合う電車がある。もう一度、案内パンフレットの湖の写真に目を落とす。鮮やかな湖の青。ふと、小学生の時にキャンプに行き、朝もや広がる湖の岸ではじめてカッコウの鳴き声を耳にしたことを思い出した。
「ちょっとここで待ってて。」
そう言うと、俺は近くのATMへ、電車代二人分の金を下ろしに向かった。