灰色の海。とろりとした水。その水を掻く音。小さく白い背中。全ていつもと同じ、何一つ変わらず、ただひたすら泳いでいる。疲れすぎているのか、体の感覚が分からなく、自分の存在を確認できる方法は唯一理不尽な白い背中だけだ。それももう見えているのかどうか分からなくなる。
と、突然新しい感覚が訪れた。熱い塊のような何かが触れた。しかしどこに触れられたのか分からない。よく分からないうちにその塊はどんどんはっきりとしてきた。
それは足だった。小さく華奢な二本の足。意思をはっきり持った足が強く歩みを進める。水の重さにふらつくこともない。水、そう、日本の足が触れた場所は背中でも腕でもなく、水だった。水に触れた足を、自分に触れたと感じた。どういうわけか、海全体を五感で感じることができるようになっているようだった。浅瀬、なでるつむじ風、水面に浮かぶ鳥の声、踊るように泳ぐ魚の群れ、みな自分の中で感じることができる。白い背中はもう見えず、自分と水との境目は完璧になくなってしまったらしい。
二本の足は着実に歩みを進めている。強い意思を持ちながら、ほんの少しも戸惑うことなく。自分の中に入ってくる小さな足の邪魔にならないように、波がその足をすくい取らないように、出来る限り気をつけてみる。始めは足だけだったが、今は体のほとんどが水面下にある小さな体は熱を放ちながらより深みを目指す。
薄暗い水の底を歩いているのは少女だった。長い髪と天女のような衣をなびかせて、岩場の傾斜を降りていく。彼女の向かう先は少し明るくなっていて、よく見るとアーチ型の岩の向こうに何か乗り物のようなものが横たわっている。それはさながら小さめのドームと言った風情で、鉱物でできているようなのに内側が透けて見えた。中には大きな椅子が一つぽつんとおいてあり、明るいのはその椅子内側が蛍のように発光しているからなのだった。
娘はどんどん傾斜を降りていく。やわらかく弱い光に包まれて、彼女の体も透けているように見える。とうとう娘は岩のアーチに辿り着き、そして見えなくなった。
やけに静かだ。カーテンをすかして日の光が白くこぼれ出している。ビールの空き缶やらカップめん、ほこりをくっつけて光るCDケース、その他雑誌やダイレクトメール、何かについてきたおまけのステッカー、さびた電池やしみのついた割り箸、それら全てをのせた座卓。コンロの上に載った薬缶の信じがたいほどにピンク色のとって。徐々に自分がいつものように自分の部屋の布団に包まっていることを認めていく。けれども何かがおかしい。静か過ぎる。それなのに耳のあたりがやけに鬱陶しい。
得体の知れない違和感を抱きつつ、いつものようにそこらに転がっているリモコンを探り当て、ラジオのスイッチを入れた。
思わずスピーカー見つめる。音が聞こえてこない。いや、聞こえることには聞こえるのだが、ものすごく音が遠いのだ。音を大きくしてみたがあまり意味はなかった。なにやらこもった音がもそもそと聞こえるだけ。おかしいと思ってスピーカーに近寄ろうとしたら、いざったために敷物がずれて、座卓の上にあった茶碗とプラスチックの箸が床に落ちた。すると瀬戸物をたたく音が遠くでかすかに、間延びして響いた。思わず耳に手をあてがいながら、
「なんだこれ。」
つぶやいて自分で驚いた。自分の声が大音量で響いたのだ。もう一度声を出しても同じだった。驚くほどのボリュームで聞こえる。少しこもった感じでぼわーんと頭に響く。そこでやっと気付いた。水だ。水のせいだ。両耳の中に水が入ってしまっているらしい。頭を振ってみたが、いっこうに水が耳から出て行く様子はない。普通に考えたら昨日眠る時になんでもなかったのに今朝急にこんな風になっているなんておかしいと疑問を持ちそうなものだが、まだちょっと寝ぼけていたせいもあり、これぞまさに寝耳に水だなどとわけのわからないことを思い浮かべただけだった。
音がうまく聞こえないのは幾分他の感覚までも狂わせてしまうようだった。世界そのものが自分から遠のいてしまっているような。何かを手にとろうとしても、つい手を伸ばしすぎてしまう。湿度も心なしかいつもより高いような気がしてくる。かすかに響く音は、ぼんやりしていてまわりの動きもゆったりして見える。まるで水の底にでもいるようだ。耳のあたりの鬱陶しい感じにさえ慣れてしまえばけっこう落ち着けて悪くない。
冷蔵庫の向こうあたりから今にも黄色い魚が泳いできそうだ。するとそこらに転がっている物は石や海藻みたいに思えてくるではないか。そんなことを考えているととても安らいだ気分になってきた。
けれども、いつまでもそんなことばかり言っているわけにもいかない。耳は昼を過ぎても一向に治る気配を見せなかった。耳があまり聞こえないのはかなり不便だ。しかも全く聞こえないわけではないのでついぼやけた音に頼ってしまい、感覚を狂わせられてしまう。今日は朝から自転車旅行に出発しようと思っていたのに、これでは恐ろしくて遠出なんてできない。さすがにまずいと思い、病院にいくことにした。病院でぱっと治してもらって、三時過ぎくらいに出発すれば日付が変わる前には目的地に辿り着けるはずだ。
すぐに出かけることにした。
耳がおかしいことにすっかりなれたつもりでいたが、外に出てその考えが甘かったと思い知らされた。群れをなして流れていく人ごみの音は遠く、何もかもがゆっくりとして見える。
これだけの交通量の中で音はかすかに静かに響くだけ。まるで町全体が海の底に沈んでしまったかのようだ。なかなか悪くないとは思うが、実際、沈んでしまった気分になっているのは自分だけなのであって、まわりの人々はいつもと変わらず振舞っているし、感じているはずだ。そうしてそのギャップは、本当にごく近くに来た時、急に激しく姿を現す。感覚的なギャップのせいで何かがゆがんでしまう。丸い金魚鉢の中を泳ぐ魚がその形を急にゆがませて見せるように。
全てが遠くにあると言うことは自分がものすごく濃くて近くに感じると言うことらしい。そのうちだんだん今本当に生きているのは自分だけのような気さえしてくる。太陽はこんなに照っていて、地上はこんなに人で溢れているのに、それらがとても遠く、薄く、触れれば消えてしまいそうに見える。
そんな話を前に誰かとしたことがある。たぶん中学生の時のクラスメイトと、学校の帰りにでも話したのだったと思う。
もし見えているものが自分にしか見えていないとしたら。耳も肌も、それぞれ違う情報を脳に伝えていたとしたら。
「俺は今、お前とここでこうやって話しているつもりでいるけど、お前は飼ってる魚にえさでもやってるつもりなのかもしれないだろ。そういう可能性はあるし、誰にも絶対に確かめられない。」
不毛で無意味な会話だった。そうわかっていながら、えもいわれぬ冷気を首筋に感じたのを今でも覚えている。
今の状態はあの時想像していた感じにかなり近いと思う。けれどもあの時のような寒気を感じることはまるでなく、逆に生ぬるい感じで気持ちがいい。もう夏だし、という問題でもないだろうが。
あの時寒さを感じたのは二人で話していたからなのかもしれない。
仕事場の近くのビルに耳鼻科のある病院が入っていたことを覚えていたのでそこに行った。電車に乗らなければならなかったが、家の近くに病院があるかどうか調べるよりそっちの方が手っ取り早いだろうと判断した。歩いていける場所よりも遠くはなれた仕事場のまわりの方がずっと身近に感じるのだから不思議なものだ。
病院では散々待たされ、散々検査された挙句、結局何もどうにもならなかった。ちょっと耳に入った水を抜いてもらおうと思っていただけなのに、「原因不明」とまで断言されてしまった。別に近代医学を盲信しているつもりはないが、白衣をびしっと着込んだ人間にそんなことを真剣な顔で告げられると、やはり不安になってしまう。
このままでは旅行どころか仕事にまで差しさわりが出てきてしまうかもしれない。いや、かも知れないなどとのんきなことは言っていられないのではないか。もしこのまま原因不明で耳がちゃんと聞こえないままだったら、今の仕事を続けること自体難しくなってくるのではないか。
帰りの電車で二人掛けの席に腰を下ろし、窓の外を眺めながらあれこれ思いをめぐらせているうちに、ついうとうとしてしまった。
夢を見た。
狼がこちらを見つめていた。息がかかりそうなほどに顔を寄せ、まんじりともせずにいる。自分はと言うと、相変わらず電車の赤茶けた席に腰掛けていて、けれどもそこに電車はなく、他のたくさんの席や窓の外をながらテイク景色の変わりに、木洩れ日降り注ぐ緑のもいが広がっているのだった。
狼は一枚岩の上からおかしな椅子に座り頭をたれた人間をじっと見下ろしている。
どれくらいそうしていたか分からないが、突然がたりと椅子が揺れ、緑も狼もあっという間に消えていった。そのとき、目の端に何か赤っぽいものが移っているの気付いた。最初からそこにいたのか、狼の後ろに。
景色はすっかり電車の中に戻ってきた。静かに揺れている。しかし赤いものは消える様子がない。まだ夢を見ているのだろうか。きっとそうだ。自分はうつむいている。足元しか見えないはずなのに離れた場所にある赤いものが見えるはずがない。
赤いものは何か、布のようだった。布をたっぷり使ったワンピースのような服だ。ワンピースからは小さな膝がのぞいている。人だ。女か、子供か。なぜ突っ立っているのか。顔がどうしても見えない。俺が頭をうつむかせているからだ。ところが顔を上げたくてもどうしてもあがらない。動くことができない。
そのとき、またがたりと椅子が揺れ、ふと顔をあげることができた。
誰もいなかった。狭い通路と扇風機の生ぬるい風だけだ。やっと目が覚めたらしい。一つ、大きな溜息をついて再度頭をたれ、目をつぶろうとした。するとまた見えるのだ。顔を下に向けたまま目をしばたかせる。確かに今起きている。しっかり目が覚めている。
顔をあげる。やはり誰もいない。うつむく、途端に視界に入るはずのない場所に赤いものが見える。今ではもう本当にはっきりと見える。赤い、どこかの民族衣装を着た若い女だ。いや、まだ子供か。顔をあげると見えない。うつむくと見える。夢か。いや、夢ではない。そんなこと自分で分かる。頭が混乱し始めた時、声が聞こえた。
「見つけてくれた。」
はっきりとした声だった。久し振りに耳がしっかり働いていた。あまりにも長い時間ぼやけた音しか聞いていなかったので、なんだか耳がひんやりした。はっきり聞こえることがこんなにすっきりとして気持ちもよかったとは。突然治るなんて、病院まで行ったのに。
「耳が治ったわけではないと思う。」
顔をあげてみた。今度は消えなかった。赤い着物を着た少女。首から上まではっきりと見える。長い黒髪、黒い眉と瞳がまっすぐこちらに向けられている。ついぼんやりと見とれてしまう。
その一方で頭の別のところでは、めまぐるしく思考が回っていた。彼女は今誰に向かって話し掛けているのだろう。どうもこちらを向いているが、見つけてくれたとは何のことだ。けれども耳のことを言ったのだからやっぱりほかの誰でもなく自分に話し掛けているのではないか。そもそも彼女は誰なんだ。知った顔ではないと思うが、あるいは、親戚の家に行った時、いとこがたくさん集まった中にでもいただろうか。こんな年頃のことは知り合いのはずもないが。随分おかしなものを着ている。お祭りか学園祭か宣伝の衣装か。そうだとしてもここは電車の中なのだからやっぱりおかしい。こんな格好で恥かしくないのだろうか。耳が治ったわけではないとは、やはり自分のことだろうか。けれどもさっきはっきりと声が聞こえた。しかも二度も。癖のある声だった。少し低めで、空気を含んだ声。水分の多い青竹のような。そうだ、ししおどしによく合うだろう。ししおどしとあわせて聞けばきっと一番いい。いやいや、声は問題ではない。はっきりと聞こえたと言うことが重要なのだ。しかし、確かにはっきり聞こえたのは彼女の声だけなのであって、他の音は相変わらずよく聞こえていないのでは。電車の音も、斜めむかえに座っているおばさん二人組みの話し声も、遠くぼんやりと響いているようだ。ではなぜ彼女の声はあんなにも鮮やかに思い起こせるのか。
「直接話し掛けたから。」
そう言ったはずの彼女の口はぴくりとも動かなかった。映画のアフレコがずれているみたいに。けれども発せられた声はどう考えても彼女から聞こえたとしか思えない。妙な衣服を着た妙な少女が口を動かさずに話している。腹話術か何かを応用した新手の芸人だろうか。それとも自分がまだ夢から覚めていないだけなのだろうか。そういえば、前にも夢に出てきた気がする。
「喉を使わずに直接話しかけたんだ。」
少女は話し続けている。喉を使わないと言うことは腹話術ではないなあ。テレパシーみたいなものだろうか。すごいもんだなあ。あれ、何に感心しているのだ?なんだか今ものすごくばかげたことを考えていなかったか?疑問が多すぎて面倒になってきた。頭を動かすのが面倒になってきた。頭がぼんやりしてくる。なんだか夢を見ているみたいだ。ああ、そうか、夢を見ているのか。夢を見ているときに夢を見ているみたいだなんて本当に思ったりすることもあるものなのだなあ。
「あなた、耳がおかしいみたいだからこの話し方のほうがいいと思った。」
あんた誰だよ、とりあえず座れば、と声には出さずに言ってみた。テレパシーなんて初めてだと思うと少しどきどきしてきた。何をやっているんだろう、自分。まあいい。自分には多分あまり関係のないことだ。返事を待っていると少女はかすかに顔をしかめた。
「声を出してくれないと、何を言っているのか分からない。」
あれ、テレパシーではないのか。
「あの、悪いけど、さっぱり分からない。」
俺としては状況事態理解できていないというつもりで言ったのだが、彼女はテレパシーもどきの自分の能力について説明し始めた。
「普通、人は一度に一つのことしか考えていないわけではない。頭の中で、いろいろな気分や気持ち、考えが交じり合ってぐちゃぐちゃ。私は心の中をのぞくことはできるけれど、人の心の中はぐちゃぐちゃしていてよく分からない。声に出してちゃんと言葉の形が与えられないと気持ちの塊がぼんやりと見えるだけ。伝えたいことも伝えたくないことも感じたことも昔の記憶も形を持たずに混ざっているだけ。声を出さなくても自分の伝えたいことだけを形にして相手に伝えられるのは歌い手だけ。」
少女は隣の席に腰掛けて淡々と話した。要するに自分は相手の心に直接語りかけられるが、相手の考えていることはわからない、というようなことらしい。彼女の話を聞いているうちに、ぼうっとしていた頭がまたはっきりしてきた。俺は今夢を見ているわけでもなんでもなかった。そして今隣に座っているおかしな服の少女は多分、ちょっと思い込みが激しすぎるか、それよりもっと危ない方面の人なのだった。
ただ、どうして彼女の声だけはっきり聞こえるのかと言うことはよく分からなかった。もしかしたら、この耳がよく聞こえないと言う状態は物理的な原因より、精神的な原因によると言うことなのかもしれない。ストレスで、自分の聞きたい音意外本当に聞こえなくなると言う症状があるいはあるのかもしれない。
真剣に、静かに、あくまで淡々と語る少女の声は素晴らしく心地よかった。少し考えては話し、話してはまた考え同じことを何度も方法を変えて説明する。考え込むと黒いまつげが目の下に影を作り、話し出すと、そのまつげの下から瞳が現れてぴくりとも動かずにこちらを見つめる。その一連の動きは簡単なものだったが、炎の動きのようにいつまで見ていても飽きがこない。そして、誰かが止めない限りずっと続きそうだった。
もうわかったよ、と言うと、ほっとしたように息をついて、それきり黙ってしまった。しばらく静かに前の席の背もたれのあたりをぼんやり眺めたまま電車に揺られた。再びくぐもった音だけの世界になってしまい、もう一度、少女の青竹を思わせる声が聞きたくて、一生懸命質問を探した。
「さっきさ、最初、見つけてくれたって言ったでしょ。あれ、どういう意味。」
首をぐりっと回して少女の目がこちらを向いた。なんだかそれだけでほっとする気がする。
「だって、私ずっとそばにいたのに、全然気付いてくれなかったから。最初わざと無視してるのかと思った。だけど、本当に見えていなかったんだ。それで、早く見つけてくれないかと思ってずっと待ってた。」
「ずっとって、いつから。」
「今日の朝から、あの部屋にいたときからずっと。」
「うそ。」
彼女はそれには答えず、前の席の背もたれに付いたタバコの吸殻入れを開けたり閉めたりし始めた。ここで彼女の言っていること否定するのは全くの無意味に思えた。とりあえず、彼女が自分で思い込んでいることを否定するのはあまり良いことではないように思える。
「ここの人たちはみんな私のこと見ない。話し掛けても聞かない。なぜか分からないけど、私の存在に気付かないようにしてる。」
「俺は気付いたぞ。」
少女はうんとうなずいた。
「名前聞いてもいいか?」
「マサキ。」
「マサキか。俺はねえ。」
「知ってる。ハルキタカシサンでしょ。長い名前。」
「何それ。」
「さっき、白い建物の中でそう呼ばれてた。」
「白い建物?」
「耳のこと話してた。白い服の人がたくさんいて。」
「病院にいたの。」
あたりまえだ、という風に少女は眉をしかめた。彼女が病院のことをいっていることはまず間違いない。ということは少なくともあの病院に彼女もいたと言うことか。少女の姿を改めてよく見てみた。かなりの美人だと思うしひどく目立ついでたちをしている。かなり目をひく赤い民族衣装。インドかスリランカか、なんだかそっちの方の民族が着ていそうな一枚布の服。金属と皮の派手な装身具。額には何か布を巻きつけている。しかも、今気付いたが、彼女は裸足だった。これほどに目をひく格好をしているのに病院では気付かなかった。
「サンは名前じゃない。春木たかし。」
「ハルキタカシ。」
「春木だけでいいよ。」
「ハルキ、なんか似てる。ハルキ、マサキ。」
そのとき彼女の笑顔をはじめて見た。十七、八かと思っていたがまだ十五くらいかもしれない。それとももっと幼いのだろうか。
「マサキちゃんね、家はどこ。どこから来たの。」
「地球と言うところから来た。」
本気でいっているように見える。少なくともふざけている風ではない。マサキの言う、心に直接語りかける方法でも、嘘はつけるのだろうか。声をあげて笑いそうになったが、どうもそういう雰囲気ではなさそうだ。
「地球ね。そりゃあ、みんな地球に住んでるしね。」
「みんなって?」
「みんなはみんなでしょう。俺もマサキちゃんも。」
俺はもう、何の話をしているのかわからなかったが別に楽しい気がするのでそれでよいと思った。
「でも、ここは月でしょう?」
彼女は戸惑っているようにつぶやいた。
「地球はもっと、こんなところではないし。」
「はあ。」
彼女が見るからに混乱し始めていた。こう言うときは下手なことを言って刺激しない方が良いに違いない。マサキは不安を埋めるように言葉を継いでいた。
「ここは月でしょう。あなたが月の主なのでしょう。そう聞いた。次に目覚めれば…。」
それから、マサキが何を言っているのかさっぱり分からなくなってしまった。唇がかすかに動いて、どこを見ているのかさっぱり分からない。こちらから呼びかけても全く反応しなくなってしまった。
そうなってから、急に、どうして彼女と会話してしまったのだろうと思った。他人にいきなり話し掛けられてどうしてまともに答えてしまったのだろう。最初からおかしなことを言っていたのに。
後悔が頭のうわべをかすめていった。けれどもすぐにそれも分からなくなった。耳に届くのはぼやけた響きだけで隣に座る少女との間には急速に隔たりが生まれていた。言葉の通じなくなってしまった彼女はものすごいスピードで風景の中ににじんでいった。静かな水の底で俺はまた一人になった。