鼻血が。と、思わず顔を上に向ける。上向くのにあわせて鼻の軟骨あたりに手をあてがう。決して血が出てきているわけではないのに、しばらくそうしてじっとしている。いつと言うこともなく、そういう衝動にかられる。歯を磨いている時、雑誌の立ち読みをしている時、昼食を一人、社食で食べている時、テレビを見ている時、雑踏の中を流れ歩いている時、仕事でパソコンの画面に向かっている時、何もしていない時。
その時のしぐさがあまりに鼻血の出た時のようなので、迎えのデスクに座っている女子社員が気を利かせてすばやくちり紙を差し出してくれたこともある。ただの癖なので鼻血ではないのだと伝えると、
「だって本当に鼻血を抑えているみたいですよ。」
などと言って笑われた。それはそうだろう。当の本人、鼻の穴から何かが本当にこぼれ出してくるような気がして上を向いてしまうのだ。
子どもの頃、俺は鼻が悪く、よく青っ洟をたらしていた。あるとき、仲の良かった近所の女の子に縁側で耳打ちされた。
「鼻水って、脳みそが溶けて出てきちゃってるんだって。」
まわりの大人の誰かが面白がって彼女にそんなことを吹き込んだのかもしれない。それとも、幼児特有の思い込みと想像力で自ら創り上げたということもありうる。とにかく、それをささやいた時の彼女は真剣そのものだった。衝撃だった。俺はかなり大きくなるまでこのかわいらしい嘘を本気で信じていて、大嫌いだった耳鼻科への通院で駄々をこねることをぴったりと止め、必死で蓄膿症を治したのだった。その、鼻水は溶けた脳みそだと言うイメージがあまりにも強力で、本当のことが分かった今でもおかしな癖が抜けないのかもしれない。
まさか脳が溶け出しているわけではないだろうが、そう考えると、この癖が出てしまった直前、自分が何を考えていたのかいつもどうしても思い出せない。それから一呼吸置いて、なんともしがたい焦りというか、理由のない不安みたいなものがない交ぜになった波が胃腸の裏側あたりからどっと押し寄せてくるのだった。
上を向いてしまった鼻になんとなく手をあてがう。手には黒いプラスチックの箸が握られていてその箸の先にはソースでどろどろにしなびたとんかつが刺さっている。パン粉のかすが降って来て左目を直撃した。慌てて手を下ろし、下を向いたらその油の固まりはすぐに落ちて頬骨の下あたりに引っ付いて止まったが、とき既に遅く、大量の涙がにじみ出てきた。目を硬くつぶると、眼球の表面にたまっていた涙が一気に落ちていく。今回は鼻からではなく目からこぼれてきてしまった。まあ、脳みそではなさそうなのでいいか。
涙を流すのが得意だった奴が同期にいる。この前田部由子達と飲んだ時にもいたと思う。国見と言う男だ。同期だが二つ三つ年上で、年上だけれどもとてもそうは思えない奴だ。国見は、なんというか、要するに熱い男というやつで、入社当時は、それはもう大変だった。しらふの時は常に不満を口にしていきりたち、酔えば同じような理由でぼろぼろ泣いた。まわりはみんな聞き役でなだめ役。
その頃国見は恐ろしく厭味を言うのがうまい先輩について仕事をしていた。その先輩の厭味のすごさたるや、たまに感動的なほどで、しかも殆どのべつ幕なしだった。彼は口を開かずして厭味を表現することができた。視線、身振り、小道具を使ったもの、事前に仕掛けておいて時間差で効いてくるもの等々。彼の技術があれば、かなり面白いサイレント映画をシリーズで出せるに違いなのだった。最初のうちはその凄まじさにみんな驚いたが、あまりに日常的なことだったので見えないふりをすることにした。見えないふりをしていれば本当に見えなくなってくるものだ。人間の神経とは素晴らしくよくできている。ところが国見の場合、そうはいかなかった。
目にした矛盾や理不尽な出来事もついでに全部その先輩の肩に背負わせて、毎日わめき、ぼやき、泣きじゃくる。まわりは毎日慰める。
「先輩だってさあ、俺らに教えてくれるためにやってんだからさあ。」
「やり方ってもんがあんだろ。」
「でも直接言われるのってもっと辛いだろ。」
「だけど、あれは絶対おかしいよ。」
「甘やかすわけにもいかないし、かといってずけずけ言ったりもできないしで、先輩だって戸惑ってんだよ。」
「俺はもう止めたいよ。」
「先輩だって一生懸命やってくれてるんだ。な、おまえももうちょっとがんばってみろって。」
理想的で明るい言葉の並べ立て、先輩の気持ちを分かった風に極力善意に解釈し、明るい未来を語っているうちに、国見の態度が変わり始めた。
「俺さあ、最近、先輩の言ってたことやっと分かってきた気がする。」
そんな風に言い始め、まわりは、それは良かったと口々にいった。先輩と心通じ始めてしまった国見は急激にその先輩と仲良くなり、仕事もできるようになっていった。そんなわけで、その厭味な先輩のことを愚痴ってくれる人はいなくなってしまったのだった。因みにその先輩の厭味は今も全く変わりない。少なくとも俺にはそう見える。
あれ、とんかつ食べててどうして国見のことなんか考えているのだろうか。ああ、カツのくずが目に入ったのだった。涙が出て、それでだ。それにしても、最近国見は全く泣かなくなった。酒の量も減った。先輩に追いつくのが目標だとか、今は無力だが自分なりにがんばるとか何とか。そんな国見が今先輩を失ったらどうなるのだろう、と考えるのはやっぱり嫌な奴なんだろうな。
スジ肉のとんかつはなかなか噛み切れず、まだ口の中に残っている。それを味噌汁で一気に流し込む。カツに醤油をかけすぎたかもしれない。白衣のおばさんが、奥でどんぶりをものすごい速さで並べるのが見える。ここはどうしてこんなにうるさいのだろう。落ちてくるまぶたをこすりながら考える。ただ飯を食うだけのところなのに、この騒ぎはいったいなんだ。ざわざわいっているのは何の音だ。あのおかしな夢のせいでこんなに眠いと言うのに、こんなにうるさくては眠れない。いや、眠れないのが騒音のせいではないと、本当は分かっている。むしろこう言う喧騒の中で眠るととても心地よいことも分かっている。そうではなくて、今は食事中だしとにかく眠れない。
そう考えながらも目だけは閉じてみる。と、すぐに国見の泣きじゃくる姿が浮かんできた。急いで目を開ける。ほら、やっぱりここで眠るのは不可能だ。にしても、飯時に、同僚の、しかも男のことばかり思い浮かべていると言うのはすこぶる良くないことのように思える。今日は嫌なことが起きそうだ。それでは誰のことを考えるのが良いのか。
一瞬、彼女の顔が浮かんできかけたが、なんだか億劫になってしまって、途中でやめた。だいたい、誰かのことを考えながら飯を食う必要などないのだし。かといって、味に注意を向けて食べるにはカツも味噌汁もしょっぱすぎるので、さっき食堂の入り口にあったのを持ってきたツアー旅行のフライヤーなど眺めながら箸を運ぶことにした。
こう言ったフライヤーの類というものはかなり資源の無駄遣いなのだろうが、最初に始めた人に感謝せずに入られない。たった一枚の紙で、いつでもどこでも旅のプランを考えることができる。実行するにせよしないにせよ、なかなかの良い暇つぶしになる。ページをめくると防水チョッキを着込んだ男女の乗った黄色いボートが急流の中で水しぶきをあげている写真が目に止まる。ラフティングもなかなかいいかもしれない。
「また見てるんすか?」
顔をあげると新人の羽山が丼ののったトレイを持って立っていた。まだ研修開けたばかりで、今は国見について仕事をしている。つまり、
「どうせ行きもしないのに。」
そう言ったのはやっぱり国見なのだった。
「いいんだよ。ささやかな俺の楽しみなんだよ。」
「でも結局どこにも行かないんだろ。意味ないじゃん。」
「行くよ。」
「いつよ。」
「今度の週末に。」
「へえ、どこ行くんすか。」
「いや、近間だけどさ。」
これは本当のことだった。と言っても、手元のフライヤーにあるようなリゾート地にいくわけではなく、ただの貧乏自転車旅行なのだが。
「どこいくんだよ。」
「やっぱ、ハワイとかっすか。」
「まあいいだろ、そんな。」
「いいなあ、俺もどこか行きたいっすよ。」
「お前にそんな暇はない。」
「なんでですかっ。」
「そんなことしてる暇あったら一つでも仕事覚えろ。」
「ちゃんとやってるじゃないっすか。」
「どこがだ。」
「春木さーん。俺国見さんじゃなくて春木さんにつきたかった。」
「おまえ、俺のどこがいけないんだ。こんな親切にしてやってんのに。」
「なに、おまえ今どこにいんだよ。」
最後の「何、おまえ…」を言いながら新人羽山は頭を下げつつケータイを耳に押しあてたまますばやくその場を去った。口調からして誰か友達からの電話らしい。突然会話を打ち切られた国見は去っていく後輩の背中を見送ってからどんと腰を下ろした。
「ジェネレーションギャップだよなあ。」
「はあ。」
国見は唐突に話題を振ることが多い。殆どの場合、何の話をしているのか分からないが、聞いているうちに分かってくることが多いのでとりあえず流して聞く。
「あいつ、何考えてんだかさっぱりわかんねえ。」
「はあ。」
「だってさあ、普通会話してる時に電話きたらさ、『ちょっとすみません』位は言うだろう。」
「ああ。」
ここでやっと彼の言いたいことがわかる。国見は若い奴のやり方はさっぱり分からないとぼやいているらしい。けれども俺には国見の気持ちがあまりわからなかった。新しく入ってくる人々の価値観などにそれ程ギャップなど感じない。国見とさっきのケータイ羽山にそれ程違いがあるだろうか。
「ちゃんと頭下げてたじゃないか。それに、お前ら、かなり仲良さそうだぞ。」
「そうなんだよ。」
国見がテーブルに身を乗り出す。どうしていちいちこんなに大げさに動くのか。
「俺たち仲良さそうに見えるだろ。だけどさ、そこなんだよ。」
「そこって?」
「だから、さっきあいつは俺に憎まれ口たたいてただろ。ふざけて言ってるように聞こえただろ。なのにさ、あれが、本気も本気、大真面目だったりするんだよ。へたしたら、課長に本気で担当替えてくれって言いに行くんだよ。わけわからん。」
「なるほどな。」
「そうなんだよ。」
「そうか。」
それ以上返す言葉が出てこず、ほんの少しの沈黙が降りた。けれども国見は三木に次いで沈黙を苦手とする男だった。
「俺気付いたんだけど、田部由子のタベは『おたべ』のタベ何だよ。」
「はあ。」
「この前みんなで飲んだ時に気付いたんだけどさ、俺ずーっ時になってたんだよ。」
「はあ。」
「田部由子って名前はじめて聞いたときからなーんかどっかで聞いたことあるなと思っててさ。」
「ふん。で?」
「でさ、気付いたんだけど、あの、『おたべ』って言う土産品あるだろ。八つ橋の、舞妓が箱に描かれてるやつ。修学旅行で絶対誰か一人は買うだろ。」
「ああ、そんなんあったかもな。」
「そのさあ、八つ橋の感じと、舞妓の絵と、田部由子のイメージがかぶるんだよ。」
「はあ。」
「あいつ、きっとオタベってあだ名になったことあるな。」
たまに、何のことだかさっぱり分からないこともある。
「今度からあいつ見ると八つ橋食いたくなるんだろうな。」
「はあ。」
「八つ橋食うと田部由子を思い出すんだろうな。」
はあ、と一息ついたかと思うと、味噌汁をすすり、突然ものすごい勢いで飯を口に運び出す国見。しばし静かなときが流れ、俺は席を立った。
「先行くわ。」
「おう。」
国見は意味のわからないことをたまに口にするが、それに対してなんと言って返せばいいか分からずうなずいているだけでも別に気にしないようなのだった。国見にとって、それは独り言と変わらないのか、聞き手に関心を持っていないのか、ただ、無反応であることに慣れているのか、それとももっと他の理由があるのかは分からないが、とりあえず、こちらとしてはありがたい。
田部由子と『おたべ』の関係をどうしてあのタイミングで話し出したのかということは殆ど気にならないほど国見の突拍子のなさには慣れていた。けれども、そもそも八つ橋のイメージっていったい何の話なんだ?八つ橋を食べるたびに田部由子を思い出すなんて、少し色めいた感じが漂っているとしか思えないが、国見はオブラートに包んでものを言うという感覚が通常と少し違うらしいので、ちょっと分からない。ふとこの前の飲み会を思い出した。確か国見は女から何度も電話がきていたようで、すまん、すまんと言いながら、かなり早い段階で帰ったのだったと思う。そんなことを考えていると、あの日、田部由子になにやら笑われたことを思い出した。
すると、やわらかい線を持ちながらふちが刃物のように鋭く切れている八つ橋の映像が頭に浮かんできた。言われてみると、確かに、という気がしてくるから不思議だ。いったいどれだけこうやっていいかげんなイメージを頭の隅に溜め込んできたことやら。とにかく、八つ橋の嫌いな俺にはあまり関係無い。
食堂を出ると、羽山がまだケータイでなにやらしゃべり続けていた。