黒い水の中を泳ぐ。潜っては水を掻き、顔を出しては息を継ぐ。そのたびに、耳に水音が響き、自分の肺に空気が入る音を聞く。水は生暖かく、やたらと重たいようだ。ねっとりとして、体に絡みつき、一掻きで凄まじく消耗する。
必死で水を掻きながら、なぜか泳ぐ自分の背が見えていた。腕を動かすたびに小さな背中が青白く光る。まわりは果てなく黒い海。海と空と背中。海、と言っても波があるのかどうかよくわからない。水が揺れているように感じるのが、波のせいなのか、それとも自分のばた足のせいなのか判じられない。ただひたすら泳ぐ。
あたりは薄暗いが、真の闇ではない。その証拠に、どこまでも続く黒いみなもがなんとなく見えている。
なぜ泳いでいるのだろうか。泳ぐのをやめたら沈むのだろうか。少しでも進んでいるのだろうか。進んでいるとしてもどこへ。ぼんやりとした疑問がまばらに頭をよぎるが、腕を前に出しては水を掻くうちに、すべての思考が遠のいてしまう。
おぼれる寸前のように思える。しかし次の瞬間にはまるで魚にでもなったかのように心地よい。それも、どうでも良いことで、ただ、ただひたすら泳ぐ。
目を開けると小さな天井だった。黄ばんだモルタルの所々にセロハンテープの跡がついている。丸い電機の傘を見て、自分の部屋にいることに気付く。深く長い吐息が漏れた。
この夢の後はいつもそうだ。目覚めてすぐには自分がどこにいるのかわからない。自分がなんという名で、年がいくつで、どこでどう暮らしを立てていて、兄弟は何人いて、趣味は何で、といったことすべてがすぐに思い出せない。というより、そう言った自分を定義する材料の必要性を感じないのかもしれない。
この夢を見るようになったのはそう昔の話ではない。学生だった頃は少なくとも覚えている限りでは見なかったから、ここ、一、二年のことだと思う。初めはそんなに気にならなかった。やけにリアルな夢を見たな、位のものだった。ただ、なんだか以前にも見たことのあるような、既視感に襲われた。けれどもそんな夢など珍しくもないし、すぐに忘れてしまうものだ。
忘れて随分たってまた同じ夢を見る。またどこかで見たような気分にだけなってすぐに忘れる。それを繰り返していることに気付いたのは本当につい最近だった。
一ヶ月と置かず、その夢を見るようになったのだ。それで初めて、これがデジャビュではなく実際に見たことのある夢なのだと気付いた。一度気がつくと、それ以前にも何度となく同じ夢を見ていたという記憶がおぼろげによみがえってきた。
夢を見る日の間隔は次第に狭まっているようだった。一月おきだったものが十日おきになり、一週間おきになり、この前見たのは三日前だった。
カーテン越しに外をのぞいてみる。まだ薄暗い。必ず薄暗いうちに目がさめるのもこの夢を見たときだ。目が覚めるのは良いのだが、今度は目がさえてしまって眠れない。そのまま朝になり仕事に行く。そういう日は、昼食後、当然のことながら耐えがたい眠気に襲われる。ただでも眠い時間帯、夢と現実の境界線が全く分からなくなり、何十回も同じ書類を作成したような錯覚に陥ったりする。不眠症と言うのはこんな風に始まるのかもしれないな、と他人事のように思ったりしている。
それにしても妙な夢だ。夢なんて大抵妙なものだが、こうしょっちゅう見るものだからさすがに少し気になってくる。ただ薄暗い海を泳いでいるだけなのだが、あのねっとりとした水の感覚がやけにリアルで気持ち悪い。そこまでリアルに肌で水を感じていながら、遠目から泳ぐ自分の背中が見えるのだ。ものすごく不自然だ。
仕事帰りの飲み屋でこのことを話したら同期の田部由子に失笑をかった。
「水って確か性欲の象徴じゃなかった。」
「なんだ、おまえたまってんのか。」
すかさず三木が突っ込んでくる。三木はよくしゃべるやつで、場がしらけることをものすごく気にする。みんなでいるときは常にテンションが高くなくてはならないと信じ込んでいるらしく、うるさくてうんざりすることもたまにあるが、大概、一緒にいれば楽だった。
田部由子が口の端だけ不自然にあげて笑っている。性欲か。なんでそっちに話を持っていくんだよ。じゃあお前が何とかしてくれるのか?大体お前眉細すぎるんだよ。と、口に出しては言えるはずもなく、三木ばかりが元気にしゃべっている。
「お前、あれは、大学ん時から付き合ってるって彼女は。」
「ああ。」
「あれ、遠恋だっけ。」
「ああ、いや、別に。」
田部由子は相変わらず微妙に口の端をあげて笑っている。
なんとなく鼻で笑ってからぬるくなってしまったビールの残りを飲み干した。
学生の頃から付き合っていた彼女がいた。仕事をもつようになってからも最初のうちはまめに会っていたのだが、お互いなんとなく忙しくて、会う回数が減り、連絡もあまりとらなくなっていった。最後に話したのは半年ぐらい前だったかもしれない。電話であれやこれやと話をして、じゃあまたね、というようなことを言って受話器をおいた。その後、メールで何度かやり取りをしたかもしれないが、今はそれすらもなく、こちらから電話でもしようかと思っているうちに今日まで来てしまっている。
学生時代も含めて、もう二年以上付き合っていたのに、こんな、何事もなかったように消えてなくなるものなのかと思う。いや、終わりがあったわけではないのだからまだ続いているのだろうか。どちらにしろ、ずっとあっていないことは確かなわけで、そう考えてみれば、あの夢を頻繁に見るようになってきた時期と重なっていると言えなくもない。
「春木さん、春木さん。」
「え。」
相変わらず笑みを崩さない田部由子がこっちを見ていた。
「ぼうっとしてたよ、今。」
そう言った彼女も目が少しすわり気味だ。
「大丈夫なの?」
細い眉がよく動く。人を斜めから見る癖があるかもしれない。
「田部さんこそ大丈夫じゃなさそうだよ。帰り、一人で平気か?」
「さーねー。」
そう答えて田部由子は首を思い切りかしげた。
とかなんとか言いながら、最終的にはすっかり元気になって、田部由子は他の女子何人かと共にしゃきしゃき帰っていった。あっけなく。いや、では、あっけあるとはどんなかというと、別にどういうわけでもないのだが。
それからだらだらと飲んで店を出て、みんなと分かれて帰途についたが、なんとなく、そのまま家に帰る気にならなくて、別に用もないのに帰り道にあるレンタルビデオショップに立ち寄った。最新コーナーをチェックしてから、絶対に見ないような任侠もののコーナーをしばらくぼうっと見てまわり、見るんだか見ないんだか自分でもわからないアクションものとAVを何本ずつか、無造作に選んでレジに持っていく。店員は学生バイトっぽい女の子だ。赤い縁の眼鏡をかけていてなかなかよろしい。そんな十代そこらの女の子にエロビのレジを打たせるのはちょと気がひける。店員の顔を盗み見ると、無関心そうにレジを打っている。じっと観察していると、店員が顔を上げたときに一瞬目が合った。その途端、その、前髪をピンで止めた眼鏡の女子店員は凄まじい速さで視線をそらした。俺はうつむいてにやけてくる顔を隠した。彼女は平常心を装うタイプらしい。
他のタイプとしては徹底的に侮蔑の目を向けてくるタイプ、完璧に慣れてしまっているタイプなどが多いが、中にはあからさまに耳まで赤くなってしまう人や、恥かしいふりをする人までいる。そんなことをつい観察して楽しんでいる自分は変態なのかもしれないと思う。けれども世の中案外その程度にはみんな変態なのではないかとも思う。
一メートルも離れず向き合っている店員に恥かしさを感じるより、観察者としての興味をそそられる。まるで自分は透明人間で、相手には見えていないかのように。そういう日常の中で毎日をなんとなく過ごしている。
店を出た途端、ひどい脱力感に襲われた。頭の中は空っぽなのに溜息ばかりが口から出てくる。なぜか。そんなこと知らん。
二、三歩進んでから店を振り返った。あまりのまぶしさに思わず目を細める。その行為はある種、癖のようなものになっていた。あるとき、自分と同じようにまぶしそうに顔をしかめている中年男を見かけ、初めて自分にそういう癖があるということに気付いた。丸まった背中を傾けて振り返った男の顔には闇夜と蛍光灯の白い光でおかしな影ができていた。その影のでき方がいやに滑稽で、印象的だった。うつろな目で顔をしかめている姿はひどくわびしくて奇異な感じがした。
そのことがあってからは、意識して店を出たあと振り返らないように勤めているのだが、今日のように無意識のうちに振り返っている自分に気付いてしまい、なんともやるせない気分になることも多くある。これほどにばからしい事を努力していると言うのはいったい何なのだろう。
店はまぶしく、周りの人間のシルエットが黒く揺れている。店の中は反対に、これでもかというくらい明るく照らされて毛穴まで見えそうな人々の姿が見える。夜の街で人間たちは影でしかなく、あのまぶしいところに入れば本当の人間か何かになれると信じてでもいるかのように灯りに吸い寄せられる。
手前に見えるカップルが何か話しながら店に入っていく。
「早く本当の人間になりたいわ。」
「ほら、もう着いた。あの中に入れば大丈夫さ。」
「影でいるのは嫌いよ。」
「さあ、入ろう。」
そんな風に意味もなく想像してはぼうっとしていたりするから、小学校の通信簿に注意力散漫だとか書かれるのだった。いつまでも突っ立っているわけにも行かないので踵を返して再び歩き始めた。頭が肩に埋まってしまったかのような自分の影が空気の抜けたボールのように揺れていた。