ドアは開いていた。
琴音ちゃんちへ来るのはもうずいぶん久しぶりで、少しだけ緊張する。
リビングやキッチンにいるはずがないことはわかってる。まっすぐに、あの、西日射す部屋に向かう。
部屋の中はカーテンが閉じられているせいで薄暗かった。薄暗い部屋の中、琴音ちゃんはベッドの隅にうずくまっていた。琴音ちゃんの小さな影が、ぼんやりと壁に映る。その小さな影の上に覆いかぶさるように、大きな影の塊がうごめいている。
あわてて部屋に足を踏み入れた瞬間、その影がカメムシのものだと気づいた。デスクライトに照らされて、てかてか光るカメムシは、人間の赤ちゃん位の大きさで、机の上でうごめいている。
「琴音ちゃん、このカメムシ、大きすぎる」
「カケル」
「…カケル、大きくなりすぎじゃない」
むくっと琴音ちゃんが起き上がった。のろのろと机に近づき、プラスチックのケースに手をかける。暗い部屋の中に、ケースと琴音ちゃんの腕が浮き上がる。
「本当、このケースじゃ、小さいね」
「ちょっと待っ…」
蓋に指をかけた琴音ちゃんの手ががくんと跳ね上がって、ケースのふたが開いた。
思わず私は琴音ちゃんの腕につかまった。電球に照らされた巨大カメムシはぴくりとも動かない。私と琴音ちゃんは黙って見つめ続ける。いや、目をそらすことができないのだ。
どのくらい経ったか、ピアノの、やわらかな音が鳴り始めた。たちまち、暗い部屋が、あの緑色の音に包みこまれる。健太君だ。健太君が帰って来たのだ。
私が健太君の部屋の方に目をやろうとしたその時、
ゴソッ
音を立てて、巨大カメムシが動き出した。
ゴソッ、ゴソゴソッ
ケースから出ようとしている。
私は、後じさった。
前足をケースの淵にかけて、半身を乗り出したカメムシが、ゆっくりと羽を開いた。固い背中の下から現れた透明の羽が、電球の光を浴びて虹色に光る。
私と琴音ちゃんは息を殺してメリメリと広がるその羽根に見入った。健太君のピアノが静かにメロディーを繰り返す。四分休符。小さな沈黙。
ブンッという音とともに、カメムシが飛び上がった。とたん、私の口から叫び声があふれた。手で口をおさえても、声が止まらない。めちゃくちゃに飛び回るカメムシは壁や天井にがつがつと激突するたびに方向を変える。カメムシの体からは、羽音とともに、シューッと、空気の抜けるような音が聞こえる。
「くさっ」
琴音ちゃんが叫んだ。
次の瞬間、頭をハンマーで殴られたような衝撃に私はよろめいた。
衝撃の正体は、においだ。
しびれていく感覚の中で、風船のように縮んでいくカメムシの姿がちらっと見えた。
膝をついて、なんとか声を絞り出す。
「まど…」
たちまち喉と鼻の奥が熱くなってせき込む。もう、臭いのかどうかもわからない。このまま死んじゃうと思ったとき、まぶしい光が差し込んできた。
琴音ちゃんがカーテンをあけたのだ。琴音ちゃんは、震える手で何とか窓を開けようとしている。
私も必死で窓際に向かう。逆光で黒く震える琴音ちゃんに近づく。
窓があいた。部屋に新鮮な空気が流れ込んでくる。私と琴音ちゃんは窓から顔だけ出してハアハアと息をついた。
今ではすっかり普通サイズに戻ってしまったカメムシが、スンッと音をたてて、部屋の外に出て行った。
窓から顔だけ出した琴音ちゃんは、飛んでいくカメムシを見守ろうとしたけど、カメムシは小さすぎてすぐに見えなくなった。カメムシがいなくなっても、私たち二人はしばらくそうやって、夕陽を眺めていた。
ピアノの音が鳴り出した。なりだして初めて、いつの間にかピアノの音がやんでいたことに気づいた。
「さっきの叫び声、聞こえちゃったな」
私のつぶやきに、琴音ちゃんがふっと笑った。私もちょっとだけ笑って、それから西日いっぱいの部屋を見渡した。我慢できる程度だけど、やっぱりまだカメムシ臭が残っている。
思いついて、かばんの中を探る。結局運動会本番では使えなかったデオドラントスプレー。こんな風に使うことになるとは。
部屋中にふりまけば、琴音ちゃんがつぶやく。
「変なにおい」
「さっきよりましでしょ」
って私が言い返す。
それから二人、ベッドの上に座って、黙って健太君のピアノを聴いた。まぶしかった壁が少しずつ青くなっていく。
「どういう意味か聞こうと思ったの」
琴音ちゃんがつぶやいた。
「マーチングの時、結局、カケル君、緊張してたのかしてなかったのか、確かめようと思ったの。そしたら裏の方に行くから」
それで、あんなところに琴音ちゃんも居合わせてしまったのだ。
壁がすっかり青くなった。
「あれはさ、ハマ君はただクッキー受け取っただけでさ」
「クッキーなんて」
琴音ちゃんが私の言葉を遮った。
「私には、ピースもクッキーも、考えもつかない」
見ると、琴音ちゃんの目から、涙がつーっと落ちて行った。
何を言おうとしたかも忘れて、私は琴音ちゃんのこぶしの上に手を置いた。琴音ちゃんの手はひんやりと冷たかった。 青い部屋に健太君のピアノの音が温かく響いていた。