リラグロッケン用のひもを締め直し、ふっと溜息をつく。周りを見回せば、みんな、心なしかいつもよりピリッと張り詰めている。
五年生にはこれが初舞台。お昼、家族のところへ直行せず、こうしてピリッとした空気を味わうのは、小さい頃にはなかった楽しみかもしれない。隣の琴音ちゃんに話しかける。
「緊張してる?」
「ほどよくね」
琴音ちゃんが、鍵盤を見つめながら答える。本当に緊張している人の言葉とも思えなくて、笑いがこみ上げる。練習の間、いつも後ろにハマ君がいたんだから、琴音ちゃんにはそっちの方がずっと緊張することだったのかもしれない。
「コトちゃん」
ハマ君の声だ。
「琴ちゃん、肩のところ」
琴音ちゃんは、一瞬ハマ君の肩を振り返って、素早く自分の両肩に手をやった。確かに右の肩ひもがねじれている。琴音ちゃんがなかなかおかしな所を探り当てられずにいると、ハマ君が、肩ひもをグイッと持ち上げて、さっと直してくれた。
「ありがとう」
やたらと低い声で琴音ちゃんが言った。こうゆう時の琴音ちゃんはより一層無表情になる。ハマ君のにこやかな感じと、すごいギャップだ。
「キンチョーしてきたね」
ハマ君がさらに琴音ちゃんに話しかける。
「そうは見えないけど」
と、琴音ちゃん。
「コトちゃんもね」
ハマ君の返しに、半分うなずきながら、前に向き直る琴音ちゃん。眉をひそめる琴音ちゃん。もう一度ハマ君に何か言おうと、振り返りかける琴音ちゃん。その時、整列の笛が鳴って、マーチが始まってしまったのだった。
* * * * *
「あと四十点差だってさ」
友梨ちゃんが本部席から最新情報を持って帰って来た。
「あー、なんかドキドキしてきた」
と乃莉ちゃん。
「なんかさ、いつもは全然そんなことないけどさ、こうゆう時はかっこよく見えるよね」
「誰が?」
「良太君も、橋本君も、浜内君も」
友梨ちゃんが赤組五年生代表男子の名前を挙げる。
「おい、おまえら、みんな前出て応援しろよ」
グランドの外柵ぎりぎりに陣取ったトウヤ君が手を振る。私たちは即座にかけだす。さっと振り返ってみると一応、駆け足で、琴音ちゃんもこちらに向かっている。
私も、すごく、ドキドキしてきた。
練習でも総練習でも、ハマ君はいつも三人抜いた。みんなわかってること。それでもやっぱり、その瞬間、やっぱり凄い歓声がグランドに響いた。
けれど、リレーの主役はやっぱり、六年生男子の最終ターン。練習通り、一位は赤組のぶっちぎり。練習通りなら、二位が白組、三位が赤組で、そこそこ差がつく。ところが今日は、二位と三位の差がほんの少し。この順位がひっくり返れば、赤組が逆転する。
三位の野口君がもう、二位の根岸君の肩に振れそうなところまで迫っている。二人の体は実は一つなんじゃないかと思うほどぴったり同じ足並みでカーブを曲がっていく。
私も、友梨ちゃんたちも、ほかのみんなも、声を振り絞って応援する。
最後の直線、二人が完璧に並んだ。あと三十メートル、ぴったりそろっていた足並みがずれる。四本足の人間が走っているみたいだ。外側の野口君の顔がほんの少しのぞいた。二十メートル、野口君の体が半分くらい前に出る。十メートル、勝利は目前だ。
ゴールの瞬間、グランド内の赤組選手が全員立ち上がった。耳が割れそうなほどの歓声が沸き起こる。赤組選手の五年生たちもこぶしを振り上げたり背中をたたき合って喜んでいる。
ハマ君もうれしそうに飛び跳ねている。そのハマ君が、こっちを向いてピースした。顔は真っ赤に染まって輝いている。その笑顔も汗もきらきらと輝いている。一瞬ぼーっとなってから、はっとして、すぐ隣にいる琴音ちゃんの方を見る。琴音ちゃんは、声を上げることも騒ぐこともなく、軽く唇を噛んでいた。
* * * * *
「勝ったね」
続いて行われる閉会式のため、グランドの中心に向かいながら、そっと琴音ちゃんに話しかけてみる。
「根岸君だって、すごく速かったよね」
琴音ちゃんの言葉にぎくりとする。そう、それは、きっと、赤組の誰もが心の隅の方で考えているに違いないことだった。今まで負けたことのなかった根岸君。いつでも逃げきっていた根岸君。そして、本番、とうとう捕まった根岸君。しかも、白組の運命を背負って。
「根岸君だって、追いかける立場なら野口君を抜いたかも」
「…」
琴音ちゃんの言っている意味がわかるようんわからないような気分。私の中の一部が分離しそうになる。
「ねえ、さっきハマ君、ピースしてたね」
あわててささやく。琴音ちゃんが無言でうなずく。
「誰に向かってしたのかな」
琴音ちゃんのうつむいた横顔をちら見する。さっきよりももっと低い声で琴音ちゃんが何かつぶやいた。
「アイドルなんて」 私にはそう聞こえた。