それから私は本当にピアノの練習を始めた。当然、琴音ちゃんの家にはしばらく行っていない。
学校では相変わらず無口な琴音ちゃん。私たちはまたほとんど話すことがなくなった。
話すことがなくたって、琴音ちゃんは琴音ちゃんだし、私だってなにも変わらない。
別に、私たち喧嘩したわけじゃない。そう思うんだけど。
ピアノの前に座っても、練習が全然進まない。琴音ちゃんの顔が目に浮かぶ。やっぱり遊びに行っちゃおうか。健太君のピアノの音を思う。あの音を手に入れるには練習しかない。そうは思うんだけど…
しかし、運動会が近付くにつれて深刻化している問題はやはり、汗問題なのだった。
「汗が乾いたらさ、においも消えるのかな?」
更衣室。友梨ちゃんがタオルで首を拭きながらつぶやく。
「どうかな。消えてくれるならいいけど」
汗で湿ったタオルをみつめる。このタオルは、いつもすぐに洗濯に出してしまうけど、出さずににおいをかいでみたらどうだろう。臭そう。思わず顔をしかめる。
「ジャージャン」
顔をあげると友梨ちゃんの手にはデオドラントスプレーが握られている。
「買ったんだ」
「まあね、使う?」
「うん…」
服の裾から手を入れて豪快にスプレーを吹きかける友梨ちゃん。考えてみれば、これってすごく変な格好だ。スプレーかけるとき以外には絶対しない格好。
「マリンバも買えばいいのに」
そう言いながら友梨ちゃんはスプレーを渡してくれる。
「うん、今、お小遣いなくてさ」
というのは単なる言い訳。正直、買いに行くのがちょっと怖い。だって、スプレー持って、どんな顔してレジに並べばいいの?店員さんはどう思うだろ?あら、この子汗臭いんだわ。って、思うに違いない。
「ちょっと、そんなちょっとでいいの?遠慮しないでよ」
「いいの、いいの」
遠慮してるわけではない。あんまりかけすぎると、椎太あたりにまた何か言われる。そんなのごめんだ。
そこに乃莉ちゃんが入ってきた。
「あー、キンチョーした」
乃莉ちゃんは今日日直だ。それで体育倉庫の鍵を返しに職員室に寄っていたのだ。
「運動会近いと日直は大変だよね」
さっき一緒に赤白の大玉をなんとか倉庫に押し込んできたことを思い出す。
「本当だよ。早く今日一日が終わってほしいよ」
乃莉ちゃんが大きくため息をつく。
「でもさ、運動会当日、日直の人ってラッキーだよね」
と友梨ちゃん。
「だよね。やること、殆どなんにもないもんね」
「誰だろ。あと何日?」
乃莉ちゃんが指を折り始める。乃莉ちゃんはこうゆう計算にかけてはやたらと素早い。
「あ、マリンバだ」
「よしっ」
すかさずガッツポーズ。
「えー、いいなマリンバ。男子は誰?」
「えっと、今日ゆうと君でしょ。だから…あ、ユッキだ」
「げっ」
友梨ちゃんと私の声が重なる。握ったガッツポーズががくんと落ちる。
キーンコーン
「あ、チャイム」
「これって、予鈴?」
「いや、予鈴はさっき鳴った」
「え、じゃ、もう次の時間始まったってこと?」 私たち三人は顔を見合わせるなり、急いで更衣室を出た。