「お父さんじゃないの?」
レッスンバッグを振り回しながら椎太が言った。前の席に座ったおばさんが、迷惑そうにこっちをにらんでいる。それに気づいた椎太が小さく頭を下げたので、私もつられて頭を下げる。なんでわたしまで。
「そんなのわかってるよ」
なぜかひそひそ声になって私は椎太に言った。
鈴木真鈴は誰に似ているか?
同じ質問を、学校にいる間に友梨ちゃんと乃莉ちゃんにしたところ、知らない芸能人の名前を友梨ちゃんにあげられた。そういうことじゃなくて、と言う前に、
「え、知らないのー?」
と、友梨ちゃんが目をひんむいて叫び、あのドラマに出てたとか、あのCMに出てるとか説明し始め、そのうち、あのCMのキャラがかわいいとか、あのドラマのお兄ちゃん役の人は怖すぎるとか、話がどんどん変わっていって、何もかもうやむやになってしまった。
ガタガタゆれるバスの中で、なおも小声のまま、私が問いかける。
「お父さん以外でだよ。…お母さんもナシ」
口を開きかけた椎太を遮ってたたみかけると、椎太が眉をひそめた。
「あと誰がいるんだよ。マリンバひとりっ子なんだし。ばあちゃんか?」
「そうゆうことじゃなくてさあ…。いいよ、もう」
私が途中であきらめてしまったのが気に入らないらしく、ますますしかめつらになった椎太だったが、突然にやっと表情を緩めた。
「マリンバ、今日さあ、シューシュースプレー使ってただろ」
「はあ?」
思わず声が大きくなってしまって、あたりを見回す。前のおばさんは転寝を始めたようだ。椎太は勝ち誇ったような顔をして、横目でこっちを見ている。
「何、色気づいちゃってんのー?」
顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかる。
「臭いって言いふらしてるのと同じ…」
琴音ちゃんの声が耳を掠める。ぐっとこぶしを握る。確かに、今日、体育の後、やっぱり気になって、シズカちゃんにあのスプレーを借りたんだった。だけど、そもそも、スプレーはシズカちゃんのものだ。シズカちゃんだってスプレーを使っているのに、どうして私だけこんな言い方されなければならないのか?
私は、腕を前で組み直し、何とかフフンと笑って見せた。
「シータンこそ、汗臭いまんまでいたら、シズカちゃんに嫌われるんじゃないの?」
今度は椎太が真っ赤になる番だ。体をのけぞらせて、声も出せずに口だけパクパクさせて、やっと言ったのは、
「う、うるせー」
の、一言。
ざまあみろ。
* * * * *
レッスンの順番は、あれ以来、毎回替わってもらってる。椎太のふざけたピアノを聴かなきゃならないのにはうんざりだけど、健太君の、グランドピアノを聴くには仕方ない。
さっき真っ赤になっていたことなんてけろっと忘れた顔で、ハノンを譜面台に広げる椎太。先生は背筋をぴんと伸ばし、組んだ足の上に手をのせて、椎太を優しく見守っている。先生の天女みたいな顔が、レッスンが進むにつれて鬼のようになって、最後には疲れきって、すっかりあきれ果てた顔になっていくのは、見てて結構面白い。それでも、毎回次のレッスンの時には、天女の顔に戻っている先生って、すごいと思う。ほらほら、はじまった。先生の微笑みを浮かべた瞳が見開かれていく。
ところが、今回は、同時に私の眼もまん丸になった。あんぐり開いた口もふさがらない。
椎太が、ちゃんと弾いてる。つっかかることもなく、力強く、すらすらと。
先生の見開かれた目玉がキラキラと輝きながら細まる。
「よく練習してきたのね」
そう言って、花丸を書き込む先生の肩越しに、椎太がこちらをちらっと振り返ってにやっと笑った。
私は、開いた口から顎が落ちないようにするのが精いっぱいだ。始まった二曲目は、さすがにハノンのようにはいかなかったけれど、いつもだったら、「そこはシャープ」とか、「左手忘れてる」なんて叱られているのに、今日は、「そこのスラーはもう少したっぷり」とか、「そこは弾むように」とか言われてる。
先生もすごくうれしそうだ。先生は、椎太の大変身を変に思わないのだろうか。信じられない。
真剣な顔で鍵盤を弾く椎太をじっと睨んでいるうちに、突然思い出した。
それは確か先週、音楽の授業があったってことは、金曜日だ。
運動会で披露する楽隊の練習のために、四時間目も音楽になった。それで、私たちは昼休みのうちから音楽室で遊んでいた。
たぶん、トウヤ君か誰かが、椎太に弾けって言ったんだと思う。とにかく男子が何人もピアノの前に集まって、椎太のたいしてうまくないピアノを聴いていた。
五年生になる時のクラス替えのせいで、クラスでピアノを習っている男子は椎太一人になってしまっていた。いつもは目立つ方ではない椎太は、ここぞとばかりに自分の腕前を披露していて、私と言えば、私だってそれぐらい弾けるっつーの、なんて思いつつ、横目でその様子を見ていた。
そこに、ハンニャちゃんとシズカちゃんとユッピがやってきた。
「えー、シータン、すごいじゃん」
一曲終わるなり、ハンニャちゃんが感嘆の声を上げた。
「もっと弾いてよ」
ユッピがたたみかける。
「男子でピアノ弾けるってかっこいいよねー」
ハンニャちゃんが両脇の二人に言うと、ユッピとシズカちゃんがうんうんとうなずく。
「別にすごくないよ」
真っ赤になってそうつぶやいた椎太に、シズカちゃんが言った。
「すごいよー」
…
あれだ。あれで、椎太、すっかりピアノ魂に火が…。恐るべし、シズカちゃんパワー…。
いつもより、随分早くレッスンを終えて、椎太がこっちに戻ってきた。私のあいたままの口の中は乾いてかっぴかぴだ。
「すごいじゃん」
かろうじて、言葉を振り絞る。椎太の得意げな顔といったら!
「ま、実力?」
椎太は、歌いだしそうな勢いで出て行った。
言わせてもらえば、いくら椎太が大変身を遂げたからって、やっぱり私の方がずっとうまい。この何年か、私はそれなりに練習してきたんだから。ハノンを開いてそっと鍵盤に指をのせる。一呼吸おいて、涼やかな音が走り出す。ほら、やっぱり。指が動けば動くほど、高ぶった気持が静まっていく。だから、ピアノの音って好きだ。
けれど、と思う。
一週間であんなに変身しちゃうんだ。もし、万が一、椎太がこの調子でどんどんうまくなったりしたら、私なんて簡単に追い越されてしまうんじゃない?
レッスンも終わりにさしかかった頃、いつものように健太君が、静かに部屋に入ってくる。涼しい顔でソファに腰掛ける。
琴音ちゃんの家に通うようになって、知ったことがある。健太君のピアノの練習の多さ。自分の今までやっていた練習なんて、健太君にしてみれば、ウォーミングアップ程度のものだ。練習時間だけの問題じゃない。健太君は、ミスタッチのあったところや、気に入らなかった所を徹底的に復習する。スピードを変えたり、強弱を変えたりしながら何度も何度も何度も。もう十分完璧に思えるところも、何度だって繰り返し練習する。
そんな健太君のすさまじさを目の当たりにしていたというのに自分はただ、うっとり聞き入っていただけだ。
椎太はどうだろう。シズカちゃんにいいところ見せるために、あんなに頑張った。アイドルがムダという意味だとしたら、少なくともシズカちゃんは、椎太にとって、ただのアイドルなんかじゃなかった。遠くから眺めて楽しいけど自分の生活には全く関係のないアイドルなんかじゃなかった。私がただただのほほんと健太君のピアノに聞き惚れていたのとは全然違う。全然、違う!
「マリンさん、肩の力抜いて」
先生が頬杖ついてほほ笑んでいた。
* * * * *
先生の家を出るとき、いつものように健太君のピアノの音が聞こえてきた。けれど、私はレッスンバッグをぎゅっと抱きしめて、その場を後にした。
家に直行してピアノの練習を始めたかったけれど、私の足は琴音ちゃんの家に向いた。
「はやいね、今日は」
私の鼻息が荒かったせいか、琴音ちゃんはちょっと気圧された感じだったけれど、私を部屋に入れてくれたあと、いつものようにおかしとジュースを持って来てくれた時には、すべていつもどおり、いつもの西日射す琴音ちゃんの部屋になっている。
「あのね、今日は健太君のピアノを聴いてこなかったの」
「へえ」
興奮して裏返りそうになる私の告白に、なんの感動もなく相槌を打ちながら、琴音ちゃんはいつものようにカケルに餌をあげ始める。
琴音ちゃんの慣れた手つきを目で追いながら、次の言葉を探していた私の思考が一瞬止まった。
「ちょっと、でっかくない?」
もちろん、カメムシのカケルのことだ。思わず声に出てしまった。西日に染まるカケルの体は、小ぶりのカブト虫と同じくらいの大きさと言っても言い過ぎではない気がする。
「そう?」
プラスチックのーケースに鼻の頭がくっつきそうなほど顔を近づけて、琴音ちゃんはカケルを見ている。
「絶対成長してる気がするんだけど」
一番はじめに見た時は、もっと小さかった気がする。というか、こんな大きなカメムシ、見たことない。
「毎日見てるから気付かないのかな」
そうつぶやいた琴音ちゃんの声は、少しうれしそうだ。
カメムシを見つめる琴音ちゃんの横顔をじっと見つめる。心なしか、口元がほころんでいる感じの琴音ちゃん。切りそろえられた前髪が眉を覆っている琴音ちゃん。ほほが赤みを帯びているのは、瞳が薄茶色に透き通って見えるのは、西日のせいだろうか。
その薄茶色の瞳に、カメムシはどう映っているんだろう。
「で、どうして?」
琴音ちゃんの目が突然こちらを向いたので、私はびっくりして息をのんだ。
「え、どうしてって、何が?」
「どうして、ピアノ聴いてこなかったの?グランドピアノの音は格別なんでしょ?」
「あ、ああ」
琴音ちゃんに言われて、私はさっきまで自分が言おうと思っていたことを思い出した。
「あのね、シータンがね、びっくりするぐらいピアノうまくなってたの」
今は琴音ちゃんは腕組みをして黙って私の話に聞き入っている。
「でね、それはシズカちゃんのおかげなの。あいつ、シズカちゃんにいいとこ見せたくて練習したわけ」
琴音ちゃんは黙って聞いている。
「でもシズカちゃんはシータンを変えたの。変身させちゃったの。だから、シズカちゃんはただのアイドルじゃないの」
「…ふうん。それで?」
「それで、…私も思ったわけ。私も健太君のピアノを聴いてるだけじゃダメだって。もっと練習しなきゃって」
「ふうん」
琴音ちゃんの視線が、再びカメムシに戻る。
「しなよ」
「…え?」
「しなよ、練習を」
「うん…」
琴音ちゃんのテンションに引きずられて、高揚していた気持がしゅんとしぼんでいく。そりゃあ、ここで琴音ちゃんが、友梨ちゃんとかみたいに目をきらきら輝かせて「がんばって!」なんて言ったら不気味だけど。
「琴音ちゃん、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ」 そう言った琴音ちゃんの顔は、だけどやっぱり、さっきまでの感じとはちょっと違っている気がした。