琴音ちゃんの部屋にいるときの私は、学校にいるときの私より、家にいる時の私より、ずっと無口だ。それは、第一に、健太君のピアノの音色に耳をそばだてていなければならなかったからだし、第二に、放課後の西日のあたる部屋って、すっごく眠くなりやすかったから。そして、第三に、一緒にいるのが琴音ちゃんだから。
琴音ちゃんは、いつでも無口だけど、この部屋にいるときは少し口数が増える気がする。
「デオドラントスプレーってさ」
窓の外を眺めながら静かに琴音ちゃんが口を開く。
「臭いにおいの上に、違うにおいをつけるわけでしょ。そんなことしたら、そんなにおいをつけなくちゃいけないほど、自分が臭いって言いふらしてるのと同じじゃない。においを隠そうとして、矛盾してる」
「あ、ああ!」
ああ、そうだ。あのスプレー、どうしてあの時、使うのをためらったのか。考えても考えても、どうしてなのかわからなかった。わからないのだけど、どうしても抵抗が消えない。あの、シズカちゃんだって使ってるのにどうして…って考えてた、そのことの答えが、クリアになった気がした。その一方で、疑問もわいてくる。シズカちゃんは、においを隠す為に、スプレーを使っているわけではないということだろうか?
「カメムシって、いつでも臭いわけじゃないでしょ。カケルなんて、全然臭くない。自分の身が危険にさらされたとき、死の危険を感じたとき、初めて臭いにおいを出すの。そのにおいはとても危険な毒が含まれていて、敵だけじゃなく、カメムシ自身も命を落とすことがあるほどなんだって。命がけの悪臭攻撃ってわけ。勇敢な行為だと思う」
琴音ちゃんの言葉を聞きながら、私はじっとカケルを見つめていた。
つややかな緑色に輝く彼は、毎日豪華な餌を食べているせいか、外で見かけるカメムシより、ごろっと大きいような気がする。
ふと、水槽の向こうの本棚に目がとまった。2年3組と、手書き文字で印刷された赤いはがき大のカード。
「なにこれ、見てもいい?」
「あ」
手に取った瞬間、二つ折りのカードからは一枚の写真がすべり出た。写真はひらひらと、二人の間に落ちた。
それは、五年生全員で行ったサマーキャンプの時の写真だった。バケツを持った振り向きざまの琴音ちゃんが、途方に暮れた顔でこちらを見つめている。
その隣では、両手でピースをばっちり決めた他のクラスの男子が写っている。私はその子を知っていた。よく、朝一緒にサッカーをするメンバーの一人だ。
「ハマ君」
「そう」
琴音ちゃんが、そっけなく答える。浜内君、通称ハマ君は、椎太と同じサッカークラブに通うサッカー少年で、朝のサッカーにハマ君が出てくると、ゲームの流れが一気に変わったりする。敵に回すと手ごわい奴だ。
そのハマ君と琴音ちゃん。二人の共通点が見つからない。
「好き、とか?」
おそるおそる聞くと、ぷいっと窓の外に目をやって、琴音ちゃんは言った。
「まあ、例のさ、偶像ってやつ。マリンバの、健太君と同じだよ」
「健太君は違うって」
いきなり全然違う方向に話が進んで私は更に混乱した。
「健太君のピアノが好きなだけだよ、私は」
そう言いながら、私は、もしこのピアノが実は健太君じゃない人が弾いてたとしたら、どうだろう、と考えてみた。例えばこれが、七十歳のおばあさんが弾いているんだったら…すぐに心の中の私が大きく首を横に振る。いやいや、七十歳のおばあさんに、こんな緑色の音が出せるわけないんだ。健太君にしかできないんだ。
「どっちでも同じだよ。健太君でも、健太君のピアノでも」
「そうかな…」
琴音ちゃんに言い切られると、やっぱりそうなんじゃないかと思えてくる。
写真のはさんであった赤いカードは、二年生の時の寄せ書きみたいだ。みんなから琴音ちゃんに向けて、一言メッセージが書かれている。
「ハマ君と同じクラスだったんだ?」
「まあね」
「そのころから、その…偶像だったの?」
「ううん。そんな頃は何も考えてなかったもの。クラスが離れてから、いつのまにかね。ちょっと遠い存在の方が、偶像にしやすいんだろうね」
「そういうもん?」
「いやなところが見えないからね。健太君なんて、ピアノ弾いてるところしか知らないわけでしょ。それに、離れた人なら、何の足しにもならない代わりに、なんの害にもならないから」
「なるほど…」
言いながら私はカードの中に、とうとうハマ君からの一言を見つけた。
―――ずっとずっと友達でいようね。
はま内かける―――
「ハマ君て、カケルっていうんだ」
「うん」
健太君のピアノは今、一つの旋律をゆっくりゆっくりと繰り返していた。生まれたときから完璧としか思えない、健太君の音色も、こういう地道な努力から生まれるのだと思うと、なんだか希望がわいてくる。…あれ?
私は水槽の中でじっとしている緑のカメムシと赤いカードを見比べた。ハマウチカケル?
「カケル君がカメムシだったらよかったのにな」 カメムシのカケルを見つめながら、琴音ちゃんはそうつぶやいたのだった。