「来ちゃった」
インターホン越しにそう言ってお菓子の袋を見せると、琴音ちゃんちの扉が静かに開いた。
「マンボッ」
「…なにそれ」
表情一つ変えずにそう言われると、さすがにマンボーのモノマネをする気にはなれなかったけど、とにかくマンボーのことを説明した。
「それで、友梨ちゃんがマンボーは確か魚のことだからって…」
「魚じゃないよ」
「え?」
「マンボはダンスの種類で、ウーッ・マンボっていうのはマンボナンバー5っていう曲に出てくるかけ声だよ。魚の方はマンボウ」
「へえ…」
マンボーの話題は、琴音ちゃんの部屋に到着する前に終わってしまった。たぶん、琴音ちゃんは、古野小のマンボーを見ていないから、面白さがわからないのだ。
「その、古野小の女子もそうだけど、ユッキって本当にアイドルだよね」
「アイドル?」
びっくりして聞き返した。古野小の彼女は置いといて、あの変人ユッキがアイドルだなんて、ありえない。
「アイドルじゃない。女子たちみんなキャーキャー言ってるし、彼のいない所でも、いつも彼の話題でもちきりだし。ユッキの話してる時って、みんな、テレビのアイドルの話してる時と同じくらい興奮してるでしょ」
「そうだけどさあ」
隣の部屋からは健太君のピアノの音が聞こえ始める。思わず音の聞こえてくる側の壁に身を寄せながら言い返す言葉を考える。なにも出てこない。代わりに琴音ちゃんが口を開く。
「アイドルって、偶像って意味なんだよ」
「偶像?」
「そ。偶像。神様をかたどった人形。本物の神じゃないのに、それがあると、みんな神の代わりに崇めて、それで心一つにできる」
「それがユッキってこと?」
「まあね」
確かに、ユッキのことを話している時って、みんなの心が一つになってる感じはする。それに、実際、私はユッキのことが本当に臭いと感じているわけじゃないのに、臭いと思っているふりをしている。本物じゃないのに本物の代わりにしているってことなのかもしれない。やっぱり、ユッキは偶像なのだろうか?
いやいや、やっぱり、そもそも、ユッキは神様の形をしていない。テレビの中のアイドルだって、神様の形なんかしてないけど…。
「ま、私がそう思っただけだから」
お菓子の袋を開けながら、琴音ちゃんがひとりごちた。隣からは、緑の沼の、とろりとした調べが流れてくる。しばらくの間、私たちはただ、その音に身をゆだねた。西日の部屋が、緑に染まっていく。
「これ、カケルも食べられるかな」
「カケル?」
琴音ちゃんは、片手でお菓子を細かく砕きながら、お菓子の原材料を調べている。
「ビーフエキスって牛肉ってことかな。肉食のカメムシもいるらしいけど、カケルはミドリカメムシだと思うんだよね」
どうやら、「カケル」というのはカメムシの名前らしい。
いつものように手際よくスナックを液体状にすると、琴音ちゃんはカケルの入った虫かごにそれを入れた。
カケルは、まだ、そのえさの存在に気付いてさえいないらしく、隅の方でじっとしている。
「お腹すいてないみたいだね」
「そうだね。まあ、夜行性だしね」
こうやって眺めていると、カメムシの緑いろも、つやつやとしてみずみずしく、美しいような気がしてくる。
「なんか、かわいいかもね」
私がそう言うと、琴音ちゃんは少しだけ笑った。 「いい加減だなあ、マリンバは」