電車が、大きな音をたてて、穏やかに走り出しました。モーターのまわる音が高まり、ガタンゴトンの揺れも、また、同じリズムで人々の首を揺すり始めます。窓の外の電線も、先程と変らずゆったりと流れて行きます。
いつの間にか、隣に、水中で使うような、大きな眼鏡をかけた若い男の人が座っていました。男の人はぽかんと口を開けて、辺りをきょろきょろ見まわしています。
そこへ、またあの声が聞こえてきました。
「キップ…、キップ、ハイケーン。」
暗がりを泳ぐように、魚頭の車掌が人々の間をまわって来ます。
今度はたけおもどうすれば良いのか分かります。てのひらに握られているビー玉をそっと覗くと、ゆっくり影が浮びます。ビー玉を素早く車掌に見せて、再び手の中に隠します。
魚頭の車掌は、小さくうなずいたかうなずかないかして、とにかくたけおの前を離れました。
次は、眼鏡の男の人の番です。
「切符拝見。」
男の人は、あたふたしながら、手にしていたかばんから財布を取り出しました。
「いえ、あの、どうも、買いそびれまして。」
そう言いながら財布に指を突っ込み、かきまわします。
「あれ?」
とつぶやいて、男の人が財布から取り出したのは、小さなコルクの切れ端なのでした。
不思議そうにブツブツ言う男の人の手から、魚頭の車掌はすっとコルクの切れ端を取り上げ、肩から下げていた黒いかばんの中に仕舞い込みました。
それからは、先程と全く同じです。ぽかんと口を開けている男の人の前で、魚の目玉はみるみるうるんで、輝く雫を男の人の手の中に一粒落としました。
そして、また、向きを変えて、
「キップ、ハイケーン。」
と、ふれながら、遠ざかって行きました。
眼鏡の男の人はというと、手の中で光る小さな粒を、食い入るように見つめています。たけおも横目で覗いてみます。人のものを盗み見るのは失礼なことだと分かっていましたが、見たくて見たくて仕方がなかったのです。
その薄茶色のビー玉は、初め、ただキラキラしているだけで、何も映しておりませんでしたが、次第に何かの影がうっすらと見えてきました。
それは船でした。船といっても、煙突から煙を出して走るような船ではなく、真っ白な帆を幾つも広げた、風で走る昔の船です。
風をいっぱいに受けた帆船はどこまでも広がる大海原ではなく、なぜかガラスびんの中に入っています。
そのガラスびんの中をピンセットが動きます。帆船はガラスびんに入った作りかけの模型なのです。
ピンセットで模型の仕上げをしている人は、水中で使うような大きな眼鏡をしています。そうです。ビー玉を手にしている本人が、ビー玉に映っているのです。
ビー玉の中で、男の人は顔中に汗を浮べて、そろそろとピンセットを動かしています。細かい部品をつまみ取っては、ゆっくりと船に取り付けていきます。
たけおには、作業の結果、船のどこがどう変ったのかさっぱり分かりません。船は既に完成しているように見えるのです。それでも、男の人は動かす手を休めません。
このまま、永遠に同じ光景が続くかと思われましたが、とうとう、ピンセットがびんの外に置かれました。
ほーっと長い溜め息が、男の人の口から吐き出されます。
最後にガラスびんの口にコルクのふたが押し込まれました。
男の人は、白い布を取り出してガラスびんを丁寧に磨きます。すっかり磨き上げたら、腕を組んで、じっと船に見入ります。
ガラスびんの集めた光を白い帆に受けて、船の模型はそっと佇んでいます。
どこからか、きれいな女の人がやって来ました。顔いっぱいに笑みを浮べて、こちらに近付いて来ます。
びん詰めの見事な船が、彼女の目に留まりました。驚きと感激で頬がバラ色に染まります。すかさず両手をびんに伸ばしましたが、慌ててその手を引っ込めました。そして、問いかけるように男の人を見つめます。
眼鏡の中の優しい瞳がそっとうなずくと、女の人は小さく跳びあがり、きれいな顔をくしゃくしゃにして喜びました。くしゃくしゃになった顔は、よりいっそう輝いて見えます。
きれいな女の人は、船の入ったびんをそっと手に取りました。
ところが次の瞬間、ガラスのびんは女の人の白い手からすべり出しました。
ガラスのびんは、ゆっくりと、そして真っすぐ下に落ち、砕けてそこらに飛び散りました。
「あっ。」
ビー玉の中の光景を見つめていた男の人の口から声がもれました。顔はぐっとゆがんで目は見開かれ、今にも泣き出しそうです。
ところが、泣き出してしまったのは、ビー玉の中の女の人でした。床にひざを付き、大粒の涙をこぼしながら、肩を震わせて泣きじゃくり始めたのです。
ビー玉を手に、男の人はぐっとつばを飲み込みました。
女の人は真っ赤になってしゃくりあげながら、砕け散った船のかけらを拾い始めました。脇で茫然としていた男の人が慌てて止めに入ります。腕をつかまれた女の人は、男の人を見つめて、一段と盛大に泣き出しました。
ビー玉の中でなき続ける女の人を、眼鏡の男の人はただただ見つめていました。たけおに盗み見られていることなど全く気付かない様子で、じっと、ビー玉を見つめていました。
そうしているうちにも、電車は進み、次の駅にやって来ました。電車が一揺れして、男の人がビー玉から目を上げました。たけおも同時に目をそらして、知らんぷりをしました。
男の人は、一度、辺りを見まわしました。それから、今度は少し、ビー玉を隠すようにして、じっと見つめました。
電車が止まりました。
先程話しかけてきた隣の席のおじさんが、立ち上がって荷物棚からかばんを降ろしました。どうやらここで降りるようです。
たけおはほっとしました。これで安心して自分のビー玉をじっくり見ることができます。
おじさんは行きがけに、帽子を傾げてたけおにあいさつをしましたので、たけおも慌てて頭を下げました。
電車を降りたおじさんは、手に握っていたビー玉を、一度、じっくりと見つめ、それから、ふっと宙に放りました。放られたビー玉は、しばらく漂ってから、一度、強く光りました。そして、他のビー玉と区別がつかなくなり、そのまま、ビー玉の群れに溶け込んでしまいました。 ビー玉がすっかり遠くまで行ってしまうのを見届けてから、おじさんは、ゆっくりと歩き出しました。そしていつしか、ぼんやりとした景色の中に消え去っていたのでした。