ガタゴト揺れる電車の窓を通してたけおの目に映るのは、相も変らず電線の波と、ぼんやりとした灰色の広がりだけです。これが、全て、あのビー玉から出来ているとは、とても思えません。
たけおは、もう一度そっと手の中のビー玉を覗き込みました。中に映るビー玉は、もう、さわれそうなくらいはっきりと見えます。そのビー玉を乗せた手も、上からそえられた親指の爪垢も、しっかり見えます。
ビー玉を手に乗せた男の子が、青い空にかざして中を覗き込んでいます。男の子はたけおとおそろいのランニングを着て、おそろいの髪型をしていますが、手も足も、たけおよりすらっと長く、あごがとがっています。
たけおはその子を知っています。何しろ、それはたけおのお兄ちゃんなのですから。
入道雲光る真夏の昼下がり、お兄ちゃんとたけおは、焼ける砂浜でラムネを飲んでいます。
すぐ後ろの、コンクリートで出来た塀には、大きな帽子をかぶったワンピース姿のお母さんが寄りかかって、ラムネ売りのおじさんと話をしています。
たけお達が海で遊んでいるところへ、買い物に行く途中だったお母さんが通りがかり、ラムネを買ってくれたのです。
お兄ちゃんは、ラムネを飲みながら、得意そうにビー玉を太陽にかざしています。
たけおには、いったいどうやって、びんからビー玉を取り出せばよいのか、さっぱり分かりません。ラムネなんか、お兄ちゃんよりもずっと先に飲んでしまって、びんに指を入れたり、振りまわしたりしてみますが、全然だめなのです。
たけおの様子を見ながらお兄ちゃんは
「そんなことしても駄目だよ。」
とか、
「こつがあるんだよ、こつが。」
と、にやにやしながら言ってきます。たけおは必死でビー玉を取り出そうとしますが、やっぱりうまくいきません。
「簡単なのに。」
軽くつぶやいて、お兄ちゃんが後ろのコンクリートに腰かけます。見下ろすお兄ちゃんのあごが影になって黒々としています。あごをあげたまま、目だけでこちらを見下ろしているのです。
たけおはますます面白くありません。びんの口をぎゅっとにぎりしめます。
そのとたん、ビー玉を取り出す素晴らしい方法を思い付きました。確かに、とても簡単な方法です。
たけおは大きく振りかぶると、ラムネのびんをコンクリートに思い切り打ち付けました。
おおげさな音をたててびんが割れました。飛び散るガラスを避けて、お兄ちゃんがひょいと立ち上がります。脇で話し込んでいた大人たちが何事かと駆け寄って来ました。
「たけちゃん、何やってるの、もう。」
と、お母さん。
「危ないから離れろ、おまえら。」
と、ラムネ売りのおじさん。
「割れちゃった。」
と言ったのはたけおです。たけおが言ったのはびんのことではありません。あんまり強くたたきつけたので、なんと、中のビー玉まで割れてしまったのです。
「割れちゃった。」
そうつぶやいたたけおの耳がジーンと熱くなりました。のどの奥から大きな塊がせり上がって来ます。
その時、お兄ちゃんがコンクリートから飛び降りて、たけおの前に立ちました。
「これ、やる。」
お兄ちゃんは、こちらをうかがいながら、ビー玉の乗った手をぐいぐい差し出してきます。
「ほら、な、な。」
と、何度も言いながら、たけおの顔を覗き込みます。さっきまでの得意げな様子とは大違いです。
お兄ちゃんの手の中で、ビー玉はキラキラと光を放っています。
たけおはぐっとつばを飲み込むと、黙ってビー玉を取りました。
するとどうでしょう。お兄ちゃんは大きく息を付いたかと思うと、片方のまゆだけをぐいっと上げて、にーっと笑ったのです。たけおは思わず顔をしかめました。
「たけおは、本当に、もう。」
ガラスを拾いながらお母さんが、まゆはひそめたまま、笑顔で言いました。ラムネ売りのおじさんも笑っています。
「よかったよなあ。得したよなあ。」
たけおはおじさんとお母さんを見ました。それからお兄ちゃんを見ました。三人とも、にこにこ笑っています。ガラスのかけらを拾いながら、たけおを見て笑っています。たけおは手の中のビー玉に目を落としました。たなごころに沈んだビー玉はちっとも光っていません。
ビー玉をぎゅっと握りしめると、たけおはまわれ右をして走り出しました。
「たけっ!」
叫ぶお兄ちゃんの声が聞こえましたが、かまわず走り続けました。さっきぐっと飲み込んだつばが、お腹の中でぐつぐつ音をたてています。どんどん息が苦しくなってきます。もう、うまく息が出来ないのです。それでもたけおは走り続けます。
電車が、大きな音をたてて止まり、たけおの頭が大きく揺さぶられました。ドアの開く音を最後に、辺りが静まり返りました。
たけおはそっと立ち上がりました。
戸口に向かって歩き出したたけおは、隣に座っている眼鏡の男の人をチラッと見ました。男の人は前と同じ姿勢のまま、自分のビー玉に見入っていました。頬にビー玉の光が反射して、ゆらゆら揺れています。ビー玉の中ではびん詰めの美しい帆船が真っすぐ下に落ちていきます。男の人の眼鏡には、落ち続ける帆船がずっと浮んでいるのでした。
まだ眠っている杖のおじいさんの前も通り過ぎ、たけおは戸口に出ました。戸口の階段をトントン音をたてて降り、プラットホームの固い地面に立ちます。足元には雑草がまばらに生えています。
後ろでプシューッと扉の閉じる音がして、たけおは振り返りました。電車がゆっくりと動き出します。外から見える電車の中はいっそう薄暗く、影絵みたいでよく分かりません。速度が上がればなおさらのことで、人々の間を泳ぐ魚の頭はとうとう見つけられませんでした。
電車が行ってしまうと同時に、強い風が吹き付けて、たけおは目をつむりました。電車の鉄とほこりの臭いに混じって、かすかに潮の香りがします。
遠のいていく電車の音を聞きながら、プラットホームに向き直ると、ペンキのはげかけた看板が、目の前に立っていました。海からの風にすっかり錆付いたその看板に、何だか見覚えがあるようです。もっと近寄れば、見たことのあるいたずら書きが目にとまります。いつかの学校帰り、お兄ちゃんとしたいたずら書きです。
電車の音はすぐに小さくなって、ヒューヒュー頬に当たる風の音と区別できなくなってしまいました。気が付けば、風の音に混じって、波の音が遠く聞こえてくるのでした。
もう一度振り返ると、ホームから一段低くなった所、猫じゃらしの茂る草むらに、錆びた線路が見え隠れしています。腐ってまばらにしか残っていない枕木の間から、赤蟻の行列が見え隠れしています。
その蟻の辺りから向こうには、一本のけもの道が伸びています。毎日、たけお達が歩いて出来た、海沿いの道路へ続くけもの道です。
たけおの前に広がる景色は、間違いなく、学校に行く時も、遊びに行く時も、必ず通る近道の途中なのでした。
たけおは、はっと思い出して、握っていたビー玉を恐る恐る見てみました。開いたてのひらの上で、ビー玉にはもう何も映っておりません。ただ、傾きかけた太陽の暖かい光を受けて、手の中に黄色い影を伸ばすばかりです。
見つめていると、魚の目から涙のこぼれ落ちた時のことが思い出されました。雫の固まる時に聞こえた涼やかな音が再び響いて、たけおの体に染み込んでいく気がしました。
たけおは、ほーっと深く深く息を付きました。その後、遠く聞こえる波の音にじっと耳を傾けましたが、電車の走る音はもう、さっぱり混じっていないのでした。
「おーい。」
草むらの中、けもの道のずっと奥から声がしました。草々の先がガサガサしたかと思うと、ぴょこぴょこはねる頭に向かって手を振りました。
「おーい。」
けもの道を走りながら、お兄ちゃんも手を振り返します。そして、一気に線路まで走り着きます。
プラットホームに上がったお兄ちゃんは、息をハアハアいわせてつぶやきました。
「追いつけないかと思った。」
それから肩で息をしながら、ひざに手を付いてたけおを見上げ、じっと見つめました。
たけおは、さっと、プラットホームの縁に駆け寄り、海の方角、赤い空を見つめました。お兄ちゃんがすぐ隣に来て立ちました。まだ、肩で息をしています。赤い空と林の黒い影の間で、海がチラチラ光って見えます。
あれが、みんなビー玉で出来ているなんて、たけおにはやっぱり信じられません。
たけおはお兄ちゃんに言いました。
「もう帰るか。」
お兄ちゃんもたけおの顔を見ると、笑って元気に言いました。
「家まで競争する?」
「じゃあ、勝った方がこのビー玉をもらえることね。」
たけおがそう言ってビー玉をかかげます。夕陽を受けて、ビー玉が赤々と光り輝きます。それを見たお兄ちゃんが首を傾げてビー玉に顔を寄せました。
「あれ、これ、さっきのやつか?」
お兄ちゃんがもたもたしているうちに、たけおは素早くビー玉をポケットにしまって、走り出しました。お兄ちゃんも後を追います。
かけていく二人の姿は、すぐに、並木の角に消えてしまいました。二人の足音も、波と風の音に紛れて、最後にはすっかり消えてしまいました。