ガタンゴトンと電車が揺れると、たけおの頭もガクンガクンとそれに続きます。つりかわにつかまる人達の透き間から覗く、向い側の席の頭達もガクンガクンと揺れています。
揺れる頭はどれも目を伏せていたり、帽子で覆われていたりして、本当の顔がよく分かりません。斜め奥に座る杖のおじいさんなどは、すっかり眠ってしまっている様子です。
手前の、つりかわからぶら下がっている男の人を見上げると、真っ黒な鼻の穴が電車に合わせて揺れています。少しだけ頭が傾き、鼻の向こうから眠たそうな目の玉が現れました。ひたいや目の下に影が出来て、その上あごが二重に見えるものだから、とても不気味です。暗い瞳や大きな鼻の穴や、半分開いた口元から、透明の黒い煙が染み出て来る気がして、たけおは急いで目をそらしました。
窓の外は、なんともぱっとしない灰色で、どこまでが空なのか、どこまでが雲なのか、皆目見当が付きません。
灰色の空にもかかわらず、何だかとてもまぶしくて、他の景色が見えません。ただ、幾本もの電線が遠くの方で波打つばかり。線をつなぐ電信柱が、ガタンゴトンの電車とは全く違うリズムで、ゆるやかに流れ去って行きます。
薄暗い電車の中に目を戻しても、並んだ頭がそろって揺れるだけで、たけおも段々眠たくなってきます。
「キップ、ハイケーン。」
電車のごうごう走る音に混じって、奥の車両から、声が聞こえてきました。
「切符、拝見。切符ハイケーン。」
声はゆっくりと近付いて来ます。
たけおは、ぼんやりと声のする方を見やりました。
と、つりかわの下に並ぶ背中の間をすり抜けて、一匹の魚がヒラヒラと、宙を泳いで来るのです。暗い中で、ひときわ光を集める銀の魚が、
「切符拝見。」
と、ひらぺったい声でくり返しながら、泳いでまわっているのです。
たけおは目をしばたかせました。
よく見ますと、魚は宙を泳いでいるのではありませんでした。それというのも、両の腹ビレの間から、人の首が突き出ていて、その下には車掌の制服に包まれた体がくっついていたのです。車掌の制服が紺色で、暗がりの中ではよく見えなかった為に、魚が宙を泳いでいるように見えたのです。本当は、頭が魚で体が人の姿をした車掌が、改札にまわっているのでした。
たけおは、前にどこかで、頭が魚の車掌の話を聞いたことがある気がしましたが、本物を目にするのは全くの初めてでした。
魚の車掌に
「切符拝見。」
と声をかけられた人は、手の中に収まった何かをちらりと見せています。切符に違いありません。ところが、たけおときたら、自分が切符を持っていたかどうかも思い出せないのです。切符がどんなものか覗こうとしても、みんなとてもさりげなく、車掌だけに見せるものだから、ちっともうまくいきません。
そうするうちにも、魚頭の車掌はたけおの席に近付いて来ます。急いでポケットの中を探ると、ラムネ色のビー玉が出て来ました。
ちょっと手の中で転がして見ます。すると、前に誰かから聞いた、ある話を思い出しました。陸に住む動物が口にビー玉をくわえると、氷の中でも息をすることが出来るという話です。
もしその話が本当なら、その反対はどうなるのでしょう。魚みたいに水の中の生き物が息を吸ったり吐いたり出来るのでしょうか。
そんなことをぼんやりと考えているうちに、とうとう魚頭の車掌が目の前に立ちました。口には、ビー玉みたいなものをくわえています!
「切符拝見。」
「僕、持ってません。」
たけおは言いました。車掌は後ろ側で手を組んで小首を傾げます。たけおの前から動く気配はありません。
どうにもならず、ビー玉を差し出しますと、車掌はしばらくそれを見つめてから、白い手袋をはめた手でつまみ上げました。そしておもむろに、そのビー玉を口の中に放り込みました。
魚の口には既に別のビー玉は、魚の口から出て来てしまいそうです。そこで、車掌が腹ビレをピクピクさせながら口をパクパク動かしますと、たけおのビー玉も、うまく口の中に収まりました。
次に、魚の目玉のうち、片方の黒目だけが、ブルブルと揺れ始めました。涙らしいものがにじみ出て来ているのです。
やがて、涙が一粒の雫となり、小さな音をたてて、目からこぼれ落ちました。涙の音は細く、涼やかに尾をひいて、たけおのひたいや髪の毛に染み込みました。音のすっかり消えるまでに、雫はすっかり固まって、たけおのてのひらに落ちました。スベスベ丸くて銀色で、まるで、ビー玉のようです。
魚頭の車掌は、新しい玉を確かめると、くるりと向きを変え、
「キップハイケーン。」
とつぶやきながら、行ってしまいました。
たけおは雫のビー玉を眺めました。
それは人肌程に温かく、ほんのりと輝いています。中に浮んだ泡粒がゆっくりと動いて、様々な模様をなしています。
そのうち、その泡模様が凝り固まって、何かの影をつくりだしました。
ビー玉の中で、ぼんやりと丸い固まりがふくれあがっていきます。形が整うにつれ、その丸いものは、つやつやと光りだします。ビー玉の中に映っているのは、やっぱりビー玉なのでした。ビー玉の中のビー玉は、やっぱり誰かのてのひらの上にのかっています。
ただ、ビー玉の中のビー玉を乗せたてのひらは、たけおのものではないようです。
「それは素晴らしいですね。」
耳元の声にびくっとなって振り向くと、隣りに座ったおじさんが、ひたいを寄せて、たけおのビー玉に見入っていました。先程までは、息をしているかどうかも分からないくらいにひっそりと座っていたはずなのに、ゾックリ目を剥いてビー玉を見つめています。
突然、電車が軽く一揺れして、乗客の体がみんな一緒に少し前にのめりました。
スピードが段々ゆっくりになり、ガタゴトいう音も段々低くなります。外を流れていた電線の波も、そのうちどこかへ遠ざかって見えなくなりました。駅に着いたのです。
電車が止まりました。モーターの音や車輪のきしむ音もすっかり治まり、シューッと扉が開くと、辺りがいっそう静まり返ります。幾人かが席を立って、電車を降りて行きます。棚から荷物を降ろしたり、上着を着込んだり、あちらこちらでごそごそやっています。
電車を降りた人達の姿が窓から見えます。人々は電車を降りるとすぐ、手に握られたものを宙に放っています。ビー玉です。魚頭の車掌にそっと見せていた切符のビー玉を放っているのです。
次々と放られていくビー玉の切符がシャボン玉のように幾つも浮んで揺れています。色とりどりのビー玉は、ふわふわと宙を漂いながら、少しずつ、色も光も失っていくようです。
「どうして捨ててしまうんだろう。」
たけおは小さくつぶやきました。
「決まってるんだろう。」
おじさんが言いました。
「みんながあれを捨てずに持ち帰ってしまったらどうなると思うね。」
ビー玉を捨てないとどうなってしまうのか、たけおには見当も付きません。
おじさんは、
「君、海が一滴残らず無くなってしまってもいいのかね。」
と言って、コンコンとせき込みました。けれども、本当は、それはせきではなく、笑っているらしいのでした。
ビー玉を捨ててしまった人達は、ある人はゆっくりと、ある人は足早に電車から離れて、どこへともなく消えていきます。後には、シャボンのように漂うビー玉が残されるばかり。見れば外はどこもかしこもビー玉だらけです。遠くに目を凝らせば、数はどんどん多くなり、月の無い星空よろしく、ぎっしりとビー玉で埋め尽くされています。
「その点、こいつは素晴らしい。」
おじさんは、外の景色よりも、たけおのビー玉が気になるようです。
「君、それは電車に乗る前から持っていたのかい。」
おじさんは鼻の頭がくっつきそうな程、たけおのビー玉に顔を近付けています。
「いえ、別のと取り替えたんです。」
たけおはそう答えましたが、おじさんの耳には入っていないようでした。
おじさんの両目にたけおのビー玉が映ります。それから、目玉の中に映ったビー玉の中に、ビー玉の中のビー玉も映りだしました。
たけおはなんだか急に、とても恥ずかしくなって、ビー玉をぎゅっと握り込んで隠しました。
おじさんは、しばらくの間、もの欲しそうに、ビー玉の握られたこぶしを見つめていましたが、やがてあきらめてしまったようでした。
辺りは静けさに包まれたままです。向いの杖のおじいさんのいびきが、かすかに聞こえてきます。たけおがいすに座りなおしただけでも、もぞもぞいう音が大きく響く程です。電車と一緒に何もかも止まってしまったかのようです。隣りのおじさんも、再び腕組みに下を向いて、さっぱり動きません。
握りしめていた手をそっと開けると、ビー玉は相変わらずほんのり光って内側にもう一つのビー玉を浮かべています。