Nature of the Beast - 1995 - Brief History of Llamasoft

1995年のニュースレターから略歴を翻訳

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Llamasoftの略歴

 Llamasoftの奇妙でふさふさな世界と、Llamasoftのソフトウェアを作り上げた風変わりで動物が好きなYakという生き物の物語。LlamasoftとJaguarのつながりができるところまで。

有史以前

 昔々、遠いところで、時間軸のドップラー効果によって、ランダムな出来事が起こった…

ベージングストークのシックスフォームカレッジで、本当にラマが好きなことを心に隠した数学・物理専攻の学生が、間違った部屋に迷い込んだ。 そこには小さいキーボード付きでテレビがその上にくっついたような奇妙な機械があった。 それはPETと呼ばれるものだったが、ふさふさではまったくなかった。 その機械の前の青年は、ビデオゲームのようなものを遊んでいるようだった。

その学生はこうたずねた。「そのゲーム、どこで手に入れたの?」

答えはこうだった。「ん、自分で打ち込んだんだ。」

その学生の人生はまったく変わってしまった。

ラマの耐えきれないほどのソフトさ

 1982年に、サードパーティにZX81の単純なゲームを売っては利用され食い物にされるという数年の繰り返しの後、YakはLlamasoftを作り上げた。 この名前は特に合っているものだった。Yakはいろいろな動物が好きだったがその中でラマが一番のお気に入りで、会社はソフトウェアを売るためのもので、そして、ラマは本当にソフトだったからだ。

Llamasoftの最初の製品はVic-20向けの「Defender」のようなものだった。 プレイヤーは人間ではなく小さいラマを守るというものだったので、地理的に正しくAndes Attackという名前になった。 この生まれたばかりの会社はコンピュータ雑誌の告知欄に小さい広告をだして、ゲームを少量売ろうとした。ロンドンのコモドールコンピュータショーで小さい机を借りた。大きい金属製のラックにウェールズ語の拡張付きVic-20をおいて、あまりよくないポータブルカラーテレビ、そしてゲーム100部を持ってYakはショーの最初の木曜日から参加した。 Vicを起動し、ジョイスティックをつなぎながら、自分のゲームが一本でも売れるんだろうか、とYakは思った。

そこで起こったのは脳みそにいつもはいっぱい詰まっているふわふわのラマと山羊のビジョンを追い出してしまうような驚きだった。

  • ゲームは初日に全部売れてしまった
  • スーツを着た礼儀正しいアメリカの紳士がやってきて、アメリカでこのゲームを売りたいという話をしてきた

そしてゲームはROMに転送され、そのアメリカの紳士の会社、Human Engineered SoftwareからAggressorという名前でリリースされた。 ラマは、悲しいことに、取り除かれてしまった。 そのゲームは少しは売れたけれど、素晴らしい売り上げというわけではなかった。 それでもちょっと収入があったことに感謝したYakはさらに数個のゲームを作った。 今ではLlamasoftはもっと大きな広告を出す余裕ができて、イギリスではさらにゲームを売れるようになってきた。 Yakはあるゲームを一週間で作り上げた。月曜の朝にはじめて、日曜の午後には完成させて、落ち着いて「宇宙空母ギャラクティカ」を見る余裕があった。 コンピュータクラブの仲間もこのゲームをかなり気に入ったようだった。 センチピードにもちょっと似ていたが、もっとハードな切り口だった。 YakはそのゲームをアメリカのHESに送った。

またYakは驚くことになった。

気分が悪くならないのなら想像してみてほしい。とても人懐っこい偶蹄目の楽しい夢をみて、穏やかにひくひくとレム睡眠を取っているYakを。 電話が鳴ったのは朝の4時で、消え行くラクダ達の幻影を追いかけつつ、Yakは混乱しながら電話に出た。 Yakはちょっと怒っていた。Yakはお昼ごろにベッドから出るのが好きな、そんな獣だったからだ。 電話の一方では、衛星通信の遅れで少し不明瞭だったが、アメリカ人の声が、8時間も続けて遊んでいるゲームについて話しているようだった。 その声はYakに膨大なお金が入ってくるのを期待できると伝えていた。 困惑したYakは、メモを残して、寝床に戻った。 いつもの時間近くに目を覚ましたYakは強い紅茶をいれながら、変な夢を思い出した、何かゲームについてだったような…電話のところにいって、メモを見つけ、なんだろう、と思った。

そのゲームはアメリカのソフトウェアチャートで一位になった。 Yakは驚いた。 Yakは、やがて、膨大なお金を受け取った。 Yakは税金をごっそりとられた。 Yakはさらにゲームを作り、くたくたになって、ラマとの休日のためにペルーへと旅立った。

黄金時代

Llamasoftのゲームのアメリカでの流通は長くは続かなかった。 それから数個のゲームがリリースされてよく売れた(Gridrunnerほどではなかったとはいえ)のだが、HESは扱うゲームの種類を変えた。ビジネスと教育ソフトに進出し、Yakが作るシューティングゲームは求めなくなった。 しかしHESの新しい戦略はうまくいかず、彼らは倒産した。Llamasoftはアメリカでの流通手法を失い、アメリカではすぐにYakの名前は忘れ去られることになった。

Yakは、それでも、気にしなかった。 イギリスのコンピュータ市場は成長著しく、Llamasoftは変わったゲーム、いつも動物をテーマにしたゲームで評判になりつつあった。プレイヤーの評価は二分されていた。コモドール64に変なゲーム、Revenge of the Mutant CamelsやSheep in Spaceといった名前のゲームが出ることを単純に嫌うプレイヤーもいた。 しかし、ゲームを非常に楽しむプレイヤーもいて、彼らは忠実なLlamasoftゲームプレイヤーとしてハードコアな集団を作り上げた。 Llamasoftはある種のカルト的ファンを得て、Yakはとても楽しんでいた。 

Yakはライトシンセサイザと呼ばれるアイデアの実験を始め、ロンドンでのコンピュータショーに頻繁に現れ、フロイドを鳴らしつつ、巨大なプロジェクタスクリーンでインタラクティブなライトショーを行い、周囲に8台や9台のコモドールを並べて最新のLlamasoftのゲームをファンへと売っていた。 Yakが季刊ニュースレターThe Nature of the Beastを作り出したのもこの時期で、そのニュースレターを通じてLlamasofties(訳注:LlamasoftのファンのことをLlamasoftieと呼ぶ)に自分が作っている最新ゲーム、「他の人」による面白いゲーム、見かけた興味深いものや、よい音楽アルバム、といったいろいろを伝えていた。 この時期のクライマックスは、新しいライトシンセサイザのリリースを祝うために、ロンドンプラネタリウムをパーティで貸し切ったことだ。 ビデオとレーザーが同時に配置された。 パーティーの参加者もとてもとても楽しみ、楽しみすぎてトイレで煙を吹かすようなやりすぎた人がでたせいで、結果としてYakはこの場所を二度と借りることができなくなった。 Yakはとても幸せだった。 Yakはスキーにも行った。

こうしたことは、もちろん、続くにはあまりにもうまく行き過ぎていた。

衰退、そして…

YakはLlamasoftの成功に満足し、楽しんでいた。 しかしゲーム市場の性質は変わりつつあった。ソフト会社はより大きくなり、ビデオゲームからお金を稼ぐビジネスとして本腰をいれるようになった。 やがて、Llamasoftがゲームを流通に載せることが難しくなってきた。こうした新しい大きいソフト会社のソフトの数、そして広告費用に対抗することができなかったのだ。 最初は、Yakはそれほど不安にはならなかった。最初の数年にそれなりの資本を得ることができたからだ。Yakはウェールズへと引越し、二匹の羊と暮らし、地元のパブに遊びに行き、Atari STとコモドールAmiga向けにライトシンセサイザとゲームの開発を続けた。 ゲームのレビューにおける評価は高かったが、ゲームはなかなか流通しなくなっていった。

Llamasoftは新しい方法を試した。 直接自分たちで売るのではなく、別の会社にゲームを売ってマーケティングをやってもらうことにした。 その会社はAtari UKだった。 Yakはいくつかのゲームを作ったが、その売り上げは黄金時代に得た資金が減っていくのを防ぐほどには売れなかった。 Yakは心配するようになった。 Yakはお金を失いつつあった。

新しい方向性を模索するなか、セガのマスターシステムやファミコンといった家庭用ゲーム機の成功から影響をうけて、Yakは新しくすばらしいゲーム機の市場に乗り込みたいと思った。 ウェールズのKonixという会社は、ケンブリッジのデザイナーFlareによる革新的なデザインの新しいゲーム機を開発していた。 Yakはそのゲーム機にAttack of the Mutant Camels '89を開発した。7ヶ月と5000ポンドを投資した。 Konixの資金は尽き、市場に出る前にそのゲーム機は力尽きた。

Yakは不安になった。

Atari UKは、ケンブリッジのデザイナーFlare][による革新的なデザインのPantherというゲーム機を作っているとアナウンスした。 Yakはゲームの開発をはじめた。 2ヵ月後Atariの内部で何かが起こって、Pantherの開発は中止された。

Yakは不安な一文無しになった。

回復

YakはLlamasoftが廃業の危機にあると気が付いた。 最新のAtari ST向けゲームLlamatronはいい感じに出来上がっていた。今までのゲームの中でも一番という感触があった。 しかしどんなにゲームの出来がよくても、大手に魂を売り渡さなければゲームを流通に載せることが不可能だということにやりきれなくなったYakは、新しく、イギリスにおいてはまだ試されていないソフトウェア流通方法を使ってみることにした。 シェアウェアだ。 ゲームをばら撒く。 通常の4分の1ほどの値段を対価として要求して、もし払ってくれる人がいたら、追加のゲームをさらに渡す。

Yakは驚いた。

このゲームはとてもうまくいった。 Atari STの持ち主達は大挙して対価を支払ってくれた。Vic-20時代に比べたらちっぽけな収入とはいえ、Llamasoftのラクダ類リーダーを水面の上に押し上げ、世界で一番かわいい羊のFlossieにダイジェスティブビスケットをあげるのには十分だった。 Yakはさらにシェアウェアを書き、紅茶をたくさん飲み、世界で一番かわいい羊のFlossieを撫で、そして今回はアメリカのAtariがやってきて、新しい68030コンピュータのAtari Falconのためにゲームを開発することになった。 ここではラマを中心にしたゲームを開発することを許された。このゲームLlamazapは、ラクダ、羊、牛、山羊、そしてもちろんラマでいっぱいだった。 Yakは自分のスタイルでゲームを作っていいと自由を与えてくれたことを感謝し、Atariとの仕事を楽しんだ。 そして、ある日、YakはケンブリッジのエンジニアFlare][によってデザインされたAtariの革新的な新しいゲーム機の話を聞くことになる。 明らかにこのゲーム機がPantherが中止された理由で、Pantherよりはるかによいものだった。 そしてYakはサニーベールで試作機の前に座ることになる。

Yakはイメージワーププログラムを書いてみた。

Yakはリアルタイムループにそのプログラムをいれて、どのくらい早く実行されるか試してみた。

Yakは驚いた。

Yakは恋に落ちた。

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