森まゆみ「走るひとり親」 学陽文庫 1999年
森まゆみは、タウン誌『谷中・根津・千駄木』の編集人であり、『鴎外の坂』や『明治快女伝」などの著者である。森は決して華やかな「キャリアウーマン」ではない。確かに勉強中の身の上の夫と結婚し、家事・育児のかたわら翻訳や校正などでずっと家計を支えてきたので、夫に扶養されていたわけではない。しかし「三歳神話」を信じ、平塚らいてうの子育てを支えに、部屋の片隅に“はいはい”する子どもを連れて行ってはその合間に原稿を書いていたというから、明治の思想家のむこうをはった育児体験をした「主婦」であったといえるだろう。仕事が本格化するにつれて「小指の先だけで子育をする」感覚で締め切りをこなす。しかしポイント、ポイントでは徹底的につきあう覚悟のある子育てでもある。子どもの世界がよくわかる人だなあ、と感心する。歯科医を開業している彼女の母親は一方でよく子どもと遊んだというから、二世代にわたるこういった生活ぶりは、自然に身についたものだったのかもしれない。小学生も保育園児もだんだん自立していくのだが、やはり親も子どもも必死で生活をこなしていてなかなか読み応えがある。
このあたり、森の子育てと仕事と自立への奮闘ぶりは、少し上の世代の久田恵の状況にも似ている。(『母親が仕事を持つとき』学陽書房女性文庫1996年)久田は大学紛争の最中に大学を中退・家出・同棲という経歴の持ち主である。孤軍奮闘の久田は迷いながらも一歳の息子を保育園に預け、さらに誰かに延長保育を頼んで仕事をやりくりしていた。それだけに、子どものいる世界と仕事の世界の差や、仕事をしたい人間が子どもを持つこと、そのとき、女性だけが悩まなくてはならない状況を書いた。しかし久田の提起した課題は今もなお続いている。11/7の朝日新聞によれば、大学の中で結婚した女性医師には仕事が任せられないとして、病院の勤務医にまわされるという。「旧態以前の医局の構造」との夫からの告発である。「子ども」を育てながら仕事をすることを、「旧態依然」の社会は本気でサポートする気があるのだろうか?
さて森は、仕事のかたわら、仲間の「主婦」二人とタウン誌をはじめた。仲間も森自身もそれぞれが三人の子持ちであるから、九人の子どもは週のうち何日かはよその家で晩ご飯を食べ、母親達は交代で夜の会合や映画に出かける、という日々であった。その過程で森は「仕事を思う存分やりたい」ため結婚生活に区切りをつけた。あとで考えれば「私を疲れさせ、消耗させていたのは、家事そのものではなく、分担をめぐる葛藤と怨念だったらしい」という森。「やさしい人だった」というその夫は身の回りのことはもちろん家事の分担もかなりやっていたという。それでも「男はご都合主義に家事から逃れようとしている」と森は不満だった。どんなにススンだ男も女も刷り込まれた役割意識から自由になりきれないのかもしれない。妻と同等に育児に関わり、家事もやってきた自負のある西成彦が、妻の不在中、義母の手助けを受けるのは改善したい、と反省していたのを思い出してしまった。(『パパはごきげんななめ』集英社文庫1992年)
離婚は森にとっては決して生易しい決心ではなかったはずである。その年の夏はずっと泣いて暮らしていたというし、離婚後の生活がタウン誌では成り立つはずもなく、一時は熱海で仲居になることも考えたという。やがて本気で物書きになろうと考え、午前中だけ仲間から時間をもらい家で原稿を書く。そのあと彼女が筆一本で生活を成り立たせていくのは、ちょっとやそっとの努力ではなかったであろう。そのあたりはあまり書いてないが、関川夏央の解説から察することはできる。
なぜ女性は「子育て」や「結婚・離婚」で仕事や人生をこんなに変えなければならないのだろう?社会はなぜ能力のある女性を仕事ができないと、家事・育児に、そして孤立した「家庭」に追い込むのだろう?
私には、もともとの順番が間違っているのではないかと思える。女性も仕事をすること、仕事を続けることが当たり前になること。仕事以外の時間の確保が、もっと容易に認められることが大事だと思う。こんなとき、心理学の専門家の小沢牧子の論説が頼もしい。どんなに女性が「母親」という名に縛られているか、「三歳神話」と「幼児期と人格形成」「おかえりなさい言説」の圧力のもと無職のままでいることでその権利を侵害されているのかを説き、生まれつきの一個の人格を持った子どもにとっても、たくさんの人に囲まれて育つことが大事なのだ、という。(『子どもの権利・親の権利』紀伊国屋書店 1996年)ほんとほんと、きっとそうなんだ。
森自身、「涙が溢れている」とあとがきに書いているように、「ひとり親」になった時の痛みが印象的な『走るひとり親』だが、地域社会で仲間や家族と助け合って生きる生活、現代の消費生活から離れて生きる生活様式を身につけていた森だからこそやり抜けたのかもしれない。そして翻って、現実に夫や家族と様々な葛藤をしながら、ひとり家事・育児・仕事・市民活動と「ジャッグル」(やりくり)し、やり抜いている人達のしんどさを考えてしまう私である。男性も女性もなく誰もが仕事ができるようにしていくこと、人がみな仕事以外の人生を見直す時間を持てること、そして人が生活を見直すこと、人とのつながりを取り戻すこと、時代はこうした流れの中できっと変わっていくだろう、変わっていってほしいと願うのみである。
でるくい5号 2001年