■ある夏、とある水族館で、若い男の子が彼女に炭酸飲料の缶を「はいっ」と手渡している。「ありがとう!」って受け取った彼女が缶を開けると、中から炭酸が吹き出して「わっ!これ振ったでしょお〜っ!!」と彼女。
あれ?この光景どっかで見たような・・。そうそう、当時人気のあったTV番組でキムタクが山口智子にアドリブでやったあのシーンだ!
■イメージを演じることで幸せな「ロングバケーション」が続けば平和で結構。しかし、よく考えてみると、こういうイメージを実行したいがための行動パターンって、案外多いのかもしれない。もとはといえば、幼児が読み聞かせてもらう童話、中学・高校で読んだ恋愛小説、日々の映画や歌詞からいろいろなイメージを学習している私たち。この世の中の「男」と「女」のイメージは、こうして学習され実行に移されているのかもしれないと思った出来事だった。
■この2月学習会の一環としてポルノビデオを見る機会があった。話には聞いていたけれどあまりに現実は慣れした女性像。女性をなんだと思っているんだろ?そうか、こういう文化パターンが男性文化の中には存在するんだ、と納得。この日以来、私にも少し世の中が違ってみえてきた。そういえば先日みかけた男性、プールに潜り水着女性をひたすら見続けていたあの人の頭の中にはこういうイメージがあったのかな?すぐに話が堕ちる、身近なあの男性も、女性といえばイコール性的な対象というイメージなのかな?などとつい考えてしまう。
■蔦森樹の「男でもなく、女でもなく」(勁草書房)は、まさにセクシャリテイとイメージの話である。蔦森樹は、思春期の男の子の性のエネルギーは、その成長過程で「男が求めたとおりに女がセックスする」ポルノの物語の学習にすり替わっていく、と述べている。ポルノでは、セックスの主体は「男」の側にあり「男」が「女」の快楽の意味付けをする世界である。こういった学習の成果で日常女性が化粧をするのも、男性に見せるためだと信じていたという。そして、電車の吊広告の女性にも条件反射的に発情してきたと告白している。
■しかし、このような性の二分化とヒエラルキーの学習についていえば、ロマンチックラブの愛読者の少女とポルノで学習中のエロ少年は、どちらもポルノの物語にとらわれていて、それはそのまま大人の姿なのだ、という。これには全く同感。蔦森流にいえば、ロマンチックラブの物語は感情という前戯がえんえんと長いだけで、欲望の主体としての男、客体としての女は変わらない、のである。
■3月私たち「でるくい」と「リテラしい人々」が共催した会『「性の自己決定」ってなんやねん?』にはセックスワーカーやその利用者も参加して下さっていて、その発言を聞くことができた。しかし、そこには(たとえ「男」と「男」であっても)「お金」と「力」の上下関係で相手を支配したい「男」の存在、それが大前提にあるような気がする。ここで売買されているものは、「男」が主体というイメージ、これに応えるサービスでしかない。
■3月の発言ではじめて知ったのだが、優しくされたい、人とコミュニケーションしたいがために、買春をする若い男性が実在するということ。人の性的嗜好にはいろいろなパターンがあること。そうしてみると、蔦森樹のように「抱かれたい」願望の男もかなりの割合を占めるのかもしれない。「男」も「女」もなく、人はそれぞれその両方を内包している存在だ、という蔦森の訴えには、かなり共感する私だが、180cmの長身で、力も強い蔦森に、女性が感じる性暴力の怖さは理解できない気がする。『殺意を呼ぶ館』(扶桑社ミステリー)のなかでルース・レンデルは、性暴力への恐怖と怒り、女性の感じる無力感を丹念に描いている。ついこの前まで熱々だった若いカップル。でも、彼女は彼に無理矢理セックスを強いられ、はじめてその屈辱感を知る。恋愛にしても、セックスにしても、彼女の感じる現実とイメージの世界の差。ルース・レンデルが描く女性の感じる「現実」は、ポルノのあふれるこの社会の中で希少価値があると思う。
■女性の側からの愚かで苦い経験の告白、苦悩する男性からの告白、ドキッとさせられるそんな作品の数々がもっと世に出てきて欲しい。「男」も「女」も今までとは違うパターンやイメージをつくっていくこと、これでもOKという男女のイメージが錯綜することでしか、前にすすめないような気がする。
でるくい 3号 2000年 初夏