地元では、天神様(てんじんさま)の方が、聞き覚えがあります。
菅原道真公の祠(ほこら)の 場所は、観音寺の西方向100mくらいのところ。逆井冨士浅間神社から観音寺を左に見ながら県道を西方向に向かうと信号のある交差点があります。その交差点を南に坂道を少し上ると右側に赤い鳥居が見えます。石段を上ると小さな祠が鳥居の奥に鎮座しています。
合格・学業成就の祈願をしてはいかが。
どちらにしようか迷った時に、「神様の言う通り・天神様の言う通り」と言ったのは遠い昔?
柏市史によると、創設「宝暦十三年(1763)」
赤い鳥居は、倒壊して現在はありません
逆井天満宮の祠内には、菅原道真公の石像が鎮座
柏市史では「菅原道真神社」となっています。
現在は、天神講の活動はしておりません。
敷地内、右には「待道大権現」寛政十二年(1800)庚申十一月吉日が、安置されています
令和4年2月 道真公に見える位置に絵馬掛所・のぼりを設置
令和4年2月 県道沿いにも「のぼり」を設置
浅間神社の東を走る県道(白井流山線)沿いに弁才天の祠がある。「俗ニ弁天様 厳島神社」 という稚拙な標札がかかげられている。
水はないが、その名残の堀に囲まれ、相応の樹木もあ ってまあまあの風情である。
中を覗くと(その前にお賽銭を あげて)、「辨財天」と刻まれた石碑がこちらをにらんでいる。
辨は弁の本字、昔は辨説も辨当も辨を使った。だから弁才天も辨財天が正解。ならば才の代 わりに財とはなにゆえか。
弁才天は、もともとは古代インド神話の3大女神の1つ。サラスヴァティ河を神格化した土 地の豊饒をもたらす河神、それが日本に入り、佛敵をつぶす護法神となり、学芸、福徳の神と なり、さらに富貴の功徳が加えられ、庶民層に信仰が拡大した。
かくて、弁才天は弁財天(す なわち辨財天)に移行した。
われらが弁天様は、池に鯉などたくさんいたが、太平洋戦争のとき、裏山の樹を切り出した ため、水が出なくなったという記録が残されている。
水は枯れたが名残の堀に囲まれ、インド の河神だった、かすかな面影はあるような。
柏市のふるさと散歩道・デーダラボッチコースに組み込まれています。
2022年秋、手摺りが、補強されました。
3本の川が集まり、こんこんとわく湧水が3、4メートルの下に流れ落ちる。それが田んぼをうるおし、日照りの夏は藤心まで利用された。南部小の裏門を出て新逆井の新栄町会に水源の不動様がある。その荒れ果てた堂が、あふれるばかりの水源地だといわれても、にわかには信じられない。
米作りが、まだ盛んだった時代、なぜ水源を埋めてしまったのか。9人の農家で保有していたが、埋めることに会長ら3役が単独で市にOKを出してしまった。憤慨する者もあったが後の祭りだったという。
もっとも昭和40年代には近辺の宅地化がすすみ、汚水が流れ込み、小学校などが出来るので仕方がない事情もあったらしい。
また、裏の道を広げるために1メートルほど前に移動したというから、不動様には迷惑なことだったに違いない。現在は逆井南公園となっているけれど、堂の建て付けも不安な感じで、だいいち堂をもり立てる人間がいないのだ。かつての農家には見離され、新栄町会でも手を出さない。いや手を出せないのが実情らしい。
以前は堂はしまっていたのに、最近では開けっぱなし、風雨は飛び込むだろうし、不動様の尊厳さは、まさに風前の灯の如し。
写真の左側の背の高いのが不動尊、浮き彫り、背中の炎にわずかに赤色が残っている。それでも、信仰厚い篤志家がいるのか、ときには蝋燭があがり、菓子の供物も散見される。かたわらにはしだれ桜の若木が4月には見事に咲き、不動尊を慰めていた。
明王は平安初期に密教と共に日本に入ってきた。代表が不動明王。元来は大日如来の使命を受けて業の深い人間を救う仏だが、造形はインドのヒンズー教で、奴隷の姿をしている。
上唇を噛み、右手には剣、左手にはけんさくと呼ばれる縄を持ち、背中には焔光という炎を背負う。右手の剣で悪を断ち切り、縄で縛り上げ、それらの悪を炎で焼き尽くして衆生を善に向かわせる。しかし、衆生は煩悩にまぶされ分かってくれない。そこで憤怒の形相をとっている。
関東には高幡不動、成田不動など不動尊が多い。
※今は、逆井地元の住民で、見守っています。
秋には、すぐ脇のイチョウの木がキレイに黄葉します
公園部分は、柏市にてキレイに整備されています(感謝)
2022年秋、不動堂周辺は、サッパリ
2022年秋、銀杏の枝がバッサリ(近隣住民の要望との事で)
2024年4月 神幕を交換しました
同日、「辻切」を掛ける「竹筒」を、お堂後方の塀際に打ち込みました
同日確認、銀杏の木が、根元からバッサリ!
残念