留辺蘂神社大神の息吹がみなぎる
小高き丘に拓けた御神域
境内の正面出入口から、平坦な砂利道となっている参道を暫く歩くと一之鳥居があり、その鳥居を潜ると、直ぐに84段の長い階段があります。その階段を登り切った高台に二之鳥居があり、社殿・末社・神輿殿・手水舎・各種の石碑・社務所など神社主要施設の多くは、その二之鳥居の先にあります。
以下では、一之鳥居から社殿へと進む順に従って、参道上もしくは参道沿いにある、一之鳥居から社殿までの各施設を紹介し、社殿より後の項は、参道から少し離れた所にある各施設を順不同で紹介致します。
鳥居は、神域である神社境内の入口を示す “門” に当たり、神域と俗界を分ける結界の役割を持っております。
当神社にはふたつの鳥居が設けられており、表参道の、正面出入口側(手前側)に位置するのが、第1鳥居に当たる「一之鳥居」です。現在の一之鳥居は、御社殿御造営(社殿の建て替え)に合せて平成16年に旧鳥居を改築・補強したものです。
表参道のほぼ中央区間(一之鳥居と二之鳥居の間)に位置する、全84段のコンクリート製階段で、階段の途中には3か所の踊り場があります。
最初のコンクリート製階段は昭和10年に建設されましたが、老朽化のため、御社殿御造営に合せて平成16年に全面的に造り替えられました。
表参道の、社殿側(奥側)に位置する第2鳥居です。参道の階段を登り切った直後に潜る鳥居です。
ちなみに鳥居の語源は、「通り入る」が訛ったものであるとする説や、古事記に由来する説(天照大御神が天石屋戸にお隠れになった際に、八百万の神々は鳥を木にとまらせて鳴かせ、天照大御神のお出ましを願ったのですが、この時の鳥のとまり木が鳥居の起源であるとする説)、外国からの渡来説などがあります。
狛犬は、邪気を祓い神前守護の意味を持つとされており、犬とはいっても、例外はあるものの一般には実際の動物の犬ではなく獅子を模った像であり、当神社の狛犬もその原則に倣っています。狛犬の起源はエジプトやインドとされていて、シルクロードを通って中国から朝鮮半島の高麗(コマ)を経て日本に伝わったため、外来の犬という意味で「高麗犬(コマイヌ)」と称されるようになりました。
当神社の参道を挟んで二対設置されている狛犬のうちの一対である、この「一之狛犬」(参道出入口から見て手前側の狛犬)は、建立された時期は不明ですが、狛犬土台に刻字されている情報によると野村興産イトムカ鉱業所(かつて日本一の生産量を誇った自然水銀鉱山で、閉山後の現在は国内唯一の水銀含有廃棄物の処理・リサイクル工場)が当神社に奉納された狛犬で、昭和49年に現在地に移設されたようです。
地面に接地されている手水鉢を上から覆うように、4本の角柱で三角屋根と天井を支えている、壁の無い殿舎です。「テミズヤ」もしくは「チョウズヤ」とも読みます。
当神社への参拝者が参拝に先立って手水を行なう施設であり、平成16年10月からは流水の元栓が閉められ長らく使用不可となっておりましたが、令和6年5月より、約20年ぶりに使用可能状態に復されました。但し冬期は、凍結による管破裂防止のため使用不可となります。
春・夏・秋については、原則として毎日利用可能ですが、主に野生動物対策のため、早朝や夜間は手水鉢全体を蓋で覆います。そのため、実質的に手水を利用出来る時間は、午前9時から午後5時までの間となりますので御了承下さい。
当神社の参道を挟んで二対設置されている狛犬のうちの一対である、この「二之狛犬」(参道出入口から見て奥側の狛犬)は、体高が65㎝であるのに対して前後が70㎝という、横に長い印象を呈しており、類似する狛犬がほぼ全く見当たらない極めて特徴的な構え姿の狛犬です。
狛犬の土台に刻字されている情報によると、当神社創建の翌年である大正8年に奉納された狛犬で、オホーツク地方(網走・北見・紋別地方)で最初に造られた、当地域に於ける最古の狛犬であろうと推測されています。
社殿に向かって、社殿の右隣に位置する殿舎です。秋まつりの神輿渡御(ミコシトギョ)で使用される御神輿(オミコシ)や、その関係の祭具・道具等が収納されています。
平成16年に社殿が建て替えられた際、その工事期間中は御神体をお迎えして仮殿(臨時の本殿)となりました。
神社の中心施設で「神殿」ともいいます。現在の社殿は、老朽化した旧社殿を解体した上で同地に平成16年に再建されたもので、建築様式は神明造(しんめいづくり)です。
社殿の最奥部に位置し御祭神が鎮まる「本殿」、その手前に位置し祭典に参列する人々が着席等する「拝殿」、本殿と拝殿の間に位置し両殿を連絡する「幣殿」、これら3棟が連なって「社殿」として事質一体化した殿舎となっています。
本殿内は、外陣(手前側)と内陣(奥側)に分かれており、御祭神の鎮まる内陣は更に3座に分かれています。
留辺蘂神社よりも古い起源を持つ、境内末社です。社殿に向かって、社殿の左隣に位置する小祠で、聖徳太子を御祭神としてお祀りしております。この小祠の手前には、聖徳太子神社専用の鳥居や手水鉢も設置されています(但し聖徳太子神社の手水鉢は使用不可です)。
なお、当神社には聖徳太子神社以外の摂末社はありません。
聖徳太子の御神徳を讃仰するため、昭和57年、松谷建設株式会社、まるい建設株式会社、興新建設株式会社、株式会社工藤組、株式会社井上工務所、光井組株式会社、留辺蘂建設株式会社、株式会社西川工務店、株式会社研工舎の9社が当時加盟していた留辺蘂建設業協会により、聖徳太子神社鳥居の隣に建立された石板です。
留辺蘂神社発祥の地(聖徳太子神社鳥居の直ぐ先)に建つ石碑です。明治天皇崩御に対しての哀悼の遙拝碑として、大正元年に現在の社務所裏に建立され、昭和11年に、現在地(聖徳太子神社の隣)に再建されたと伝わっております。
昭和3年に昭和天皇の御大典(即位の礼)が執り行なわれた事を奉祝して、同年建立された石碑です。
昭和天皇御大典記念として、中野菊松・池田善太朗などにより昭和3年に建立された、五角柱の石碑です。側面の五面には、それぞれ天照大御神、大己貴大神、稲倉魂大神、埴安姫大神、少名彦那大神の御神名が刻字されています。
北海道厚経木開発60周年に当って樹霊に対して感謝の意を表するため、全国経木折箱連合植樹会・北海道厚経木協同組合・全国厚経木問屋組合・全国折箱連合会によって昭和41年に建立された石碑です。碑文は農林大臣 坂田英一が揮毫。
日清戦争及び日露戦争で戦病没した軍人軍属の英霊を顕彰するため、土田権作、五十嵐忠四郎、吉久久蔵、中田利三郎、佐藤清五郎、尾形直正の6名が発起人となって大正9年に建立を図り、翌年に着工・竣工された忠魂碑です。
碑文は陸軍少将 富塚貞一郎が揮毫し、昭和25年には玉垣の造営が行なわれました。
英霊にこたえる会留辺蘂支部(会長 松谷貢)、留辺蘂町遺族会(会長 光井文雄)、留辺蘂町建設業協会の3団体が建立発起人となって、忠魂碑と同じ基礎(土台)の上に平成7年に建立した石板です。
運材のため営林署が運営していた温根湯森林鉄道で発生した列車の衝突事故により殉職された人々を慰霊するため、昭和15年に営林署総合工場前に建立された慰霊碑です。
昭和30年に留辺蘂神社の境内(留辺蘂神社本殿と聖徳太子神社の間)に移設され、平成14年には更に現在地(忠魂碑の隣)へ移設されました。
留辺蘂神社初代宮司 荒木万太郎の顕彰碑です。留辺蘂神社で神職として二十有余年奉仕し、生涯独身を通し宮司退任後は亡くなるまで高齢者施設で過した、初代宮司の不遇であった晩年を哀れんで、初代宮司死去翌年の昭和39年、第2代宮司や当時の責任役員達が相諮り発起人となって建立しました。
昭和37年に建てられた、神社の事務所です。
授与所(おふだやお守りなどの授与品を参拝者に授与する殿舎)、祖霊殿(神徒会会員の御先祖様をお祀りし霊祭を執り行なう殿舎)、職舎なども兼ねている建物で、留辺蘂神社護持会、留辺蘂神社神徒会それぞれの事務局も、こちらに置かれています。
当神社には、歩行者専用道である砂利道の表参道とは別に、社務所の直ぐ前まで続いている車道(所謂 裏参道)があり、この駐車場はその車道の行き当たりにあります。御参拝の方は御自由にお使い下さい。
▲ 初夏の社殿・茅の輪・手水舎・参道など
▲ 冬季の社殿・手水舎・参道・二之鳥居など
留辺蘂神社 公式ホームページ
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