薄い朝もやの中、トランクを一つ持ち波止場で船を待つ男は、よほど海が好きなのか飽きずに眺めている。
時々、そばを歩く漁師たちが、彼を見つけると頭を下げたり、恭しく礼を言ったりする。
その誰にも彼は笑顔を向け、海の向こうにある杯島に帰るんだと自慢した。その態度がまるで子供で、話しかける人々は笑顔になって彼を見上げる。
誰もが彼を尊敬しているようだった。
しばらくすると、漁船が一艘こちらへ向けてやってくる。船に取り付けた石油の発電機 は、彼が都合したものだ。
この島ではまだそれほど普及していないが、やがて前代これを取り付けることができるだろう。
船が接岸され、運転していた老人が帽子をとって会釈する。
「お帰りなさいませ、月船様」
アラタの父親である月船ヤカイはそれに頷き返すと、船へ近づいた。
「おおっと」
ヤカイが、船に乗ろうとした時に足元を毛玉のようなものが、素早く通り過ぎた。
「あっ、こいつ!」
船の運転手の老人が銛をもって走り出すが、そのころには陸に飛び降りてだんだんと離れていく。
それは青色の猫だった。
「くそっ、いつの間に乗り込んでいやがったんだ……」
「あの島は素敵なところなのに、きっとちょっと旅行にでも行きたくなったのかな」
悪態をつく老人とは裏腹に、ヤカイは面白そうにそれを眺めていた。
「ま、俺はその旅行の帰りだがな。行ってくれ」
船に乗り込んだ彼が、老人に促すとすぐに船は陸を離れた。
久々の故郷への帰還だった。
♦♦♦♦♦
港を過ぎると賑やかな魚市場がある、海辺の町は活気があって居心地が良さそうだ。
旨そうな魚のにおいが充満するエリアにグルると腹が鳴ったが、すぐに振り切って走り出す。
青猫は街を突っ切ると山間のけもの道に入った。
山の中に入ると青猫は加速する。人に見られることがないとわかって、本来の力を発揮した。
木と木の間を減速することなく飛び跳ねて進んでいく。それははたから見れば幽鬼のようだった。
あっという間に頂上にやってくる。
この山は何という名前だったか、クマが出るらしくマタギが徘徊する場でもある。
猫は人に見られぬようここからは警戒して、山沿いを歩いていく。
やがて、けもの道は人の匂いの沁みついた山道になった。
崖沿いに立つと太陽が昇り朝焼けが広がり、山の向こう側の大きな森が見えた。
森の中からは朝餉の湯気がいくつか立ち上っている。
小さな集落だった。
青猫は、ふうと一息つくとその集落へ向けて飛んで行った。
集落へ入ると木材の匂いがあたりを漂う。
このあたりは狩猟と林業で生計を立てている人も多い。
朝の支度をするまばらな人を通り過ぎていくと大きな湖がみえてきた。
そのほとりに、小さな社が見える。それが青猫の目的地だ。
まだ作られたばかり新しいこの社は集落の住人が建ててくれた。この集落の信仰の象徴になっている。
鳥居をくぐり石畳を歩いて、その社の入り口に近づいた。
そんな折、ふいに声をかけられた。
「帰ったか」
ネコはゆっくりと首を向ける。
そこには誰もいなかったが、視線を向けたとたん空間に煙が浮かんだ。
その煙はやがて具現化し一匹のけものの姿に変わる。
「ああ、狗か」
狗と呼ばれたそれは、獣にしては人の背丈ほどの大柄の狼だった。
鋭い眼光が青猫を睨みつけている様は、さながらヘビとカエルのようでもある。
だが、青猫は同時もせずつまらなそうにそのそばを通り過ぎようとする。
それを狗はさえぎる。青猫はむっとした。
「どけ、暇犬。今は構ってる暇はないみぃ」
「用件だけ伺おう、己が主に伝える」
狗は威圧するように、青猫を見下ろす。鋭い牙がその喉元を狙っている。
「なんでいちいちお前を通す必要がある? 面倒くさい駄犬みぃ……どけ!」
「お前は主様に親しすぎる、威厳というのが何より大事だ」
一触即発の空気が流れたかにみえたが……。
「はん、甘露様はそんなの気にしないみぃ」
狗はその言葉を聞いて、口をあんぐり開ける。
「何が甘露様だ! あだ名か? あだ名なのか? 何お前すっごく親しくなっちゃってんの? ダメだろ主だし、尊い御方に名前つけんな!」
「アルジアルジうるさいなあ、私にとっては彼女は友達さ」
「恐れ多くも貴様ぁ!」
「うるさいみぃ、お前は最初は甘露様に歯向かっていたじゃないか」
「恥ずかしい過去だ。己は主様の強さと美しさに惚れて心を入れ替えたんだ。お前もそうしろ」
「さいですかみゃ、いいからここを通しとくれ」
気がつけばいつものくだらない会話だった。
この二匹はいつも気が合わない。
というか問題があるのは、この犬なのだが……。
「それにしても、主様は実際は長寿で本来は老婆だというのにあんなに可憐であらせられる。しかも鬼の角まで生えていてお得。これって、すごく尊い設定じゃないか?まだ誰も感じていないこの尊さは己が見つけた大発見なんだが」
「こ、こいつ。未来を生きてるみぃ…気持ち悪い」
「そんな主様を守護できる…己は果報者だなぁ」
「こいつが一番甘露様のそばにいてほしくない妖怪ですみゃ」
ネコはやれやれと首を振った。