その日、カエデはいつも通りに秘密基地に向かっていた。
今日の海は波があって、潮騒がいつも以上に耳に残る。
海の色はやけに色濃くて、そんな暗い海にカエデは違和感を感じる。
別に、こういう海だって幾度となく見てきた。
いつもの海だ。
それなのに、嫌なものを感じてしまう。
カエデはそんな雑念を振り払うように、重い足取りで岩場を下りて行った。
何もかもが、不吉の象徴に感じるのは、昨日の夢のせいだろうか?
今もアラタの叫びが、耳の奥に残っている。
漆黒の海、燃える島、波間に浮かびながらそれ見ているアラタ。
その水の冷たさを想像して、カエデは体を震わせた。
いつもなら、口うるさい青猫がそばにいるはずなのだが、今日はいなかった。
昨日の夜には、猫はカエデの部屋であくびをしていたのを覚えている。
だけど、あの悪夢から飛び起きた時には彼女はいなかった。
本当に気まぐれな猫。
ある日突然やってきて、私にだけ話しかけてきた不思議な猫。
少し話をして気を紛らわしたかったのだが……。
いつもとは違う日常。
違和感は不吉な予感。
カエデは首を振る。どうにも、今日は今日は調子が悪い。
危険な足場を降りることに集中して、何もかも振り払った。
早くアラタに会っていつも通りの会話をしよう。
そうしないと、カエデの一日は動き出さない。
「……え」
入口に乾いた血の跡を見てしまった。
岩場に点々と、赤黒く乾いた染み。
間違いなくそれは、人の血に見えた。
皮膚が泡立つのを感じながら、彼女は洞窟に急いで飛びこんだ。
中には誰もいない。
秘密基地は荒れていて、カエデは悲しくなった。
「シンタ君」
返事はない。
部屋の中心の血だまりがあるが、そこには誰もいなかった。
洞窟内には誰もいない。
「シンタ君ッ!」
カエデは半ば錯乱していた。
すぐに秘密基地を出ると、アラタの住む屋敷に駆け出して行った。
島でも唯一の屋敷である月船邸は赤いレンガに囲まれた立派なお屋敷である。
敷地も広く中にあもある邸宅は、この島の文化レベルからすれは異質だった。
最初の頃は、この屋敷に入ることに戸惑いも覚えたが、アラタの母であるカイロに呼ばれ何度も出入りするうちに、もう慣れた。
今は特に顔パスで屋敷の中に入ることができた。使用人達も、カエデはもう知っている顔なので、特に何も言わない。
カイロに挨拶をした買ったがとりあえず、アラタの部屋へ向かう。
この屋敷の中ではいつも通りの時間が流れている気配を感じて、カエデは少しほっとしていた。
アラタの部屋の戸をそっと開ける。
「……シンタ君?」
「あ、カエデ?」
ベッドの上でアラタが上体を起こしていた。
肩に包帯を巻いてはいたけれど、顔色は良く、いつものような笑みすら浮かべていた。
「ごめん、朝に秘密基地に行こうとしたんだけど母さんに止められちゃって」
「……大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと昨日、秘密基地で転んじゃったんだ」
そういってアラタは笑う。
「その時にちょっと手のひらを切っちゃって、秘密基地…あとで掃除しないとな」
あの血液量は尋常ではなかったように思えたが。
カエデはそのことを言及できなかった。
「カエデ」
「……えっ?」
「顔色悪いぞ」
「……」
アラタとこうして話していて安心できるはずなのに、どうにもカエデは気が沈んでいきそうだ。
アラタもそれに気が付いたのか、カエデの顔を覗き込んで悲しい顔を見せた。
「それをシンタ君が言う? そりゃ私だって心配したもん。は~思ったよりシンタ君が元気そうで心配して損しちゃった」
カエデは急にぱっと明るくなって、その場の空気が一変した。
いつもの日常。
その会話。
他愛ない話が続いた。
アラタは笑い、カエデもそれに合わせて笑った。
アラタの怪我は本当に大したことがなくて、今日は学校に行くつもりだったらしい。
だけど、なんだか調子の悪そうなアラタに気が付いたカイロが、身体を調べるといくつかの擦り傷や打ち身が見つかった。
明日からは学校には通ってよいと許可はもらえたけど、大事をとって今日は休みなんだそうだ。
母さんにすごい怒られたよとアラタは言って恥ずかしそうだった。
いつも通りの日常だ。
カエデはずっとその言葉を心の中で繰り返している。
何も変わらないいつも通りの日常だ。
アラタとカエデが笑いあう、窓のカーテンが揺れて少し冷たい秋風が部屋に入ってきた。
でも──
アラタの少し長い髪が、風で少し流れる。
その髪が、光に透けた。
瑠璃色に光る髪。
夢と同じ色。
アラタの髪の色は昨日とは違う、青みがかっている。
いつも見ているからわかるくらいには違う色。
けれどカエデは笑顔を崩さず、話題を変えた。
いつも通りを演じた。
でも、心の中では風が吹き荒れていた。
明日は一緒に学校に行く約束をして、カエデは屋敷を出た。
きっとうまく話せたと思う。
今日も一日アラタと話せて幸せだった。
カエデは学校へ向かう帰り道、空を見上げた。
空は曇っていて、太陽は見えなかった。
あの夢は、これから起こることだったのかもしれない。
そんな不吉な考えが頭から離れない。
カエデは自分の胸を抱きしめるように腕を組み、少しだけ足を速めた。
秋の風が、強くなっていた。