空は夜明けの準備をしているというのに、酸欠のアラタにはまだ暗すぎる。
崖際を必死になって登っていくと、朝の冷たい空気が喉に斬るような痛みを与えてくる。
心臓の鼓動はバクバクと早鐘のように打ち、目はちかちかする。
崖の上にたどり着いたとき、アラタの呼吸は乱れに乱れていた。
崖から見える薄曇りの空に少しだけ赤い色が混じる。風が強く、潮のにおいが立ち込めていた。
倒れてしまいそうな気分のまま、何もかもが現実感がないような光景に見えた。
異形はアラタを待っているかのように、崖際に浮かんでいる。
彼の片腕を体から伸びた幾本の内の一本の触手で掴み、もはや翼ともいえない青白い大きな羽を動かして浮力を生んでいた。
トウヤは必死に抵抗していたが、下を覗き込んで大人しくなってしまった。
その顔は恐怖に脅え、開いた口が震えている。
アラタはそんな二人のいる崖の先へ息を整えながら慎重に歩く。
まだ今日は始まってもいない時間帯なのにアラタはひどく疲れ切っていて、頭の中は整理できずにいる。
海猫の顔が、アラタを見た。
人間の頭がある部分のその顔はどこか滑らかな液体のようで、辛うじて人間の凹凸があるだけだった。
だがアラタを視認した瞬間、その顔が形を得たかのように変化していく。
やがて、それは人の顔と認識できるような形へと変わる。
その顔はどこか女性の物のように見えた。
その顔の口が開いて海猫は、言葉を発した。
「アラタ」
今まで聞いた、海猫の声とも違う。どこか人間味を帯びた女の子の声だった。
「コレ、いなくなってもいい?」
その言葉に、アラタは息を呑んだ。
海猫――彼女は、アラタの答えを待っていたのだ。
彼女のその顔が、人ではありえないほどの歓喜の顔へ変わっていく。
嬉しくてうれしくてたまらないという顔に、アラタはぞっとした。
アラタは友達だと思っていた海猫が、自分たちとは遠い存在なんだとここで初めて実感した。
身体が震え、一瞬、答えを探そうとした。
喉が詰まる。胸が痛む。何かが壊れそうだった。
もちろんそんなことは、させるわけにはいかない。
しかしそのたった一瞬の沈黙を──海猫は了解と汲んだ。
トウヤをつかむ触手が緩んだ。
「だめ──!」
トウヤの身体が、ゆっくりと落下していく。
アラタの脚が、砂利を蹴るよりも速く動いていた。
全身を投げ出すようにして、落下するトウヤに飛びつく。
すべてがスローモーションに見える中で、アラタはトウヤを助けるために手を伸ばす。
「……っ!」
服を掴んだ。
急激に手に重さが伝わる。
重い。まるで石のような重さだ。
トウヤと目が合うと、彼は目を丸くしていた。
トウヤの身体を渾身の力で勢いよく、崖の上へと引っ張った。
間に合った。トウヤの身体は崖際に辛うじて引っかかる。
アラタは安堵した。
ただ、その反動に自分の身体が、反発力に引かれて崖の外へ向かってしまう。
先ほど、今日一番の力を出してしまったせいか、疲れ切っているせいか。
もう全身に力が出なかった。
それで、掴んでいたトウヤの服をつかむ手が離れてしまった。
視界が回る。空と海が、上下を入れ替えながら流れていく。
風が、強い。
世界がゆっくり遠ざかっていく。
崖に突っ伏したトウヤが、すぐに振り返って手を伸ばすのが見えた。
ぐちゃぐちゃの顔で必死な彼を見るのは初めてだった。
だが届かない。
驚いた海猫もやや遅れて必死に落下するアラタに触手を伸ばしてくる。
その顔は、どこかカエデに似ているなと思った。
カエデは今、眠っているのだろうか?
海猫の触手が迫ってくるが、アラタにはそれももう届きそうもなかった。