四章からなるパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の第一章です。サマーディSamādhiとは、絶対的な瞑想、もしくは熟考される対象と完全に一体化することと定義できます。サマーディのような最終段階に一気に到達できる人はほとんどいませんので、多くの人は、段階的かつ系統的に進める必要があります。第一章では、主題に対する理論的根拠を示し、次章では到達点を見据えた実践的な方法を解説しています。
聖仙パタンジャリは、論文『ヨーガ・シャーストラ』において、まずヨーガの定義から始めます。有名な格言である「ヨーガハ チッタ ヴルッティ ニローダハ Yogaḥ chitta-vṛtti nirodhaḥ (心の作用を止滅することが、ヨーガである)」は、本章の第2詩句に出てくる格言です。第2詩句と第3詩句の格言は、ヨーガの付随的・本来的な特徴、とヨーガを達成した人の状態を示しています。第4詩句の格言は、まだヨーガに達成していない人が、心の変異と一体化する場合によく見られる状態を示しています。最初の4つの詩句(スートラsūtra)は、全経典の核心部を含んでいます。全経典の根源的な理解のための手がかりであり、主題を把握するために大前提にされるべき言葉です。
心の変異のすべては、第5~11詩句の格言が示唆する五種類に分類できます。第12〜16詩句の格言では、いかに心の変異の動乱が、厳しい実践(アビャーサabyāsa)と無執着(vairāgyaヴァイラーギャ)によって制御可能かが説明されています。上記の通り、サマーディとは結果的に生じるものです。これらの段階については、第17〜19詩句の格言で説明されます。
ヨーガの険しい道を踏破できない一般の人々の運命とはいかなるものでしょうか。至高の目標に到達する資格がないのでしょうか。聖仙パタンジャリは第20~22詩句の間でそういった疑問を呈し、ヨーギでない人々がサマーディに到達する道筋を説明します。読者は、献身が近道であることに同意するかもしれません。また、このことは第23詩句で明らかにされています!至高の主であるイーシュワラに関する紹介は、第24〜26詩句でなされます。オームマントラ(オームカーラOmkāra)の至高性は、第27〜29詩句で紹介されます。
全ての人がヨーガの道に入ろうと望んでいますが、何らかの力がそうさせないようにしているように見えます。結局、ヨーガの道を歩むこと、それは神聖な主に通じる上り階段へと我々を直接連れて行く道であり、主の祝福が絶対に必要なことです。ヨーガの道で出会う様々な障害とそれらをいかに乗り越えるかについては第30〜32詩句で紹介されます。一意専心(極度の集中)には多くの利益があるだけでなく、もっと重要なのは、それがサマーディへの基本的手段であるということです。一意専心なくして、いかにしてサマーディに到達できますか?
一意専心(エーカグラタekagrata)の実践により生じる特質については、第33詩句で説明されています。第34〜39詩句では、様々な集中の実践方法が説明されています。
以上のような根本原理すべてについて解説した後、パタンジャリはサマーディといった主題に焦点を合わせます。第40〜51詩句では、サマーディに関連した様々な論題が扱われています。
1) 序言
2) ヨーガの定義
3-4) 意識との関係における自己
5-11) マインドの揺らぎ(ヴルッテ)
12-16) ヴルッテの制御方法(アビヤサ(常修)とヴァイラーギャ(平静さ))
17-20) 霊的本質と融合する際の諸形式(サマーディ)
21-22) 霊的な修練へと関与する際の段階的変化(サーダナ)
23-29) ヨーガの主への帰依を通じた内省の達成(イシュヴァラ)
30-31) マインドの統御に対する障害
32-39) 障害を克服する特殊な手段(ダーラナ)
33) 仲間と適切に関わる方法
40) 熟練者によって実践される熟考対象の範囲
41-44) 一点集中型の瞑想により融合する際の諸形式(サマーディ)
45-49) 微細な対象の熟考と直感的な洞察力の純化
アタハ ヨーガーヌシャーサナム
意味:次に(アタハ Ataḥ)、ヨーガは以下の通りに述べられている(アヌ・シャーサナムanu śāsanaṃ)。
これは、本経典の一番初めの詩句(スートラsutra)であり、二つの単語から成ります。詩句中の「アタハAtaḥ」は、格変化がありません(アヴヤヤavyaya)。この単語からは、五つの異なる意味を取ることができます!
一番目の意味は、格変化がない言葉(アヴヤヤavyaya)から始まるこの経典(シャーストラ shastra)は、不滅(アヴヤヤavyayaとも呼ばれる)の至高の主について説明しているということです。「全能の神について言及する経典は彼に祈ることから始めるべきでないのですか?」という考えは、実は必要ありません。
Ōṃkāraścātha-śabdaśca dvāvetow braḥmaṇaḥ purā ǀ
Kaṃṭhaṃ bhitvā viniryātow tasmāt māngalikāvubhou ǀǀ
オームカーラシュチャータ シャブダシュチャ ドゥヴァーヴェートゥ ブラフマナハ プラー
カンタン ビトヴァー ヴィニルヤートゥ タスマート マーンガィカーヴボウ
上記の詩句を含む指針に基づくと、オームカーラOmkāraとアタハAtaḥは、吉兆であることは明らかです。ゆえに、本経典はアタハAtaḥという単語によって吉祥の始まりとなっているのです。
「アヌシャーサナanuśāsanaṃ」は、教示を受ける新しい課題ではありませんが、古代の預言者の言葉が反復され、この文章を通して広められています。ヨーガyogaの知識がヒラニヤガルバhiranyagarbha(主ブラフマー)にその起源を持つために、有名な古代インドの哲学者ヴァーチャスパティ・ミシュラは、
Hiraṇyagarbhō yōgasya vaktā, nānyaḥ purātanaḥ.
ヒラニヤガルボー ヨーガスヤ ヴァクター ナーンヤハ プラータナハ
「アタハAtaḥという言葉に含まれる様々な意味を理解しなさい」と言いました。
上記のように、それはまず吉兆の始まりを示唆しています。
第二の意味は、好奇心(ジギャーサjigyāsa)、すわなち、理解しようとする強い願望です。
「ヨーガは、統合を意味します」統合は幸福をもたらします。逆に言えば、分離は、悲痛をもたらします。このことは、日常生活でも経験できるでしょう!いかなる創造物も分離されやすいものです。それでは、いかにして分離されることがない状態に到達できるのでしょうか?何が至高の幸福をもたらすのでしょうか?「アタハAtaḥ」は個人の好奇心を刺激します。
単なる欲望だけでは、最終目標の達成を確実にすることはできません!サーダナsādhana(霊的探究)は、それ相応に能力のある人々の中でのみ結実します。ゆえに、第一に、それに値する性質(アルハタarhata)が、ヨーガの道へと一歩踏み出す以前に獲得されるべきです!その意味が、「アタハAtaḥ」という言葉によって示唆されています。
言い換えると、「アタハAtaḥ」は、人生の各段階に対応した正しい(ダルマdharmaの)義務を守る人々、シャーストラShastra(法典/経典)によって規定された訓練に実践する人々、サッドグルSadguru(霊性の師)とその教えに対して絶対的信条を持つ人々、そしてプルシャールターpuruśārthā(人生の四つの目標)の到達への信念を持つ人々、そういった人々のみがヨーガの知識(ヨーガ・ヴィディヤYoga vidya)への到達の資格があります!
「アタハAtaḥ」は、「その次に」という意味です。そうすると、何の後なのか?という疑問が生じます。ヨーガの知識の道は、サーダナ・チャトゥシュタヤsādhana chatuṭaya(永遠の知識を獲得する四段階)を達成した後にのみ始まることを示しています。では、サーダナsādhana(霊性探求)の四段階を読み解いていきましょう。
a) Nityānitya vastu vivekaṃニティヤーニティヤ ヴァストゥ ヴィヴェーカム(創造物における永続する対象と一時的な対象を峻別する知識)
b) Ihamutra phala bhōga virāga イハムトラ ファラ ボーガ ヴィラーガ(現世と来世の両方での徳の結果(果報)への無執着)
c) śamadamādi ṣatka sampattiシャマダマーディ シャトカ サンパッティ(マインドと感覚を制御するための六つの段階)すなわち、マインドの制御(マノ ニグラハmano nigraha)、感覚の制御(インドリヤ ニグラハindriya nigraha)、刹那的な快楽の一時的な休止、忍耐(サハナsahana)、平穏さ(シャーンティśānti)、そして献身(シュラッダーśraddha)。
d) 解脱のための一意専心
ヨーガとは、ドルシュヤdṛṣya(見られるもの)にドルシュタdṛṣṭa(知覚者、見る者)が一体化することを意味します!ここで少し疑問があります。「見る者」は、意識ある生類(生き物)のことです。意識が全くない非生類(生きていない物)である「見られる物」とは何でしょうか?それらはどうやって一つもしくは同一になれるのですか?それらが、全く反対の性質を持つ場合、どうやって一体化できるのですか?
この疑問の意味はわかります。我々のマインドは霊的無知(avidyaアヴィディヤ)と呼ばれる汚れで完全に覆われていますから、生命的(チャイタニヤchaitanya)と非生命的(ジャダjada)対象物は、あたかもまったく無関係の別々の存在であるかのように見えるのです。
グルの恩寵により、凍った知性が溶け始め、それらの違いも消え始めます。真実が見えるようになります!暗闇というのは光が届かないことに他なりません。それがすべてです。暗闇の中にいる時でさえ、擬似的な光を頼りに、我々はそばに対象物があるように認識しています。ネコやフクロウのような動物は、擬似的な光を頼りに夜間でも周りを明確に判断しています。
ゆえに、覚醒した見る人には、「相反するもの」、「疑似的なもの」と呼ばれるものはありません。覚醒した人のマインドはいかなる姿の変化も絶対に経験しません。
私たちは霊的無知から生類を非生類とみなします。それがすべてです!ヨーガの知識は、我々から霊的無知を追い払い、「タット・トヴァム・アシTat-tvam -asi(あなたはそれである)」という重要な言明を悟らせます。そういった象徴化された意味が「アタハAtaḥ」という言葉には含まれています。
このような方法で、「アタハAtaḥ」は、神聖な経典に吉兆な始まりを与えるだけではなく、ヨーガの知識を通じて得られる究極の目標を示しているのです。それは、霊的な実践者を導き、ヨーガの秘密を実践者に教えます。
意味:マインドの変異を静めることがヨーガである!
これが、二詞からなるこの格言の最も一般的な訳です。聖仙(マハリシ)・パタンジャリは、ヨーガの付随的な特性(タットゥシュタ・ラクシャナtaṭstha lakṣaṇa)を指し示すことによって、全ヨーガの伝統を説明しています。
格言「アタトー・ブラフマ・ジギャーサathatō braḥma-jigyāsa」から始まる聖仙ヴェーダヴィヤーサの『ヴェーダーンタ・スートラ』と、格言「アタトー・ダルマ・ジギャーサathatō dharma-jigyāsa」から始まる聖仙ジャイミニの『ミマームサ・シャストラ』は、付随的な特性(タットゥシュタ・ラクシャナtaṭstha lakṣaṇa)をまず説明し、次に本質あるいは第一の特性(スワルーパ・ラクシャナswaroopa lakṣaṇa)の説明へと進みます。
ヨーガの知識の秘密を説明するうえで、聖仙パタンジャリもまた、その後の論題を説明する前にアンヴァヤ anvaya(類似あるいは肯定)の手法を採用しています。その後、ヴヤティレーカvyatireka(相違あるいは否定)の手法をとり、その後の論題に光を当てます。
すべての精神的活動の停止(止滅)がヨーガです。それは同時に、ヨーガによる支配に到達したとき、精神活動が自然と停止するということです!両者には不可分の関係があります。それらは異なった対象でも、異なった題材でもありません。
実際のところ、精神活動の停止は、ヨーガの一側面に過ぎません!それはヨーガにおける完全な達成ではありません!それはヨーガが達成されたときに目に見える特徴のひとつにすぎません!
精神活動の停止をヨーガとして考えることは、単なるゴーウナ・ヴリティに過ぎません。この世界には、バクティ・ヨガ、ラージャ・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガといった多くの形式があります。しかし、これらすべてをヨーガそのものとみなすのは誤りです。
ヴェーダの文献には、「アーユル・ヴァイ・ギルタムāyur vai ghṛtam」、「アンナム・ヴァイ・プラーナハannam vai prāṇaḥ」などといった詩節があります。これらの節は、それぞれ、「ギー(透明なバター)を食べると長寿になる」と「食べ物は生命である」という意味です。この言い回しから、ギーのみが長寿の秘訣であると結論づけることはできますか?できませんね。食べ物がプラーナ(生命のエネルギー)を増加させる一方、ギーは長寿を促すと理解すべきです。同じように、ヨーガを促したり、ヨーガの道を簡易にしたりするすべての道もヨーガと言えます。
本論文を通して聖仙パタンジャリは、精神的変異を制御する霊的志向者(チッタ・ヴリッティ・ニローダハ chitta-vṛitti-nirodaḥ)はヨーガの達成という目的地により早く到着するであろうことを強調しています。
ヨーガの語は、「ユジュYuj」という原語動詞(ダートゥdhātu)に由来します。ヨーガは「統合」を意味します。二つの対象の融合はヨーガです。二つの対象が融合して、永久に分離できなくなると、形状(姿)として一つになります。これがヨーガです。
この世界では、見る者は、「ドルシュタdṛṣṭa」と呼ばれます。見られる物は、「ドルシュヤdṛṣya」と呼ばれます。見る、聴く、想像する、考えるといった行為を通じて、見る者(ドルシュタdṛṣṭa)は、対象(ドルシュヤdṛṣya)を理解します。徐々に人は、自分自身が見られる対象であることに気つきます。そして、それと同一化します。これが、ヨーガです!ヴェーダーンタ学派が、ジーヴァートマJeevātma(個々の魂)とパラマートマparamātma(至高の魂)の統合としてこれを定義しました。
もしジーヴァートマJeevātmaとパラマートマparamātmaが、そもそも二つの別個の実体なら、永久的な統合に関する疑問は、過去にも、将来にも起こりえなかったでしょう!それらの違いは、永遠の真実ではありません!それは、相対的な現実(ヴヤーヴァハーリカ・サッタvyāvahārika satta)に過ぎません!言い換えれば、我々の創造物なのです!
霊的無知(アヴィディヤavidya)の影響を受けたマインドが、そういった違いを作り出します。霊的無知が解消された時、その違いもまた消滅します。そして、何も見られる対象がなくなります。知識の具現である非二元的で至福の自己(アートマātma)のみが残ります!
さて、「精神的な変異(チッタ・ヴリッティ chitta vṛtti)」の意味するところは何でしょうか?考えましょう。マインド(チッタchitta)の活動とは、変異(ヴリッティvṛtti)そのものです。
偉大な哲学者であるヴァーチャスパティ・ミシュラは、混乱・動乱(ヴィクシェーパvikṣepa)または、覆うもの(アーヴァラナāvarana)の姿をとる霊的無知(アヴィディヤavidya)で汚されたマインドの状態が変異(ヴリッティvṛtti)であると言いました。
マナスmanas、ブッディbuddhi、チッタchitta、そしてアハンカーラahamkāraのマインドの四つの機能は、一括して、「アンタハカラナ・チャトゥシュタヤantaḥhakaraṇa chatuṣṭaya」と呼ばれます。ヴァーチャスパティ・ミシュラによれば、マインドに生じるこれらの結果は、マインドの変異(ヴリッティvṛtti)です。
(人間のマインドは、四つの活動性を示します。マナスmanasは、心の過程です。ブッディbuddhiは、識別心です。チッタchittaは、印象・記憶の貯蔵庫を担います。アハンカーラahamkāraは、自我意識(「わたし」という感覚)です)
眼は見る力を持っていると考えられます。しかしながら、これは真実から程遠いです。眼は見るための器官にすぎません。それに見る能力を与えるのが知性(ブッディbuddhi)です。脳内をめぐる微細な精気(ナーディnāḍi)が損傷されたなら、眼は、たとえそれ自体が損傷を受けていなくとも、見ることができません。このことから、特定のエネルギーが眼の見る能力を制御していることが明らかです。
マインドは、創造物に浸透している無限のエネルギーから、いくらかのエネルギーを自身に引き込みます。食べ物を媒介としてこのエネルギーを引き出します。そして意思(サンカルパ)の形をとってこのエネルギーを感覚器に送り、それらを機能させます。
上記より、マインドが物体にすぎないことは明らかです!それが自ら発光しているわけではありません!光を放つ自己(プルシャpurusha)が、マインドを支えているのです。自己(プルシャpurusha)の助けを借りて、マインドは任務を遂行できるのです。それでは、この自己(プルシャpurusha)とは何でしょうか?「私は、自己です。感覚器はマインドの道具であり、マインドは私の道具です」
マインドという道具を通じて、我々は宇宙を理解します!普通の人々は、宇宙の本質、本性、本当の姿について把握できません。彼らが努力しても、偽の思考と感情の虚構の世界に陥り、それが真実だと勘違いし、罠にはまったままとなります。そういった傾向と行動が、精神的な変異(チッタ ヴリッティ chitta vṛtti)です。
こういった精神的活動を停止させるヨーガの知識を追求する能力を得た人々は、世界の本質を理解します!常に、マインドは いかなる変異もない本質的で、純粋で、完全な状態を取り戻そうと不断の努力をします。しかし、感覚器が無理やりマインドを目覚めさせ、マインドを自分たちの方へ自身に引っ張り込もうとします。マインドを制御し、感覚器へ引き込まれることを防ぐことが、マノ・ニグラハmano nigrahaと言われます。
マインドを統御し、完全にマインドのすべての決断を自己(アートマンātma)に融合させるには、マインドを内側に向ける必要があります!これは、マインドが完全な集中状態に達しない限り成し得ないことです。マインドとともに、すべての感覚器官は内側へと向き、自己の中に存在します。これがヨーガにおける第一歩です。これが、チッタ・ヴィリッティ・ニローダハcitta-vṛttiḥ-nirodhaḥの本当の意味です。
マインドは、五つの姿、すなわち、クシプタkṣipta、ムーダハmūḍha、ヴィクシプタvikṣpta、エーカグラēkagra、そしてニルッダniruddhaの姿として出現します。
クシプタkṣipta:すべての物に対して強い執着があり、傲慢で、嫉妬心や貪欲さに溢れているなどがこの段階の特徴である。この場合、マインドは、注意散漫で、落ち着かない。この段階は、喜びと悲しみによって支配されている。
ムーダmūḍha:忘れっぽく、怠惰で、分別がないなどがこの段階の特徴である。
ヴィクシプタvikṣpta:この段階は、プラヴルッティ マールガ(外側への向かう道)からニヴルッティ マールガ(回帰の道)へ進むことと定義される。
エーカグラēkagra:一点集中に到達する。
ニルッダniruddha:集中(エーカグラ)の段階
霊的志向者が上記の段階を実現するのは経験によってのみです。ヴァーチャスパティ・ミシュラは、この概念を説明するために、天人と人間は、基本的にはヴィクシプタvikṣptaの段階に存在し、一方、悪魔がムーダmūḍhaの状態にあることを認めています。
タダー・ドゥラストゥフ・スワルーペーナ・アバスターナム
意味:その時、見る者は自身の真の姿に到達した
ヨーガの副次的な質(taṭastha lakṣaṇa)について説明した後、聖仙パタンジャリは、その固有(本来)の質(swarūpa lakṣaṇa)について説明しています。
四詞から成る詩句(格言)。
タダーTadā(その時):「その時」とは、人がヨーガを達成した時を指します!ヨーガの段階にいる人たちが、時間と空間といった条件には無関係というのは本当でしょうか?はい。それは本当です。しかし、ヨーガのこの段階を達成することを望んでいる志願者をよりよく理解するために、聖仙パタンジャリは「タダーtadā」(そうして、その時点で)という言葉を使用しました。マインドと言葉の理解を超えた対象を説明するには、サンスクリット語でこれ以上の言葉はありません。
ドルゥシュタDṛṣṭa:知覚の対象(ドルゥシュヤdṛṣya)を照らし、それを経験する彼は、見る者Seer(ドルゥシュタdṛṣṭa)と呼ばれます。見る者とは、意識と知識の具体像であり、「私」として扱われる自己(プルーシャPuruṣa)に他なりません。自己は見る者です!
しかし、見ることは真我の特徴のひとつであり、それの本当の形状(姿)ではないことを忘れないでください!真我は、知覚できる物体が存在する場合にのみ知覚します。そのような場合にのみ、見る者(ドルゥシュタdṛṣṭa)として言及可能です。
スワルーペーナSwarūpeṇa:人の真の姿。見られる対象が何もないとき、真我は見る者(dṛṣṭa)とは言えません。この状態が、真の姿です。この真の姿を言葉で表現することはできません!マインドはそれを把握することができません!
ウパニシャッドの質問 「Vijnātāramarē kēna vijānīyāt?ヴィジュナーターラマレー・ケーナ・ヴィジャーニーヤート?」
すべての感情をそっくりそのまま理解する「見る者」とは何ですか?彼について知りたがっているのは誰ですか?彼について知ることができる仕組みとは何ですか?
真我(ドルシュタdṛṣṭa)は全知です(ジニャータjnāta)!知識は「彼」の姿です!「彼」は誰にも理解できません。したがって、他の対象物とは異なり、「彼」について説明したり、知ったり、見たりすることは不可能です。「彼」は経験することのみが可能です!
ヴェーダ文献には、真実、知識、永遠、至福、無属性(ニルグナnirguna)、形状(姿)を持たない(ニラーカーラnirākāra)など、彼の姿を説明するために多くの言葉が用いられましたが、彼を説明することはできませんでした。最後に、著者らはサッチダナーンダSacchidānanda(存在−知識−至福)が彼の本来の姿であると結論付けました!
それにも関わらず、「彼」が我々と同類であるという我々の思い込みのせいで、彼も我々と同様に見たり、経験したり、楽しんだりしているといった固定観念を「彼」に押し付けています。真実は、彼は自己献身的であり、永遠に至福であるということです!存在−知識−至福(サッチダーナンダSacchidānanda)はヨーガの本当の姿です!したがって、真我の本来の姿です!
アヴァスターナムAvasthānam:共存は可能です。動詞の原形(シュターsthā)は、ヨーガ道の旅を終え、安定性が達成されたことを示します。この詩句の「アヴァスターナavasthāna」という語は、人が現在、本来の状態にあることを示しています。
波がおさまらない限り、水底は見えません。波がおさまるや否や、底がはっきりと見えるようになります。同様に、そのマインド上の思考の波がおさまるとすぐに、本来の姿が見えるようになります!そのような時には、私たちはマインドとは結びついていません。その代わり、本来の姿(真我Self)と一体化し、その至福を楽しみます!私たちは真我の姿となります!これが、真我実現という用語の意味です!
ヴルッティ・サーループヤン・イタラトラ
意味:ヨーガがない場合(イタラトラitaratra)、真我はマインドの活動に融合し、その姿を取る。
二詞からなる格言です。上述の詩句では、見る者(ドゥルシュタdṛṣṭa)が彼自身の本来の姿となる時、それはヨーガであると言及されていました。この詩句では、ヨーガが欠如した場合、真我は精神的な変異に融合すると言及されています。それは精神的変異を起こした姿を取ることによってその存在を知らしめます!
知性が外部の物体に引き寄せられたとき、真我はマインドの活動を自分自身であると誤信します。それ(真我)はそれら(外部物体)と一体化します。これがヴルゥッティ・サールプヤンvṛtti-sārūpyamです。例えば、同じようにヨーガと真我の本質についてヨーガの熟練者に対して説明されたなら、彼らは内部-外部間の全相違(スヴァジャティーヤ・ヴィジャーティヤ・ベーダsvajatīya- vijātīya bheda)を取り除いて考えるでしょう。人が個人の魂と至高の魂の間の同一性(非—差異性)を経験しない限り、彼は一体性、すなわちヨーガを達成することはできません。「サルヴァム・カルヴィダン・ブラフマー・アートメーヴァ・イダン・サルヴァムSarvaṃ khalvidaṃ Braḥma, ātmeva idam sarvaṃ」といった詩句は、非二元性の思想、つまり個々の魂と至高の魂の一体感について教示することを奨励しています。
経典がヴルッティvṛttiをどのように定義しているかを理解してゆきましょう。
文献の定義によると、「ヴルッティVṛtti」という言葉は「必要最小限の生活、生き延びること」という意味です。本質的に時間と空間の制限を超越している真我は、それがしがみついて生きているかのように思われます。これが経典の定義によるヴルッティvṛttiです。
言い換えれば、名前、姿、特性を欠く「彼」は、名前、姿、特性を身につけ、それらを通して自分自身を知らしめます。これが変異(ヴルッティvṛtti)です。
初期の傾向の強さのために、変化と可動性が本来的に欠けている光輝の姿が、変化と可動性の影響を受ける姿を受け入れるとき、それがヴルッティvṛttiです。
分割不可能で、変異を超えた至高の存在が無数の姿に分割され、変異するとき、それがヴルッティvṛttiです。
真実は、見る者(ドゥルシュタdṛṣṭa)自身が変異体(ヴルッティvṛtti)であるということです! それは知覚者(見る者)とは異なる何かの外部物体ではありません!霊的な無知のために、見る者が変異の姿として顕現し、多数あるかのように思われます。
このようにして、16世紀の偉大な哲学者であるヴィジュナナビクシュVijnanabhikṣuは、彼の著作「ヨーガヴァールティカYogavārtila」中で、精神的な変異(ヴルッティvṛtti)について膨大な文献を調査し、定義を行いました。
サーループヤsārūpyaとは何ですか? 姿を持ちながら一体性を達成することがサーループヤsārūpyaです。変異(ヴルッティvṛtti)の姿と同一の姿を取ることは、ヴルッティ・サーループヤvṛtti sārūpya(同一化)と呼ばれます。銀を溶解させることで、ガラス容器、皿、鎖などの様々な物を製造できます。物にはそれぞれ名前と形状(姿)があり、別個のものとして人々は認識していますが、元の金属は同じです。同様に、無限のエネルギーは微細な傾向(サムスカーラスsamskāras)と呼ばれる坩堝(るつぼ)に注入され、様々な名前と姿を取ります。それにもかかわらず、根源である真我は同じままです。
サムサーラsamsāra(生死の繰り返し)、プラパンチャprapanca(世界)、ドゥルシュヤdṛṣya(知覚の対象)またはヴルティvṛtti(変異)として定義されているのは、るつぼという落とし穴に陥った真我に他なりません。ドゥルシュタdṛṣṭa、プルーシャPuruṣa、チット・シャクティchit-shaktiなどの言葉は、すべて真我のことを示しています!
あなたが探しているものは何ですか?あなたが誕生してから現世で出会いたいと切望しているのは誰ですか?それがあなたの最も愛する神であっても、ヴルッティvṛttiの姿で、それはあなたの内側と外側の両方に存在しています。真我はどこかにひっそりと隠れていません。それはあなたの前に直に見える姿で存在します。
それを見るために何をすべきでしょうか?サーダナSadhana(霊的な実践)と呼ばれる正しい努力が行われるべきです。考え方を変えるだけで、その目に見える宇宙全体が至高の主の姿として現れるでしょう!
Yā devi sarva bhuteṣu vṛtti rūpeṇa samsthitā Namastasyai namastasyai namastasyai namo namaḥ
ヤー・デーヴィ・ブテーシュ・ヴルッティ・ルーペーナ・サンシュティター・ナマスタスヤイ・ナマスタースヤイ・ナマスタスヤイ・ナモー・ナマハ
このようにして、神聖な文書であるデーヴィ・マハートミーヤムDevi Mahātmīyamは、母なる女神パラシャクティParaśaktiをヴルッティvṛtti(精神的な変異)として賞賛します。
ヴェーダンタ・シャストラVedanta Shastraの最初の四つの格言と同様に、この聖典ヨーガ・ダルシャナの最初の四つの格言は、本経典において一貫して教示されている本質を要約しています。再度、説明しましょう。
最初の詩句では、各詩句が指示する内容(アヌシャーサナ・クラマanuśāsana krama)を順に理解するうちに、その教えが身に付く手順について説明されています。二番目の詩句では、精神的な変異を統御する手順について説明されています。三番目の詩句では、見る者の本来の姿が説明されています。四番目の詩句では、ヨーガを達成していない見る者が、その人の精神的な活動と一体になる方法について説明されています。
このように、聖仙パタンジャリは(霊性の)志向者に、ヨーガの習得を通じて、人生の四つの目標(プルシャールタpuruśārtha)を達成する方法を教えます。聖仙パタンジャリは、他の教義との矛盾点を探しているわけではありません。本経典を通して、彼はその人を霊性の頂点まで導くことを目指しています。本経典では、先人達の多くの貴重な教えが取り入れられています。著名な評論家は、ヨーガ・ダルシャナYoga darśanaの最初の四つの格言は、ヴェーダンタ・シャストラVedanta Shastraの最初の四つの格言と同じであると結論付けました。
意味:楽しさにも苦しさにも成り得る精神的な変異は五種類である。
意味:マインドの五種類の変異とは、プラマーナPramāṇa、ヴィパルヤヤViparyaya、ヴィカルパVikalpa、ニドラNidra、スムルティSmṛtiである。
意味:プラマーナーは、直接的な知覚(プラクヤクシャprakyakṣa)、推論(アニマーナanumāna)、および聖典のさまざまな証拠(アーガマāgama)を通じて得られた、実証済みの知識である。
意味:誤解(viparyaya)は、錯覚(対象物を違ったものと認識したり、実際にあるものをないものとして認識したりする)によって発生する誤った知識(mithya-jnāna)である。
意味:想像(vikalpa)は、現実世界には存在しない音波(śabda jnana)に基づいている。
意味:精神的な変異が無(abhāva)に包まれている時には、それは深い眠り(nidra, suṣupti)である。
意味:回想(smṛiti)とは、他4つの精神的な変異の形(姿)を通じて直接体験された物体の心象を保持する。
意味:適切で継続的な実践(abhyāsa)と、冷徹さ(vairāgya)を達成することで、精神的な変異を抑えることが可能である。
意味:精神的な変異を制御し、一意専心を達成するために行われた絶え間ない努力はabhyāsaと呼ばれる
意味:長期にわたって、これらの(マインドの制御を目的とした)努力が継続的に他の良き実践である苦行、禁欲、献身(親愛)などと同時並行に継続される場合、この実践はしっかり定着し、安定する(dṛḍha bhūmi)。
何度も繰り返される出生において、規律ある、献身的な不断の実践により、その人のマインドは安定し、堅実な状態に導かれます(dṛḍha bhūmi)!
意味:人がこの物質的な世界における見られる物と聞かれる物を超えた場合に顕現する絶対的な非欲求(離欲)は、vaśīkāra-sangyā vairāgyaと呼ばれる。
意味:トリグナtriguṇās(自然の3つの属性)への冷徹さを発達させることにより、自己(プルーシャpuruṣa)の本当の自然(カーテkhyāte)は外部に顕現する。
これが、至高の冷徹さ(グナ・ヴァイラーギャguna vairāgya)です。これらの属性への冷徹さが達成されない限り、完全な冷徹さは達成できません!
意識を伴う(覚醒した状態での)瞑想(Saṃprajnāta-samādhi)は、推論(理性)(vitarka)、反省(回想)(vicāra)、至福(ānanda)、自己認識(sāsmita)の側面と関連しています。
意味:過去の不断の努力(abhyāsa)と論理的思考の両方が完全な休息(virāma)の状態に入ると、無意識の(無覚醒状態での)瞑想(Asaṃprajnāta-samādhi)が起こる。この状態の瞑想には微細な心象(samskāra-śēṣa)のみが残る。
「無意識(無覚醒)の瞑想」(Asamprajnāta samādhi)は、志願者にとってヨーガの最終目標であることが精巧に説明されています。
意識を伴う瞑想(Samprajnāta-samādhi)から、志願者は「意識を伴わない瞑想」(Asamprajnāta-samādhi)へと進みます。これが究極の解脱の状態です。ここでは、すべての精神的な変調が停止しているはずです。
いくら超能力を身につけたとしても、自然(Prakṛti)に打ち勝つことができなければ、その人の没落は必然です。マインドが変異しないように瞑想し、偶然生じた変異を抑制し、マインドを完全に無にすることを「Prakriti vaśīkaraṇa mantra」(心を鎮める技法)と言います。
川を渡った人は、もはやボートを必要としません。同じように、「真我」を理解し経験した者は、もはや修行を必要としません。あらゆる形式の知識の全体的な支配者である「彼」がマインドを照らすとき、全体の知識のほんの一部に過ぎない論理思考を終わらせなければならないのです。これらの努力と論理的思考を完全に休息した状態にすることが、「意識を伴わない瞑想」(Asamprajnāta-samādhi)です。この状態では、思考も欲望も推論も熟慮もありません。マインドは完全に休息した状態にあります。
霊的な無知は、潜在的な印象(samskārās))が存在するための種(原因、きっかけ、起点)である。霊的な無知が破壊されても、いくつかの潜在的な印象はまだ存在し続けています。これらの残存印象は「samskāra-śēṣa」と呼ばれます。光が差し込むと、闇は消えるが、闇の記憶は存在し続ける。このように、ヨーガに熟達したヨーギでさえも、残存する潜在的な印象の魔力から逃れることはできない。
ヨーガ・シャストラでは、潜在的な印象(samskārās)を3つのカテゴリーに分類しています。アーガーミ(āgāmi)、サンチタ(sanchita)、プラーラブダ(prārabdha.)です。
果報的行為(業)とは、何らかの結果を期待して行われる行為を指します。果報的行為が将来の出生で結果をもたらすものである場合、その行為によってマインドに残る微細な印象は「アーガーミ・サムスカーラーāgāmi samskārās」と呼ばれます。
サンチタ・サムスカーラー(Sanchita samskārās)は、今生で結果をもたらす過去の生における果報的行為のことを指します。
この出生で行った行為の結果が、この出生自体の中で刈り取られる場合、それは「プラーラブダ・サムスカーラーprārabdha samskārās」と呼ばれます。
この状態に到達した志願者は、霊的な努力によって「サンチタ・サムスカーラー」を完全に破壊します。「āgāmi samksārās」も消え去ります。「prārabdha」だけが残ります。その結果、この「無意識の瞑想」(Asamprajnāta- samādhi)の状態に到達した志願者は、別の体を持つ必要性から解放されるでしょう。
ヨーギはこの肉体の中で生きている限り、自分の行為に「私が実行者である」(kartǥtva bhava)という感覚を持つことなく機能する。他の二種類の微細な印象(samskāras)は消滅し、プララブダだけが残るので、この詩句では「samskāra śēṣa」という言葉が適切に使われています。
意味:身体をともなわない融合(vidēha-laya)を達成する人々と自然に完全に融合する人々(Prakṛti-laya)は、無覚醒の瞑想(Bhava-pratyayaまたはAsamprajnāta-samādhi)を達成する。
意味:そのような人々は、献身(samādhi)、勇気(vīrya)、反省(smṛti)、瞑想(samādhi)、知恵(prajnā)を通じて、無覚醒の瞑想(Asaṃprajnāta samādhi)の段階に到達することが可能である。
意味:ヨーガは、これに対する激しく燃えるような願望を持つ人々によって、即座に達成される。
意味:解放を達成するための緊急度の違いに基づいて、志向者は3つのグループに分類される。すなわち、低度(mṛdu)、中度(madhya)、および極度(adhimātraまたはatimātra)である。
意味:心を込めて主に委ねることで、ヨーガは手の届くところまで近づく。
このように、思考、言葉、行為において至高の神に完全に身をゆだねることを、自己降伏またはīśwara praṇidhānāと呼びます。
真我を主と信じて全てを委ねる人は、主の真の姿を悟ることができます。
意味:イーシュヴァラ(Īśwara)は、苦しみ(kleśa)、汚された行動(karma)、およびそれらの行動(vipāka)や欲望(āśa)の結果の影響を受けない特別な自己(viṣēṣa puruṣa)である。
意味:「彼」は卓越した(niratiṣaya)知識の源です。「彼」は全知です。
意味:イーシュヴァラは時間の影響を受けないため、最初のグルだけでなく、最古の教師にとっても第一人者である。
意味:プラナヴァ(オーム)は、至高の主の究極の言語表現である。
意味:オーム(AUM)マントラは、その意味を完全に理解した上で唱えられる必要がある。
マントラの朗読が意味するのはどういうものですか?それはマントラの意味を何度も思い出す必要があることを意味します!霊的志向者は、絶対的な集中力を持ってして、その意味を熟考します。その姿に専心する間は、対象と同化するべきです。
意味:オーム(AUM)マントラを通して主を崇拝することによって、障害が取り除かれ、真我実現が生じる。
意味:マントラがその意味の理解と一緒に唱えられると、人は内なる自己の認識を獲得することができる。
意味:苦痛(duḥkha)、憂鬱(dourmanasya)、不安定なマインド(angame-jayatva)および不規則な呼吸(śvāsa-praśvāsa)は、障害物を強化する妨げです。
意味:単一の主題(ēkatattva upāsana)に集中する実践を通して、これらの障害を取り除くことができる。
意味:単一の主題に集中する練習のために、人は四つの良い資質、つまり友情(マイトリ)、慈悲(カルナ)、幸福(ムディタ)、幸せと悲しみ、あるいは徳と罪に対する冷徹さ(ウダーシナ)を発達させる。翻って、このことは、精神的な平和と幸福に導く。
意味:プラーナヤーマの習得が、呼気(プラチャルダナprachardana)と保持(ヴィダーラナvidhāraṇa)と呼ばれる過程を通じて達成された場合、単一の主題(エカトヴァ・アビヤーサekatva abhyāsa)のみに集中する能力が達成される。
意味:吐息(プラッカダーナ)と保持(ヴィダーラナ)のヨーガの実践が原因で生じる、より鋭い感覚の知覚(viṣayavatī prvṛtti)は、精神的安定と集中力の強化をもたらす。
意味:より鋭い感覚的知覚(viṣayavatī prvṛtti)は、ジョティシュマティjyotiṣmatiまたはビショーカーViśōkāとしても知られています。
意味:より鋭い感覚的知覚(viṣayavatī pravṛtti)の出現とその結果として生じる光輝により、愛着、自我の意識、好き嫌いなどの感情が失われる。
完全な自己降伏(īśwara praṇidhāna)が達成されれば、主、自らその人をこの状態で祝福してくれます。
意味:霊的覚醒は、夢と深い睡眠状態の知識を熟考することでも得られる。
意味:マインドも、自分の好きな神(熟考の対象)を定期的に瞑想することにより、安定と集中を獲得する。
意味:マインドを手懐けた人は、極小の原子からマンモスの宇宙まで、すべてを正しく制御する。
意味:精神的な変異がほとんど消滅すると、マインドはそれが焦点を当てているものの姿をとります。知る人(gṛhita)、知る過程(gṛhita)、または知られるもの(gṛāhya)のいずれかの姿となるであろう。近くの物体の色を装う純粋な宝石と比較することができます。 この状態は、覚醒時の瞑想(Samāpatti)と呼ばれる。
秩序立った理性的な瞑想(Savitarka samādhi)は、音(śabda)、その意味(artha)、その対象の知識(jnana)の組み合わせを伴っています。
意味:秩序立った理性的な瞑想(Savitarka samādhi)には、音(śabda)、その意味(artha)、およびその対象物に関する知識(jnana)の組み合わせが伴う。
意識を伴う瞑想(Samāpatti Samadhi)
a) 「知るべき対象」に関わる瞑想(Grāhya viśayaka)
a-1) 秩序立った推論を伴う瞑想(Savitarka samādhi)
a-2) 秩序立った推論を伴わない瞑想(Nirvitarka samādhi)に分類されます。
b) 「知る過程」に関わる瞑想(Grahaṇa viśayaka)
b-1) 反省を伴う瞑想(Savicāra Samadhi)
b-2) 反省を伴わない瞑想(Nirvicāra samādhi)
意味:霊的志向者による絶え間ない祈りと努力により、秩序ある理性的な瞑想(Savitarka samādhi)が実現するとき、志向者は、秩序ある理性を伴わない瞑想(Nirvitarka samādhi)に進みます。この状態では、記憶は非常に純粋になる。すなわち、志向者は彼の姿を失い、瞑想の対象物から放たれる光を体験する。
意味:同様に、微細な側面に焦点を当てた、熟考を伴う瞑想(Savicāra)と熟慮を伴わない瞑想(Nirvikara)について説明する。
意味:物体の微細さ(sookṣma viṣayatvam)への気づきは、志向者が顕在化しないもの(アリンガ、特徴がない)に融合すると完了する。
意味:これらの瞑想のすべての姿(上述の格言に関する説明参照)は、種(原因)を伴う。
bīja(シード)という言葉は「原因」を意味します!霊的な無知(avidya)が原因です!霊的な無知と呼ばれる種が人に残っているので、これらすべての瞑想状態は「サビージャ・サマーディsabīja samādh」として知られています。これらの瞑想では、微細な心象(samskāras)が完全に破壊されるわけではないため、それらには種子が伴います。
意味:熟考を伴わない瞑想(Nirvicāra samādhi)における専門(特殊)知識(vaiśarādhya)により、永続的な平安と幸福(ādhyātma prasādah)が得られる。
意味:永続的な平安と幸福(ādhyatma prasāda)が得られると、絶対的な至高の意識状態(Rutambhara prajna)に関する実践的知識が現れる。
意味:シャストラで説明されている主題を聴いたり、グルに尋ねたりすることで得られた知恵は、「śruta prajna」または「śrutapān ditya」として知られる。自分の知性を使用して得られる推論または知識は、「anumāna prajna」として知られる。
これらは両方とも間接的な知識です(paroksha jnana)。他の人や情報源から得た知恵です! 経験的な知識ではありません。
意味:絶対的真理(Rutambhara prajna)に関する知識によって浮き彫りになった潜在意識の心象(samskāras)は、過去のすべての潜在意識の心象を破壊する。
Reaching this state of Meditation-without-seed (Nirbija samādhi) is the ultimate fruit for the yogic pursuits taught in this treatise Yoga-shastra!
この「種なき瞑想」(ニルビヤ・サマディ)の状態に到達することが、このヨーガ・シャストラの論説で教えられているヨーガの追求の究極の成果なのです。
意味:Rutambara Prajnaと呼ばれる心象さえも溶けると、Nirbīja samadhiの最終段階が達成される。これは、永遠の絶対的真理を得るために、すべてのヨーガの追求のための直接的および間接的な果報である。
第一章「サマーディ・パーダムSamādhi pādam」では、聖仙パタンジャリは、意識を伴わない瞑想の絶対的な状態(アサンプラジュナータ・サマーディAsamprajnāta Samadhi)に到達するための様々な段階的過程について説明しました。それらは、非常に難易度の高い方法でした。第二章「サーダナ・パーダムSādhana pādam」では、この究極の状態に到達するためのより簡単な方法について詳細に説明します。
1-2) クリヤヨーガ(タパス(訓練)、スヴァディヤーヤ(真我研究)、イシュワラ・プラニダーナ(主へ帰依))
3-14) 苦痛(クレサ):アヴィディヤ(無知)、アスミタ(自我)、アビニエーシャ(死の恐怖)、ラーガ(執着)、ドヴェシャ(嫌悪)、それらの本質、影響、取り除き方。
15-17) 悲哀と苦痛。その原因と取り除くことの意味
18-19) 客観的に見る現実の本質(見られるもの)
20-25) 主観的に見る現実の本質(見るものとその関係性)
26-27) 自己の絶対的解放へと導く洞察につながる識別力
28-29) 八支道を通じた不純さの取り除き(アシュタンガ・ヨーガあるいはラージャ・ヨーガ)
30-34) はじめの2段階。自制(ヤマ)と遵守(ニヤマ)。ヨギの十戒と達成の方法。
35-39) 前半5つの戒律を習得することの利点
40-45) 後半5つの戒律を習得することの利点
46-48) 姿勢の練習(アーサナ)と完全な姿勢を取る方法
49-50) 呼吸の制御(プラーナヤマ)の定義と3つの種類
51-53) 内部の光を露にする超越的な4番目のプラーナヤマ
54-55) 感覚の引き込み(プラティヤハラ)の練習とその果報
意味: 行動のヨーガ(クリヤ・ヨガ)は自己降伏(Iśwara praṇidhāna)に他ならない。クリヤ・ヨーガという形式を通して、融合の状態は簡単に達成できる。
真我研究とは何でしょうか?それは、内なる自己(内なる存在)について理解することを意味します 。
主に仕えるために役立つ行為だけが、行為のヨガ(Kriya Yoga)を達成するための道具となります。これらは、苦行(tapas)と真我研究(swādhyāya)に関連した行為です。これらはマインドを強くし、集中力を高めます。
「Tapas」は、礼拝、断食の順守、儀式、その他関連する活動を意味します。
「Swādhyāya」は、「ヴェーダを学ぶ」ことを意味します。
苦行(tapas)とは、実は、絶対的な一点集中で主を瞑想することなのです。
Na hi kascit kṣaṇamapi jātu tiṣṭatya karmakrt ǀ
Na hi dēhabhṛtāṃ śakyaṃ tyaktuṃ karmāṇyaśeṣataḥ ǀǀ
Only when worship is undertaken with complete purity in thought, word and deed (trikarana shuddhi) along with single-focused concentration, they are converted into tools that aid Self-realization. Only then can they be classified as Yoga of action (Kriya Yoga). Such actions indicate the path of Yoga.
思考、言葉、行為における完全な純粋さ(trikarana shuddhi)と一点に集中することによって初めて、礼拝は自己実現を助ける道具に変わリマス。そうして初めて、それらは行為のヨーガ(クリヤ・ヨーガ)として分類されるのです。そのような行いは、ヨーガの道を示しています。
意味:この「行動のヨーガ」は、苦痛を和らげると同時に、完全な瞑想の状態(サマーディ・バーヴァナルタ)を達成するのに役立つ(クレシャ・タヌカラナ)。
霊的な知識(jnana)がその人に欠けているとき、それは霊的な無知(ajnana, avidya)と言います。ですから、無知は「知識が全くない」という意味ではなく、「知識の欠乏」という意味で解釈されるべきです。
意味:精神的な無知(アヴィドヤavidya)、自我の意識(アスミタasmita)、愛着(ラーガrāga)、憎しみ(ドウェーシャdweśa)、死への恐怖(アビニヴェーシャabhiniveśa)が五つの苦痛である。
霊的な知識(ジニャーナjnana)が人に不足している場合、それは精神的な無知(アジニャーヤajnana、アヴィドヤavidya)とし言われます。したがって、無知は「知識の完全な欠如」を意味するのではなく、「知識の不足」として解釈されるべきです。
意味:霊的な無知から生じる愛着、嫌悪およびその他の苦痛には、四段階ある。すなわち、休眠の段階(prasupta)、衰弱の段階(tanukaraṇa)、絡み合いの段階(vicchina)および完全に払拭された段階(udāra)である。
意味:霊的な無知とは、永遠を非永続的とみたり、純粋を不純と誤解したり、悲しい出来事を喜んだり、非自己を自己であると信じたりすることを意味する。
意味:自我の意識(asmita)は、見る器官(darśana shakti、知性)を見る力(dṛk shakti)であると誤認することで発生する。これは間違った同一化である。
意味:愛着(ラーガrāga)は、絶え間なく快楽(スクハsukha)を追いかけることを意味する。
意味:嫌悪(dweṣa)は悲しみを追いかけることを意味する。
意味:「生きることへの欲望」(アビニヴェーシャabhiniveśa)として知られる四番目の苦痛を説明する。
教養のある人でさえ、自分の勢いで走る生命を手中に収めたいという究極の欲求があります。
意味:苦痛(kleśa)の微細な心象(sookṣhma samskārās)は、過程を元に戻すか、真逆の行為(prati-prasava)を行うことによって破壊できる。
意味:苦痛(クレシャ)に起因する変異(vṛtti)、つまり愛着と悲しみの姿で顕現する変異は、瞑想によって破棄できる。
意味:五つの苦痛(パンチャ・クレーシャpanca-kleśa)は、すべての行動の背後にある主要な原因である。目に見える現世の誕生または目に見えない来世の誕生のいずれかで、これらの汚れた行動の結果として生じる影響を経験する必要がある。
この生涯(現世)で経験する喜びと悲しみは、人の過去の行い、この誕生(現世)または過去の誕生(前世)の結果に他なりません。これは明確に理解されるべきです!過去の行動の微細な心象(samskārās)が、人の思考と行動の原動力です!これらの心象は、生涯(現世)への道を決定します。
すべての行為は、マインドの中の潜在意識の部分に、それぞれ微細な印象を残します。私たちが今行うどんな行為も、この潜在意識から発する過去の行動(サムスカーラー)の微細な印象に促されています。これによって、習慣が形成される。習慣は、私たちを将来の行動へと駆り立てます。
意味:どの種の生類としてか(jāti)、その寿命(āyuh)、およびそれが経験する幸福と悲しみ(bhoga)は、その過去の行動の果報(報い)である。
意味:過去の道徳的、不道徳的な行為に基づいて、上記の三つの結果は、楽しさを伴う場合もあれば、痛みを伴う場合もある。
意味:賢い人は、すべての世俗的な経験を痛みの伴うものとして認識します(たとえそれが喜びであっても)。これは、彼らは、これらの経験が、自身の来世で結果として生じることを理解しているからです。その結果というのは、変化による不安(pariṇāma dukha)、渇望による苦痛(tāpa dukha)、新しい習慣の形成による苦痛(samskāradukha)、および根本原質の三つの要素(属性)の不調和による苦痛(guṇavṛtti virodha)といった姿をとる。
意味:将来の苦痛は排除されるべきである。
意味:見られる物(被認識体)(drsṣya)と見る者(認識主体)(dṛśya)の結合(samyoga)は、苦しみの主な根元(heya-hetuh)である。
意味:見られる物(dṛśya、被知覚世界)には、光輝(prakāśa)、行動(kriya)、不活性(sthiti)の性質があります。また、感覚(インドリヤ)と五つの粗大体で構成される。この被知覚世界の目的は、真我に経験(bhoga)あるいは解放(apavarga)を提供することである。
意味:すべての知覚可能な物体(dṛśya)は、自然(根本原質)(triguṇās)の三つの属性のうち一つから生じます。これらのtriguṇaには、確定(viśeṣa)、不確定(aviśeṣa)、象徴(linga)、非象徴(alinga)の四つの存在の姿(形式)がある。
意味:真我は永遠の純粋な意識にすぎないが、知性を通して見、経験する。
意味:知覚可能な世界は、真我が人生の四つの目標(プルシャールタ、タダルタ)、つまりダルマ(正義の法の遵守)、アルタ(物質的利益)、カーマ(欲望の実現)、モクシャ(解放の獲得)を達成するように存在する。
意味:知覚できる世界(dṛśya)は、目的を達成した人には存在しなくなるが、それ以外の人には存在し続ける。
意味:根本原質(プラクリティ)と真我(プルシャ)の結合は、自己が真の永遠の姿を実現できるようにすることである。
意味:霊的な無知(アヴィドヤavidya)がこの結合を引き起こす。
意味:霊的な無知が一掃されるとき、それ以上の結合はない。これにより、永遠の光の姿である自己は知覚可能な世界から解放される。
意味:継続的な識別意識と正しい知識は、霊的な無知を取り除くための手段(道具)である。
意味:霊的な無知を破壊する識別の知恵(プラジュナprajna)には七つの段階がある(Prāntabhūmi)。
意味:ヨーガの八肢の練習を通して、マインドの穢れが洗い流される。純粋な識別の知性が生じるため、知識の光が照らされる。
ヤマ・ニヤマ・アーサナ・プラナーヤーマ・プラティヤーハーラ・ダーラナー・ディヤーナ・サマーディヤハ・アシュタ・アンガーニ
意味:ヨーガの八肢とは、自制(ヤマyama)、遵守(ニヤマniyama、規律)、姿勢(アーサナāsana)、呼吸の統御(プラーナーヤーマprāṇāyāma)、五感を引き込む(プラティヤーハラpratyāhāra)、一点集中(ダーラナdhāraṇa)、瞑想(ディヤーナdhyāna)、完全な瞑想(サマーディsamādhi)である。
3詞からなる詩句。
ヤマYamaとは、心身の不安定さを抑制し、統御することです。自ら統制することです。この統御なしでは、簡単な所作さえもなし遂げられません!
目的の所作が実り多い成果を上げることを意識しながら、峻別の知性を用いてその長所と短所を精査し、ヴェーダによって指示されたすべての義務を信仰と献身で完了するのがニヤマNiyamaです。
手元の所作の要件に合わせて、適切な姿勢を採用する必要があります。採用される姿勢は、身体がそれを快適にするようなものでなければなりません。これがアーサナāsanaです。呼吸を統御し、その方法を訓練することは、プラーナーヤーマPraṇāyāmaです。
感覚を引き込み、それらが散漫にならないようにすることは、プラティヤハーラPratyāhāraです。目的の所作にマインドを定めるのはダーラナDhāraṇaです。ダーラナが十分な状態に達すると、それはディヤーナDhyānaです。自己を完全に忘れて至福に浸ることがサマーディSamādhi(無意識の瞑想)です。
このように、私たちが行うすべての所作において、ヨーガの八肢は、微細かつ本質的に存在しています。それらを認識することは非常に困難です。ダーラナDhāraṇa、ディヤーナdhyāna、サマーディsamādhiはっ互いに関係し合っており、ヨーガの熟練者のみがそれらを認識できます。
アヒンサー・サティヤーステヤ・ブラフマチャリヤ・アパリグラハ・ヤマーハ
意味:アヒムサーAhimsa(非暴力)、サティアsatya(真実)、アスティヤasteya(非窃盗)、ブラフマチャリヤbrahmacharya(性的節制、神の道を歩む)、アパリグラハaparigraha(非受容)は、ヤマYama(自制)の五つの要素である。
二詞からなる詩句。八肢の一本目であるヤマの構成要素が説明されています。
アヒンサーAhimsa:殺生すること、言葉により他人の感情を傷つけること、身体的または精神的な危害を与えることは、暴力(ヒムサー)として分類されます。それらを控えることは非暴力です(アヒンサー)。
サティヤSatya:思考、言葉、行動における統一性と純粋さは、真実性(サティヤ)または「トリカラナ・シュディtrikaraṇa śuddhi」です。誠実さはこれに限りません!このトリカラナ・シュッディtrikaraṇa śuddhiとともに、ヴェーダが「真実」として言明したものにマインドを定める必要があります。これは「サティヤヴラタSatyavrata」と呼ばれます。
アースティヤĀsteya:他人から盗みをしないことを意味します!貪欲でないことです。他人の所有物を欲しいと思うことも、盗みと同等です。精神的な盗みです!
ブラフマチャリヤBrahmacharya:真我実現に到達する目的のために規定されたヴェーダの義務を果たすために献身と修練を行い、異性に対する貪欲な感情を楽しませることなく、至高の主に完全にマインドを定めることをブラフマチャリヤBrahmacharyaと呼びます。
アパリグラハAparigraha:物を所持せず、他の人からの贈り物や物品を一切受け入れていないのがアパリグラハです。
これらの五つの規律は、身体とマインドを抑制します。それらはヨーガ・サーダナYoga Sadhanaにおいて非常に重要な手段です。
イェーテー・デーシャ・カーラ・スマヤーナヴァチンナーハ・サルヴァボウマーハ・マハーヴラタム
意味:自制の誓い(ヤマyama)とは、カースト(ジャーティjāti)、場所(デーシャdeśa)、時間(カーラkāla)、状況によって制限されません。それは普遍的に適用可能(sarvabhouma)であり、偉大な誓願(マハー・ヴラタmahā-vrata)である。
四詞からなる詩句。ここでは、Sārvabhouma Mahāvrata、つまり普遍的な誓いUniversal Vowについて説明します。
通常の生活を送る人々は自分の都合に合わせてこれら五つの自制(ヤマ)を遵守しています。「ブラフミンは殺されるべきではない!非暴力は強制的に寺院の町やその他の聖地でのみ行われるべきです!牛、女性、そして社会的弱者を保護するために、暴力(ヒムサー)に頼ることをためらうべきではありません!」
私たちは、こういった発言を度々耳にします。しかし、これは正しくありません。これはダルマdharmaに相当しません。カースト(jāti)、場所(deśa)、時間(kāla)、状況に関係なく、すべての人がこれらの制限に従う必要があります。慈悲と愛はあらゆる形態の生命に向けて注がれるべきです。貪欲は完全に放棄されるべきであり、この創造のすべてと調和しているべきです。そのような状態で生活することは、普遍的な誓い(サールヴァボウマ・マハーヴラタsārvabhouma mahāvrata)と呼ばれます。最高の誓いです!
ソウチャ・サントシャ・タパハ・スワディヤーヤ・イーシュワラ・プラニダーナーニ・ニヤマーハ
意味:純粋さ(ソウチャsouca)、満足感(サントシャsantośa)、苦行(タパスtapas)の遵守、真我研究(スワーディヤーヤswādhyāya)、および自己平伏(イーシュワラ・プラニダーナーニīśwara pranidhānāni)は、規律/遵守(ニヤマーniyamās)である。
アシュタンガ・ヨーガaśṭānga(八肢則)の第二肢であるニヤマNiyamaについて説明します。
二詞からなる詩句。それらは身体とマインドの両方が純粋に保たれることを保証します。
ソウチャSouca:清潔さと純粋さを意味します。沐浴(入浴)を通じて身体の清潔を保つ必要があります。良い考えと聖なる集会(サットサンガsatsang)を通して、マインドは純粋に保たれるべきです。
サントシャSantośa:悲しい時でも、マインドは穏やかで、幸せで、興奮することなく保たれるべきです。これが満足です(サントシャsantośa)。
タパスTapas:崇拝、ヴラタ(誓願)、祭典や他の儀式開催中の断食などの苦行(禁欲)の遵守がタパスtapasです。
スワディヤーヤSwadhyāya:真我について理解しようとする試みにおいて、ヴェーダとシャストラを研究し、それらの内面的な重要性を理解することは、スワディヤーヤswādhāyaです。
イーシュワラ・プラニダーナーニĪśwara pranidhānāni:完全に至高の主に平伏する、つまり自己平伏のことです。
これらの実践を通して、マインドは純粋になります。 純粋なマインドは、ヨーガの追求に非常に役立ちます。霊性の観点からは、真我実現そのものが純粋なるものです。自分が持っているものに満足していることが充足です。峻別の知性は、苦行/禁欲です。真我についての研究は、スワディヤーヤswadhyāya(真我研究)です。至福を体験することは自己平伏です。
ヴィタルカ・バーダネー・プラティパクシャ・バーヴァナム
意味:否定的な思考のためにマインドが迷うとき、反対の感情を実践する必要がある。
二詞からなる詩句。たとえ、ヤマYamasとニヤマNiyamasの遵守を通して霊的な道を進むことを望んでいるとしても、過去の行為の印象(サムスカーラsamskārās)の強さのために、マインドが暴力や他の悪影響の方向に走ることがあり得るかもしれません。マインドがこのように霊的な道から外れるとき、何をなすべきですか?これについて説明します。
ヴィタルカ・バーヴァナVitarka bhāvanaは、ヤマ、ニヤマ、および他の規律に反する感情あるいは行動を指します。それらはマインドを弱体化し、無力化します。しばしば、マインドは暴力、虚偽の発言、盗みなどに引き寄せられ、それらに向かうことを選択します。そのような時でさえ、マインドは、断固たる決意とともに、それらの否定的な考えに反する規律にのみ焦点を当てるべきです。この焦点を定めることで、これらの負の影響によって引き起こされる苦しみは弱まるでしょう!
ヴィタルカー・ヒムサーダヤハ・クルタ・カーリター・ヌモーディターハ・クロダ・モハ・プールヴァカーハ・ムルドゥ・マディヤーディマートラーハ・ドゥクハ・アジュニャーナーダンタ・パラーハ・イティ・プラティパクシャ・バーヴァナム
意味:貪欲(ロバlobha)、怒り(クロダkrodha)、妄想(モハmoha)によって引き起こされる暴力やその他の疑わしい行動あるいは思考(ヴィタルカvitarka)は、本人がその行為の当事者であるか、あるいは他人を唆したかに拘らず、その人に無限の苦痛と霊的な無知を引き起こします。また、その行動が些細か、中程度か、大々的かも関係ありません。したがって、それらを反対(正)方向に向けることが不可欠です。
七詞からなる詩句。上述の詩句では、暴力と負の影響は逆転されるべきであると言及されました。なぜ逆にする必要があるのですか?これについて説明します。
負の感情(ヴィタルカ・バーヴァナvitarka bhāvana)は、無限の苦痛と悲しみを引き起こします。それらは、霊的な無知を高めます(アジニャーナajnana)。これらの負の影響を相殺するために、ヤマ、ニヤマの規律を遵守したいという願望は、プラティパクシャ・バーヴァナPratipakṣa bhāvanaと言われます。
この詩句で使用される用語を理解しましょう。
人が道徳的な取り決め(規律)を破るとき、それは「クルタムkṛtam」と呼ばれます。 彼が他者に道徳律を破るように扇動したり、暴力に向かって扇動したりすることを「カーリタムkāritam」と呼びます。人が他人によって行われた不法行為を承認するとき、それは「アヌモーディタムanumōditam」と呼ばれます。毎日、すべての人がそのような活動に巻き込まれるわけではありません。人生において一度あるいは何度か、はたまた数回にわたって、そのような不正な行為に関与するおそれがあります。一生に一度でもそのような行動に関与するだけで、霊的な成長は妨げられます!そのような悪事を被ることは、その行動が公然と行われるかか、秘密裏のなされるかに関係なく避けられません。
怒り(クロダkrodha)、妄想(モハmoha)、貪欲(ロブハlobha)は地獄への入り口です。怒りは、過度の欲望(カーマkāma)の変異に他なりません!妄想(モハmoha)は、極端な嫉妬(マーツサルヤmātsarya)が変異した状態に他なりません! 極端な自己中心性(マダmada)は貪欲(ロブハlobha)です!したがって、詩句の「クロダkrodha、モハmoha、ロブハlobha」という用語は、六種の内なる敵(アリシャドヴァルガarishadvargas)を示しています!
用語「ムロドゥmrdu、マディヤmadhya、アディマートラadimātra」は、それぞれ、行動に対する軽度、中度、または重度の関与を表しています。
人の社会的および経済的地位に関係なく、人はこれらの負の影響の罠にかかっている限り、苦しみから逃れることはできません! 数多くの経典を読み、ヴェーダを研究し、限りない善行に参加した後でも、負の影響の罠に陥った人は、霊的な無知から抜け出すことができません。つまり、真我実現を達成することはできません。真実への帰依がない場合、良い行動は良い結果を完全に与えることはできません。そのような人はヨーガの道を進むことができません。人は平穏を獲得することはできません。 したがって、暴力やその他の不道徳な考えを完全に追い払うことが不可欠です!
アヒンサ・プラティシュターヤーム・タット・サンニドウ・ヴァイラトヤーガハ
意味:非暴力(アヒンサahimsa)の誓いを固く立てた人の周囲には、敵意の感情は完全に消える。
三詞からなる詩句。ヤマとニヤマについての主な目的を説明します。
非暴力の誓い(アヒンサ・ダルマahimsa dharma)で完全に確立された人のマインドは、善の特徴(サットヴァsattva)で満ち溢れます。その人は、平和と静けさを体現するでしょう。周囲には、野生動物でさえ敵意をあきらめ、他の動物と完全に調和して生きています。 ライオンとヤギ、マングースとヘビ、ネコとネズミが仲良く共存しているかのごとく、周囲と完璧に調和して生きている人は、非暴力の道に寸分のぶれもなく歩んでいる人物であることを理解する必要があります!
サトヤ・プラティシュターヤム・クリヤー・パーラー・シュラヤトヴァム
意味:真実の誓いを固く立てた人は、自身の意思に従えば、行為をせずとも、果報を得る。
ヤマの規律の中で二番目の真実(サティア)の誓いについて説明します。
二詞からなる詩句。真実を確実に永続的に定着させたマハートマ(大仙)は、たとえ行為を実行していなくても、世俗的および非世俗的でのすべての行為の完全な結果を導き出します。その人は食べ物を口にしなくとも、美味しい食事をしたものとして満足感を味わいます。シャストラShastrasによって定められたすべての行動において、パラマートマParamātmaを視覚化することができます。
平凡な日常の活動における誠実さは、真実の誓いの完全な遵守とは言えません。マインドと五感は誠実さの誓いにより、しっかりと築き上げられるべきです!人は善(サットヴァsattva)の具現化であるべきです! 人は真実の遵守を苦行として考えるべきです!これらの条件がすべて満たされるとき、それは最高の真実の誓いとなります!そのような誓いは霊的な道を歩みやすくします。
アーステーヤ・プラティシュターヤム・サルヴァ・ラトノーパスターナム
意味:すべての貴重な富は、非窃盗の誓いを立てた人(アーステーヤ)に従属することを待ち望む。
二詞からなる詩句。非窃盗(アーステーヤāsteya)を実践することの利点について説明されています。
非窃盗は、用語アーステーヤāsteyaの一般的な意味です。しかし、ステーヤsteyaとは、動物(生類)と静物(非生類)といったあらゆる創造物に宿る真我を見ることができないことを意味します。真我実現をした人からは、ステーヤが消えます。「私は、ある(貴重な)物を将来利用するために大切にとっておきたいのだが、これを誰かの所有物のごとく扱い、触れるべきではない」そのような認識は真我実現を達成すると消えます。この基本的な意識さえ消えると、その人からは幼児の無垢さが露呈します。そのような状態がアーステーヤāsteyaです。
貴重な宝石はすべて、アーステーヤāsteyaを完璧に打ち立てている人、つまり真我を何にでも見出せる人に従属するのを待ち望んでいます!その人に避難場所を求めます!つまり、貴重な宝石として例えられる、超自然の力(シッディsiddhis)がその人に殺到します。最高の宝石、つまり至高の知識がその人にもたらされます!
ブランマチャルヤ・プラティシュターヤム・ヴィールヤラーバ
意味:活力と強さは、ブラフマチャルヤの誓いを立てた人によって獲得される。
二詞からなる詩句。ブラフマチャルヤの誓いを実践することの利点について説明します。
常に神の道(ブラフマー)を歩くのはブラフマチャルヤです! 人はブラフマーの姿のひとつ(化身のひとつ)なので、真我についての理解することが、ブラフマチャルヤです!本来の自己(真我)を達成した者は、動作も思考もありません。これがブラフマーの真の姿です!
「ヴィールヤVeerya」は「エネルギー」(シャクティshakti)を意味します。ブラフマチャルヤの規律を習得した人は、多種のシャクティśaktisに恵まれます。素晴らしい能力を身につけます。マインドに対する統御の能力は非常に強化されます。意思の力は途方もなく強固になります。霊的本質を把握し、理解する能力は、幅を増します。人間だけでなく、動物、鳥、昆虫も引き寄せる能力を身につけます!言い換えると、この宇宙の全生類は、ひとえに感覚を統御した者の支配下になるでしょう。
霊的な道を歩む者は、完全な感覚の統御を行うブラフマチャリスです!その中には、自然な禁欲主義者もいれば、家住期(世帯主の段階)を受け入れずに、独身の誓いにを立て、それを苦行と見なして、規律ある生活に身を捧げる者もいます。他には、家住期を受け入れ、その中で完全に献身的で禁欲的な規律を実践する者もいます。
私たちは、ブラフマチャルヤの規律が人にさまざまな能力を与えることを議論しました。 これらのエネルギーと能力は総称して「Veerya-lābha」と呼ばれます。 したがって、Yogicの達成を望むすべての人は、献身的にブラフマチャリヤを実践する必要があります。
アパリグラハ・シュタイリャイ・ハンマ・カタンタ・サンボダハ
意味;純粋なマインドは、受け取らない/ため込まない誓い(アパリグラハ・ヴラタaparigraha vrata)を立てると、過去生のすべての転生(ジャンマ・カタンタ・サンボダハjanma kathanta sambodah)の知識がその人に現れる。
二詞からなる詩句。ここでは、非受容の誓い(アパリグラハ・ヴラタaparigraha vrata)の有用性について説明します。
過去生からもたらされた微細な印象の力が明らかになります。
「時間と場所に関係なく、私(真我)とこの粗大体の間にはまったくつながりがありません」そのような確固たる信念は、「アパリグラハ・スタイルヤAparigraha sthairya」です。そのような不屈の決意を持つ人は、全転生の知識を得ます!
なぜ人間は生まれたのですか?この輪廻転生を説く教義とは何ですか?引き金となるものは何ですか?その背景にある根拠とは何ですか?こういった質問への解答は、これまでは理解に苦心したかもしれませんが、今明らかにします。これは、過去生の記憶(ジャンマ・カターンタ・サンボダナjanma kathānta sambodhana)として知られています。第一章「サマーディ・パーダム」で説明されているように、永遠の神の知識(ルタンバラ・プラジュナrutambara prajna)の力により、過去生の微細な印象の知識は非常に明確になります。
この用語は、一般的な意味として、いかなる奉仕(ダーナムdānam)を受け入れないこと、および提供される贈り物を丁寧に拒否することは、アパリグラハ・ヴラタAparigraha Vrataと見なされます。奉仕や贈り物を単に拒否するだけで、霊的な知識がその人の身につくことはありません。身体と真我とのつながりを拒否することによってのみ、この知識を得ることができます!
ソウチャート・スワーンガ・ジュグプシャーパライハ・アサムサルガハ
意味:完全に純粋であるがゆえ、その人は自身の粗大体への嫌悪を感じる。その人は他者の肉体との関わりに消極的である。
三詞からなる詩句。ヤマYamaとニヤマNiyamaを練習することの利点について、さらに詳しく説明します。
シュチŚuciは、内部および外部の純度を意味します。この純粋さをしっかりと保ち、経典(シャストラ)の指示に従ってすべてのヤマとニヤマを実践する者は、その肉体に対する嫌悪を無理なく発達させます!その者は、肉体への愛着が減少するにつれ、肉体によって引き起こされる連想、関係、友情、愛着、自意識、世俗の束縛に懸命になる意向がなくなりました。その人は、それらすべてから距離を置いています!
その人は、体を美しく保つ願望すらありません。オイルを塗ったり、髪をとかしたりすることも、入浴もせず、シャストラの指示に従うこともしません。衣服が汚れていても、臭いがあったとしても、気にせず、満足そうに笑い続けます。
肉体への執着は、人間として生まれた際の最も重大な危険性です。純粋な人々はそれに対する反対願望を育み、その危険から脱却します!
真我実現は真の純粋さです!真我の知識以上に純粋なものはありません!身体とマインドの両方を清潔で純粋に保つことは、完全な清浄を達成するための最初のステップにすぎません。外面の清浄を達成した人は、内面の清浄を達成することにも成功します。
友人、敵、近親者、知人などを区別することは、スワーンガムswāngaṃとして知られています。ジュグプサJhugupsaとは、そういった区別への嫌悪を育むことです。嫌悪のために、交友関係や人付き合いは減少します。至高の知識と好き嫌いの感情は共存できません!好き嫌いの感情が弱まるにつれ、その人の純粋さが徐々に強まる傾向があります。実践的に、好き嫌いの感情を完全に捨てることが、清浄(ショウチャśouca)です!
サットヴァ・シュッディ・ソウマナシャ・エーカーグリャ・インドリヤ・ジャヤ・アートマ・ダルシャナ・ヨグヤトヴァーニ・チャ
意味:そういった清浄さは、知性(サットヴァ・シュッディsattva śuddhi)の完全な浄化、心地よさ(ソウマナシャsoumanasya)、一点集中(エカーグラタekāgrata)、感覚の統御(ジテンドリヤトヴァjitendriyatva)、および真我実現を達成する資質(アートマ・ダルシャナ・ヨグヤトヴァムatma darśana yogyatvam)につながる。
二詞からなる詩句。完全な純粋さによって得られる特別な徳とは何ですか?
サットヴァ・シュッディSattva śuddhiḥ:真我実現を達成したいという欲求が、無知の特性(タマスtamas)によって汚されたり、行動の特性(ラジャスrajas)の干渉を受けない場合は、善良さの特性(サットヴァsattva)が光輝します。至高の主への信仰はサットヴァ・グナ(善良さの特性)です!しかし、それはサットヴァ(善良さ)が優占した状態ではありません。行動の特性(ラジャス)と無知(タマス)の痕跡さえない、完全に純粋な知性(ブッディ)は、サットヴァ・シュッディsattva śuddhiとして知られています。
ソウマナシャSoumanasya:心地よさ。これは、サットヴァ・シュッディsattva śuddhiの結果です。過去の数知れない転生の徳により、人間としての現世の転生につながり、真我の知識を理解するための稀有な機会が与えられました。この理解がソウマナシャsoumanasyaです!つまり、マインドが永遠に幸せで、気持ちよく、満足している状態が、ソウマナシャsoumanasyaです。
エーカーグラタEkāgrata:絶対的集中。マインドが1つの対象のみに集中できるとき、それはにエーカーグラタekāgrataとして知られています。それは、非二元的で恒久のパラブラフマParabrahmaにのみマインドを定めることを意味します!マインドは、本来、動揺しやすく、複数の対象に焦点を合わせる傾向があります。この欲求を弱め、それがブラフマーだけに定められるようにすることは、エーカーグラタekāgrataです。
インドリヤジャヤムIndriyajayam:感覚の統御。世俗的な物体への強い憧れが弱化すると、感覚はもはや快適さへと引き付けられなくなります。感覚の力が弱まります。感覚を弱め、揺らぎを減らし、それらを制御下に保つことをインドリヤジャヤムindriya-jayamと呼びます。
アートマ・ダルシャナ・ヨギャタĀtma darśana yogyata:これは、真我の実態を体験する資格を得ることを意味します!
これら5つのうち、サットヴァ・シュッディsattva śuddhiを取得した者は、自然と他の4つを取得できます。上述の詩句では、外面の清浄さを説明しました。この詩句は、内面の清浄さの特徴を説明しています。
サントシャート・アヌッタマハ・スクハ・ラーバハ
意味:満足により、至福を得ることができる。
満足/充足(サントーシャsantośa)によって何が起こりますか?
三詞からなる詩句。真我実現によって得られた至福は他に類を見ません!手にすることができる最高の幸福です!
カーイェーンドリヤ・シッディハ・アシュッディ・クシャヤート・タパサハ
意味:苦行は、不純物を取り除き、身体と感覚(インドリヤindriyas)の完全性につながる。
三詞からなる詩句。苦行をすることの利点は何ですか。
苦行のために不純物は洗い流されます。身体と感覚は完全な状態に到達します。不純物を取り除いた結果、身体と感覚は超自然的な力を獲得します。たとえば、目は、視界内にない対象も見ることができます。同様に、耳は宇宙や遠く離れた人々からの微細な音を聴き分けることができます。そのような人が触れた物体は縁起の良いものになります。アニマAṇimaと他の超自然的な力(アシュタシッディaśṭasiddhi)が手に入ります! しかし、このヨーガの道を熱心に歩む人々は、これらの神秘的な力を求めていません。彼らは、それらを道の障害物として考えて、自らのゴールに単に焦点を合わせます。それにもかかわらず、超自然的な力が彼らに祝福を与えます!
スワーデャーヤート・イシュタ・デーヴァター・サンプラヨガハ
意味:真我研究(スワーデャーヤswādhyāya)により、自分が好きな神(イシュタ・デーヴァタiṣṭa devata)と縁故を持つことができる。
二詞からなる詩句。真我の研究(スワスデャーヤswasdhyāya)の利点とは何ですか?これについて説明します。スワーデャーヤswādhyāyaの最も一般的な解釈は、ヴェーダを唱え、ヴェーダを生徒に教えることです。しかし、ヨーガの経典によれば、真我探究は「スワディヤーヤ」です!「スワSwa」は真我を意味し、「アデャーヤadhyāya」は研究を意味します!
日常的に行われる真我探求を行う者は、最終的に自身が好む神の像(ビジョン)で祝福されます。各人にとっての好きな神が何であれ、至高の主がその根源であるというのが真実です!存在-知識-至福(Sacchidānanda)の姿である至高の本質を崇拝する代わりに、クリシュナKrishna、ラマRamaといった神々を崇拝する人には、「彼」がそれらの姿となり、帰依者を祝福します。
霊的志願者は、ヨーガでの充足を達成した後、これまで崇拝してきたすべての姿が、至高の主にほかならないことに気づきます。そして、彼は姿のない神に焦点を当て、それを通して大きな至福を導き出します。
サマーディ・シッディハ・イシュワラ・プラニダーナード・ヤー
意味:完全な融合の状態(サマーディsamādhi)は、人が完全に主に自己平伏したときに得られる。
三詞からなる詩句。自己の平伏(イシュワラ・プラニダーナニIśwara pranidhānani)の利点は何ですか?完全な自己平伏により、霊的志願者は意識をともなう瞑想の状態(サンプラジュナータ・サマーディSamprajnāta samādhi)に近づきます。言い換えれば、彼はヨーガの八肢を完遂します。
この詩句の「ヴァーvā」という言葉は、自己平伏の重要性を強調しながら、自己平伏によってのみ、完全な瞑想の状態を達成できることも強調しています。 したがって、それは自己平伏の偉大さを称賛しています!
スティラ・スカマーサナム
意味:快適で安定した姿勢をアーサナāsanaと呼ぶ。
二詞からなる詩句。ヨーガで採用される座姿勢とは何でしょうか?これについて説明します。
座った状態が安定するまでは、プラナーヤーマPraṇāyāmaは適切に実行できません。身体にとって不快感がない姿勢でなければなりません。体が不快であるとき、マインドは平安であるはずがありません。したがって、この詩句は一般的に、プラーナヤーマPraṇāyāmaを始める前に、快適で安定した座位を取る必要があることを意味ものと解釈できます。
しかし、ヨーガの実践者はこの理論を受け入れません。ヨーガシャストラYogashastraは、身体を統御するために、マユラーサナMayurāsana(孔雀ポーズ)、パドマーサナ(蓮華座)、ヴェラーサナ(英雄のポーズ)などの84種類のヨーガーサナがあると述べています。その中から志願者は自分にとって快適で、適したものを採用できます!このため、偉大な聖人がシェールシャーサナśeerśāsana(頭で倒立するポーズ)をしながら、厳格な禁欲を行ったり、木の枝から逆さまにぶら下がったりする古代の話を出くわします。
それには一理あります。「身体」という用語を使用する際、特定の臓器を指すのではなく、すべての臓器を総括したものを指します。その身体の中で、マインドは感覚を制御する上で最も重要な役割を果たしています。したがって、マインドが穏やかで安定しているポーズが最適です。マインドが心臓のある場所に定めることができれば、それは間違いなく静止の状態と言えるでしょう。このため、帰依者は主に願い出て、心臓の中に座るように招き入れます。
心(ハート)だけが、安定と平和をもたらす至高の主を一箇所に定めつつ、平静を保持する能力を持っているのは、心(ハート)だけです。火に近づくと、体は熱と光の両方を実感します。同じように、静寂と安定の化身である至高の主に近づく意識(マインド)には、平安がもたらされます。
したがって、身体にとって心地よい適切なポーズを受け入れ、そして、至高の本質だけでマインドを定めるのが本当のアーサナāsanaです!そういった姿勢こそが、ヨーガシャストラの後ろ盾を獲得できます!それが最善策です!
プラヤトナ・サイティルヤーナンタ・サマーパティビャーム
意味:努力によって獲得される快適さ(プラヤトナ・シャイティルヤprayatna śaithilya)、無限の融合(アナンタ・サマーパティananta samāpatti)等の特徴を通じて、姿勢の安定が達成されたことが知覚される必要がある。
一詞からなる詩句。次に、適切な姿勢を採用する方法について説明します。
プラヤトナ・シャイティルヤPrayatna śaithilya:一般的に、感覚器とそれらを支える身体は無意識に行動へと駆り立てられます。実際、感覚器は行動に対して最大限の愛着を示します。行動に対するそのような愛着が縮小し、弱化し、消滅するとき、それは「プラヤトナ・スライティリアprayatna śaithilya」と呼ばれます。そのような状態に達した人は、行動の器官も知覚の器官も、いかなる形式の行動への駆り立ても示しません!
アナンタ・サマーパッティAnanta samāpatti:広い視野、無限性、正しい見方、適切に統合された洞察力(サムヤックsamyak)を達成することをサマーパティsamāpattiと呼びます。それは、すべてに偏在する感覚、あるいは無限性(アナンタananta)のことです。マインドがこのような無限性をいかなる類の制限もなく体験するのは、「アナンタ・サマーパティananta samāpatti」です。つまり、マインドが拡大し、宇宙のごとく遍く行き渡るのです!そのような無限のマインドの中では、真我の知識が優占するはずです!上記の両者の特徴は、姿勢が完璧になった人に必ず見られます。
日々のプージャpujaでは、神は宝石をちりばめた玉座に安楽に座り、崇拝されます。スマールタsmārthaの伝統では、このことはアナンタ・サマーパティananta samāpattiを象徴していると言明されています。これにより、人の行動への駆り立ては止まります。このことから、毎日の朝のプージャの儀式は、私たちをヨーガの道へと向かわせる行為に他ならないことが理解できます!
タトー・ドヴァンドヴァーナビガータハ
意味:姿勢が完全であるなら、その人の二元性(ドヴァンドヴァdvandva)は浄化される。
姿勢を完成させることのもう1つの利点について説明します。
二詞からなる詩句。言い換えれば、マインドはもはや熱さ・冷たさ、嬉しさ・悲しさ、もしくは他の二元性によって苦しめられません。
二元性がなくなった今、無限の融合(アナンタ・サマーパティananta samāpatti)に立脚したマインドは絶対的な平和と静寂を享受します。都合・不都合な状況に関係なく、もはや平穏な状態からマインドが締め出されることはありません。マインドが享受する平和が破壊されることはありえません。したがって、実際に座っている姿勢の完璧さは、マインドを自己に近づけることを意味します!
タスミン・サティ・スヴァーサ・プラシュヴァーサヨハ・ガティヴィテェーダハ
意味:姿勢の完全性が確立された後、呼吸の統御、つまり吸気と呼気の調節が始まる。
五詞からなる詩句。これは真我知識の最も重要な段階です。ヨーガの八肢の四番目であるプラナーヤーマについて説明します。
プラナヤーマPraṇayāmaに関する最も一般的な前提として、吸気、呼吸の保持、および呼気の一連の流れが想定されます。ただし、これはプラナーヤーマPrān̄āyāmaの基本的なステップにすぎません。
プラーナPrāṇa(生命の力)を呼吸として吸い込まれた空気と同一視するのは正しくありません。プラーナPrāṇa(生命の力)は、実際には、この膨大な全創造の生類に浸透する純粋な意識(チャインタンヤ・シャクティchaintanya shakti)です。それは生命体の鼻孔の近くに見えます。このプラーナが吸気時に体内に入ると、体が振動します。プラーナーヤーマPrāṇāyāmaは、呼吸を制御することを意味します!これもまだプラーナーヤーマPrāṇāyāmaの外的な特徴です。
プラーナの伝達は、マインドが空間的広がりを伴う(遍在的)瞑想中に始まります。この時点で、志願者はプラチャルダナPracchardana(プラーナがすべての外部の物体に浸透することを視覚化すること)とヴィダーラナVidāraṇa(プラーナが人の内部の全感情に浸透することを知覚すること)の2つの経験を受けます。このため、人はプラーナの伝達が急増することを経験します。
この経験により、人はプラーナーPrāṇāが肺の中の空気であるという誤解から解放されます。人は、創造物全体に行き渡っているプラーナが純粋な意識の形で自身の中に存在していることを認識しています。
人は努力を通じて、プラーナーマヤ・グランティPrānāmaya-granthiと呼ばれる結び目を切ることができれば、可動性および不動性の創造物両者に浸透する生命力を体験します。この体験が本当のプラーナーヤーマPrāṇāyāmaです!
この経験を得るために、霊的志願者はプラチャルダナPracchardana(すべての外部物体に浸透するプラーナを視覚化する)とヴィダーラナVidāraṇa(内部の全感情に浸透するプラーナを知覚する)を組み合わせたプラーナーヤーマPrāṇāyāmaを始めす必要があります。不断の実践にともなって、マインドは特殊化し、自然に無限(アナンタ・サマーパティananta samāpatti)と融合します。これにより、プラーナーヤーマPrāṇāyāmaの道がさらに容易になります。
このことから、プラーナヤーマPrāṇāyāmaの目的を単なる吸気、滞留(停止)、呼気に限定している人々が、ヨーガの道に、赤ちゃんの足取りすら踏んでいないことは明らかです。
バーヒャービャンタラ・シュタムバヴルッティハ・デーシャ・カーラ・サンキャービハ・パリドゥルシュタハ・ディールガ・スークシュマハ
意味:プラーナーヤーマPrāṇāyāmaには、内的、外的、抑制(スタンバsthamba)の行為がある。場所、時間、回数に応じて調整され、時間の長短と回数の多少が生じうる。
四詞からなる詩句。プラーナーヤーマPrāṇāyāmaのより重要な側面について詳しく説明します。
プラーナーヤーマPrāṇāyāmaには、外部(バーヤbāhya)、内部(アビャアンタラabhyantara)、および微細(スークシュマsookṣma)の3つのタイプがあります。
バーヒャヴルッティ・プラーナーヤーマBāhyavrtti prāṇāyāma:これは一般に呼気と解釈されます。ただし、ヨーガシャトラによると、これはプラチャルダナPracchardana、つまり、創造物(身体)の外部にある物体に浸透するプラーナ(生命の力)を知覚します。宇宙の動く物体と動かない物体がプラーナPrāṇaで満たされていることに気づきます!これは経験的な理解であるべきです!
アビャンタラ・プラーナーヤーマAbhyantara pranayama:一般に完全な吸気と解釈されます。しかし、怒り、情欲、欲望、想像力など、さまざまな感情や気持ちが(身体の)内部に存在します。それらすべてを通るプラーナPrāṇaの流れを体験するのが、アビャンタラ・プラーナーヤーマAbhyantara prāṇāyāma。
スタッムバ・ヴルッティ・プラーナーヤーマSthamba vrtti Prāṇāyāma:一般に、吸入された呼吸が数分間保持(滞留)することを意味します。ただし、実際には、上記の2つの過程を停止させ、プラーナ・シャクティPrāṇa-śaktiのみに集中することを意味します。
これら3種のプラーナーヤーマPrāṇāyāmaが、継続的に長期間にわたって実践されると、準備が整い、プラーナーヤーマは場所(デーシャdeśa)、時間(カーラkāla)、および回数(サンキャsankhya)への開始とつながります。
デーシャ・プラーナーヤーマDeśa Prāṇāyāma:場所に関連したプラーナーヤーマPrāṇāyāma。ここでの「場所」は「身体」を意味します。生命力(プラーナ)は身体の特定の箇所に保持され、崇拝されます。同様に、「プラーナが空間の姿を取り、すべての物体を下支えし、照らすのは私の生命の力である」という確固たる信念は、デーシャ・プラーナーヤーマdeśa prāṇāyāmaです。
カーラ・プラーナーヤーマKāla prāṇāyāma:一般的に、呼吸が体内に保持される持続時間として解釈されます。しかし、「私の生命力は時間へと変異し、時間はこの創造物(身体)全体の交流の起点となった」と強い信念を持つことが、本当の「カーラ・プラーナーヤーマkāla prāṇāyāma」です。
サンキャ・プラーナーヤーマSankhyā prāṇāyāma:吸気と呼気を追い続ける全般は、サンキャー・プラーナーヤーマSankhyā Prāṇāyāmaとみなされます。ただし、無数の物質で構成される巨大な創造物(身体)には単一の生命の力が流れ、「真我」がすべてに遍在していることを経験的に理解することは、サンキャ・プラーナーヤーマSankhyā prāṇāyāmaとみなされます。
さらに、ヨーガシャストラYogashastraでは、プラナーヤーマが長期間にわたって実践されるときは、ディールガ・プラーナーヤーマDeergha prāṇāyāmaと呼び、一方、短期間の実践は、スークシュマ・プラーナーヤーマSookṣma prāṇāyāmaと呼ぶことが記載されています。
バーヒャーヤンタラ・ヴィシャヤークシェーペー・チャトゥルタハ
意味:バーヤンタラBāhyantaraとアビャーンタラ・プラーナーヤーマ・Abhyāntara Prāṇāyāmasの停止、つまり完全な呼吸抑制は、シュタムバ・ヴルッティ・プラーナーヤーマSthamba-vrtti Prāṇāyāmaとして知られる。これは第4段階目である。
二詞からなる詩句。プラーナーヤーマPrāṇāyāmaの4番目のステージについて説明します。
吸気、呼気、および呼吸保持で構成されるプラーナーヤーマは、外気の動きに関係します。これは霊的志願者が瞑想の状態に到達できるようにする上で極めて重要な役割を果たします。この種のプラーナーヤーマを継続的に実践し、その専門知識を得る志願者は、徐々にプラーナーヤーマの状態に自然に留まり始めます。
人の内面と外面に生命の力が行き渡っている、つまり創造物全体に行き渡っている生命の力を見ることができるようになった時点で、その人の吸気と呼気は必然的に終了します。これは個人的な経験を通してのみ理解できます。ヨーガ・シャストラYoga Shastraでは、そのような状態をケーヴァラ・クムバカ・プラーナーヤーマKevala-kumbhaka prāṇāyāmaと定義されています。
志願者がすべての外的およびすべての内的オブジェクトや感情との関係を解消し、場所(deśa)、時間(kāla)、および数(samkhya)の制限を超えて、安定または彼の意志で生命力(prāṇapratiṣṭa)を握れば、Sthamba-vrittiPrāṇāyāmaを実践できます。
プラーナーヤーマの初期の安定は、外的および内的感情の助けによって得られます。この分野での実践と習得が徐々に進むにつれて、この安定性は外部からの支援なしで得られます。純粋に生命力の助けを借りて、プラーナーヤーマが実行されます。その後、ヨーギは高度な瞑想状態に向かって旅し、真我の完全な本質を理解する準備が完了します!
タタハ・クシェーヤテー・プラカーシャーヴァラナム
意味:プラーナーヤーマPrāṇāyāmaにより、マインドの固有の光輝の能力を阻止するすべての覆い(アーヴァラナāvarana)が破壊される。その結果、マインドは自然にすべての物体の真の知識を把握します。
三詞からなる詩句。プラーナーヤーマの有用性について言及されています。
本質的に、マインドは最も純粋な原子で構成されています。しかし、外部の物体と内部の感情に惹かれ、マインドはそれらと結合します。結果として、物体に関連する情熱(ラジャス)と無知(タマス)の特徴は、心を汚し、操り、真我の光輝の程度を低下させます。プラーナーヤーマの修練を通して、マインドの光輝を覆い隠すこれらのベールは破壊されます。したがって、マインドは純粋に光を放ちます。
ダーラナース・チャ・ヨーグヤーター・マナサハ
意味:激情と無知の覆いが洗い流されると、マインドは無限に集中する能力を獲得する。一点集中(ダーラナ)を完成させる。
四詞からなる詩句。心を包むベールが破壊された後はどうなりますか?これについて説明します。
マインドそれ自体が無限に定め続けられる対象が見つからない限り、対象から別対象へと移り気を起こす傾向があります。探していた対象が見つかると、揺れ動きの傾向を破壊し、それ自体を安定させます(ダーラナdhāraṇa)。言い換えれば、マインドは完全に集中し、無制限に同じ対象を熟考する能力を開発します。この能力により、人はヨーガの道に入ります。
スヴァ・ヴィシャヤー・サムプラヨゲー・チッタ・スワルーパーヌカーラ・イヴァ・インドリヤーナーム・プラティヤーハーラハ
意味:感覚が世俗的な物体への傾倒を放棄し、マインドに溶け込むとき、それは感覚の引き込みと呼ばれる(プラティヤーハーラpratyāhāra)。言い換えれば、感覚は弱まり、収縮し、マインドに融合しなおす。
五詞からなる詩句。ヨーガの5番目の肢であるプラティヤーハーラPratyāhāraについて説明します。
知覚のための5つの器官が興味の対象と完全に分離すると、それらはマインドの姿を獲得します。これにより、マインドは後退します。
目、耳、鼻、皮膚、舌は感覚器官として扱われます。実際には、それらは感覚ではなく、感覚(インドリアindriyas)の入り口にすぎません!マインドは、(情報などを)処理するための意識(マナスmanas)、識別のための意識(ブッディbuddhi)、自我のための意識(アハンカラahamkara)、チッタchitta(印象の貯蔵庫)の4つ要素から構成されます。感覚器を流れるエネルギーは、感覚器を媒介することで、その存在を知らしめます。
不断の実践により、プラーナーヤーマPrāṇāyāmaの際限ない状態となり、自分を確立します。その後、マインドは揺らぐ傾向をあきらめ、生命の力に溶け込みます。感覚は、自らが無力化したと感じた時点で、マインドの中に避難を求めます。マインドが安定するに従い、感覚は弱くなります。このように感覚を無力にすることはプラティヤーハーラーPratyāhāraと呼ばれます。言い換えれば、熟考の対象にマインドをしっかりと定めることが、プラティヤーハーラーPratyāhāraです!
タタハ・パラマーヴァシャター・インドリヤーナム
意味:感覚は、プラティヤーハーラPratyāhāraを習得した人の従属する。それらは、完全にその人の支配下にある。
三詞からなる詩句。プラティヤーハーラPratyāhāraの状態の有用性について説明します。
人が欲望の目的に向かって走る感覚を抑制でき、それらを完全にマインドに融合させることができれば、感覚は素直にその人の制御範囲内に留まります!
この状態に到達することは、その人が見たり聞いたりした物体に対する離欲(平静さ)を習得したことを示します(ヴァシーカーラ・サムギャー・ヴァイラギャvaśīkāra-samgyā-vairagya、第1章15詩句で説明)。好き嫌いの感情を克服した志願者は簡単に感覚を抑制し、それらを制御することができます。時として、感覚が欲望の目的に向かって走る場合、安定したマインドはそれらを引き戻し、それらに融合する能力が備わっています!
プラティヤーハーラを完成させた志望者では、感覚は世俗的な物体への傾倒を発達させることができません。一点集中を極めた志望者のみが至福を味わうことができます!
これで第二章を終わります。サーダナSādhanaは方法を意味します。ヨーガシャストラYogashastraの元のメッセージから逸脱することなく、ヨーガの状態を達成するためのすべての方法論を、可能な限り簡単な言葉でここで説明しました。次章『ヴィブーティ・パーダムVibhuti Pādam』では、ディヤーナDhyānaとサマーディSamādhiの状態について学びます!
経典『ヨガ・シャストラ』の全章を通じて論じられる主題は、マインドの安定を達成するための有用な道具についてです。第一章「サマーディ・パーダム」では聖仙パタンジャリの意図と感性を理解することが困難であった場合、本章の「ヴィブーティ・ヨーガ」を完全に理解するためには、より深い分析が必要であるのは明らかです。サッドゥグルの祝福を受けた人だけが、本章「ヴィブーティ・パーダム」でもたらされる主の栄光を理解することができます。
ヴィブーティVibhūtiは超越的、超自然的または奇跡的な力を指します! 本章全体は、ヨーギ(ヨーガ熟練者)によって得られた超自然的な力を説明することに特化しています。志願者がヨーガの道を進むにつれて、いくつかの超自然的な力が自然と身に付きます。志願者の手を引き、導くことで、彼らに完全な離欲を達成させようとする善き教師やサドゥグルのように、これらの超自然的な力は、自分たちの思い通りになり、志願者に声をかけます。 これらは、真我の様々な顕現にすぎません。それらは至高の主の神的な栄光です! すべて生類の中に本質的に存在する神性を照らします!
それらはヴィブVibhu、つまり至高の主に関係しているので、ヴィブーティVibhutiと呼ばれています! 純粋にサッドグルの恩寵のために、志願者はこれらの超自然的な力を体験し、手に負える範囲内で確実にその力を保持する能力を養います サッドグルの祝福がなければ、志願者はその奴隷になります。サッドグルの祝福があってこそ、志願者はその力の主人になります。
本章で聖仙パタンジャリが説明する超自然的な力には、他人の心(思考)を読む能力、動物や鳥の言語を理解する能力、浮揚力、透視力、神聖な予見、過去世の記憶などがあります。列挙される内容は、徹底的に調査されています。その力とともに、その目的と有用性も理解する必要があります。
ヨーガの八肢のうち、第二章で説明されたのは5本だけです。これらの5肢は、いかなる方法でも超自然的な力を誘発しません。それらは、志願者がヨーガのより高い状態に到達することを可能にする主要な、しかし基礎的な道具です。それらの5肢を習得しない限り、志願者は本章で述べた状態に到達することができません。
これらの超自然的な力を付与するのは、ヨーガの最後の3肢、つまりダーラナdhārana、ディヤーナdhyāna、サマーディsamādhiだけです!
ヨーガの残りの3肢、すなわち、ダーラナ(一点集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディー(絶対的な融合)の総合的な実践は、サンヤマSamyaṃaと言われます。特定の対象に対するサンヤマの練習を行うことで、その対象に関連する超自然的な力がヨーギに生じます。
(サンヤマsaṃyama(第四詩句にて説明)は、超自然的な力を体験するための基本的な道具であるため、本章全体で繰り返し使用されるので覚えておいてください。本章を理解するための鍵です)
聖仙パタンジャリは、残りの3肢、つまりダーラナ(絶対的集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディー(絶対的融合/霊的専心)に関する説明から、本章を開始します。 同時に、彼はそれに込められた秘密も私たちに説明します。
第3章目次
1) 集中に関する定義(ダーラナ)
2) 熟考/瞑想に関する定義(ディヤーナ)
3) 融合に関する定義。一点熟考(サマーディ)
4-6) 三要素の統御のための練習の定義(サンヤマ)
7-8) ヨーガの内的・外的な肢
9-15) 一点熟考の過程におけるマインドの変異
16-49) 特異な熟考/瞑想から得られる「超自然的な力(シッディ)」
50-51) 平静さ(ヴァイラーギャ)の最上級の形。力に対する無頓着さ。そして、最終段階での障害。
52-55) 真の自己の絶対的な解放(カイヴァルヤ)へと導く最終段階
デーシャ・バンダハ・チッタシャ・ダーラナー
意味:ダーラナDhārana(絶対的な集中)は、意識(チッタchitta)を一箇所(デーシャdeśa、空間・場所)に結び付けることを意味する。 それは、落ち着きのないマインドをある特定の場所に定め、一点に確実に留めようとすることを意味する。
三詞からなる詩句。一点集中法(ダーラナdhāraṇa)の実践方法とその有用性について焦点を当てて解説します。
場所(デーシャdeśa)は、内部でも外部でもかまいません。 名前と形状により構成される粗大体は、外部の場所です。 経験はできるが、形を持たない幸福、悲しみ、怒り、愛、欲望といった諸々の感情は、内部の場所と呼ばれます。
さらに、ムーラダーラ・チャクラMooladhāra chakraから始まる6つの神経叢は、霊的な場所です。 これらの霊的な場所は、内側の場所の一部を形成しています。 ジャパjapa、マントラmantraの詠唱、聖典(パーラヤナpārayaṇa)の読解、その他の儀式も、内部の場所として分類されます。
様々な場所どこであろうが、マインドが一箇所に安定したなら、志願者は認知した上で、より一層そこに集中する必要があります。人は、ここから絶対集中に向けて試みを始める必要があります。
「バンダハbandhaḥ」という言葉は「つなぎ合わせること」を意味します。また、融合(統合)の意味も示唆します。前章では、「プラトヤーハラPratyāhara」(感覚の引き込み)の努力が「絶対集中」(ダーラナdhāraṇa)へ志願者を導くことを説明しました。単に外部または内部の対象物にマインドを定めるだけでは、絶対的な集中は達成できません!それに加えて、マインドは「神」または「至高の本質」と呼ばれる味に導かれるべきです。この味を味わい始めたマインドだけが、特異な時機に、安定する力を手に入れます。
生命の力(プラーナ・プラティシュタprāṇa pratiṣṭa)の完全に安定化していない者、真理の道を確立していない者、吸入と呼気を体系化したプラーナーヤーマPrāṇāyāmaを習得していない者は、一点集中(ダーナラ)を習得することはできません!だからこそ、プラーナヤーマを習得し、安定した者だけがダーラナにたどり着きます。
体系的にヨガの道を進み、絶対的な集中状態(ダーラナ)に達した人は、テレパシー、透視、予知、透聴などの超感覚的な知覚を獲得します。他の人には見えないものを見ることは、「アロウキカ・ダルシャナaloukika darśana」または千里眼(透視)と呼ばれます。他の人には聞こえないものを聴く力は、「ディヴヤ・シュラヴァナdivya-śravana」または透聴として知られています。
たとえば、一点集中を習得した志願者は、ムーラダーラなどの霊的な場所にマインドを向けると、マインド、生命力などの5大元素の背後にある原理を理解します。
最初の段階では、志願者は粗大体の援助により集中します。徐々にマインドが純粋で微細になると、集中力を得るために微細な物体の助けを借り始めます。
サッドグルとは、志願者が集中力を得るための解決策を見つけることができる教師のことですが、志願者の状況に応じて理想的な援助をする人々の助けのみを得ることを奨励しています。また、グルは、人に教示し、適切に導きます。このため、サドゥグルの祝福がなければ、志願者は精神的な分野で進歩することができないと言われています。
トトラ・プラチィヤヤ・エーカターナター・ディヤーナム
意味:瞑想(熟考)の過程(ダーラナdhāraṇa)の間に、マインドが瞑想(熟考)の対象に確実に定まる場合、それは瞑想(ディヤーナdhyāna)と呼ばれる。
三詞からなる詩句。ここでは、ヨガの第7肢である瞑想(ディヤーナdhyāna)について説明します。
「プラティアヤpratyaya」という用語は、一般的に「信仰・信条」の意味として理解されています。 「プラティアヤ」とは、お気に入りの物や神を心や眉間の中心に着実に保持するための取り組みも指します。腹部の上の領域で瞑想の対象を保持し、それを瞑想することは健康的な習慣です。体の下部でそれらを熟考することは、タントラにおいては平凡な伝統です。
対象が外部であるか内部であるかは重要ではありません。集中力が長期間途切れることなく着実かつ継続的に保持される場合、それを瞑想と呼びます。この連続的な流れは「エーカターナタekatānata」と呼ばれます。
瞑想(熟考)していると言う人をよくみかけます。しかし、本来は、瞑想は意図的な所作ではなく、自然かつ楽に起こることです。一点集中を達成するための不断の努力が実を結ぶとき、それは瞑想に変わります。瞑想が止まったときも、集中力は続きます。
集中力(ダーラナdhāraṇa)は、均一で安定した集中的な意識の流れがない限り、習得することはできません。最初に経験したのと同じ振動が期間を通して続くときだけ、集中は安定します。集中力が実を結ぶと、瞑想が始まります!不安定でさまようマインドでは集中できません。マインドがある思考から別の思考へと絶えずジャンプするために、特定の対象への注意が、安定した流れに欠如します。集中力自体が不足しているときに、そのような人はどのようにして瞑想状態になることができますか?したがって、私たちは不安定なマインドが瞑想の最大の敵であると結論付けることができます!
サドゥグルによって教えられてきた伝統的な方法に従って集中力と瞑想を実践することにより、マインドが静けさと安定を確実に得ることができます。神の映し姿は穏やかなマインドの中でのみ保持することができます。初歩の段階では、人は形と属性を持って主に焦点を合わせることによって進歩します。瞑想の過程を通して、それは人が属性と姿のない絶対的な主に集中することができる状態に結実します。ヨーガ・シャストラによると、これは最高の状態です。
人が形状の有無にかかわらず主に焦点を合わせるかどうかは関係ありません。より重要なことは、特定の対象に対する意識の安定した流れを達成することに焦点を当てることです。この慣習に確実に従う人は瞑想に進みます。そのようにして人は神の本質と呼ばれる蜜を味わう資格があります。ヨーギは今、この甘露の味を途切れることなく楽しんでいます。これが瞑想です!これがヨーガです!
タデーヴァ・アルタマートラ・ニルバーサム・スヴァルーパ・シューンヤム・サマーディハ
意味:サマーディ(完全な没頭)は、志願者が自身の外格を忘れ、瞑想の対象との一体感を経験する瞑想の状態である。
ヨガの第8肢であるサマーディSamādhiについて説明します。
六詞からなる詩句。集中(ダーラナdhāraṇa)が結実すると、瞑想(ディヤーナdhyana)が実現します。瞑想が変異するとき、それは完全な没頭(サマーディsamādhi)に変わります。
瞑想が途切れることなく無限のパターンで流れると、2つの特徴が見えてきます。それらはアルタ・マートラ・ニルバーサムartha-mātra-nirbhāsam(瞑想の対象の完全な光輝)とswaroopa śūnyatvam(形状の喪失)です。
アルタ・マートラ・ニルバーサムArtha-mātra-nirbhāsamは、瞑想の対象についてあらゆる側面を完全に理解することを意味します。この物質的な世界では、私たちがどんな物体に関する知識も限定的です。しかし、瞑想状態において、私たちがあらゆる物体について得た知識は、あらゆる意味で完全です。
例を考えてみましょう。私たちは皆、ハイビスカスの花のことはよく知っています。何百種類もの花を混ぜても、この花を知覚することができます。したがって、私たちがこの花について完全な知識を持っていると考えるのは当然です。しかし、真実は私たちの憶測からはほど遠いです!
瞑想中にハイビスカスの花について得られる知識は、この普段の生活で得られる知識とは似ても似つかないです。花びらは何枚ありますか?その中にいくつの雄しべがありますか?雄しべ上部の形状は?球根にはいくつの開口部がありますか?花に関する詳細な情報のほとんどは、瞑想中に明らかになります。普通の人にはないような知識です!
したがって、これは「完全に理解した状態」として知られています。瞑想の対象に関する深く完全な理解は、アルタ・マートラ・ニルバーサムartha-mātra-nirbhāsamとして知られています。
2番目の特徴はスワルーパ・シューンヤトヴァムswaroopa śūnyatvamです。ヨーガ実践者のマインドが元の無の状態に達したように見えます。彼は存在しますが、存在しないも同然です。言い換えれば、ヨーギは自身の存在を完全に忘れて、瞑想の対象に溶け込みます。これはスワルーパ・シューンヤトヴァムswaroopa śūnyatvamです。
私たちの目には彼が見えます。しかし、彼はこの世界とその存在を意識していません!彼が見たり聞いたりするものは何もありません。触覚さえも彼には欠けているでしょう。彼は無の状態になります。この点を強調するために、「イヴァiva」という単語の末尾に「シューンヤśūnya」という単語が付けられています。
志願者が瞑想を始める初期の段階では、瞑想している人(ディヤータdhyāta)、瞑想の対象(ディヤェーヤdhyeya)、瞑想のプロセス(ディヤーナdhyāna)の3つの特徴的な統一体があります。人が瞑想のより高い段階に進むときの継続的な実践を通して、志願者(ディヤータdhyāta)のマインドは瞑想の対象(ディヤェータdhyeya)に融合します。このため、瞑想している人のマインドは無の状態になっていると言われています。
一定期間後、瞑想が結実すると、瞑想のプロセス(ディヤーナdhyāna)も停止します。また瞑想の対象(ディヤェーヤdhyeya)に融合します。この完璧な融合がサマーディsamādhiです。このため、サマーディの間、瞑想の対象の本当の姿が際限なく照らされ続けます。
一般的に、知識は、内部と外部の2つのタイプがあります。しかし、サマーディでは、内なる知識だけが光ります。いかなる種類の外部知識も存在する余地はありません。
「私」と「私のもの」といった感覚は、完全に融合した状態ではまったくありません(サマーディ)。真我の本質だけがいたるところに見えるだけでしょう。これはサマーディを達成した究極の結果です!これは終わりのない至福です!これが享受されるべき蜜源です!それはラソ・ヴァイ・サハraso vai saḥとして知られています。
意味:特定の物体への集中(dhāraṇa)、瞑想(dhyāna)、完全な集中/没頭(samādhi)の総合的な実践は、Saṃyamaと呼ばれます。言い換えれば、それはマインドの完全な統御である。
霊性の探求の度合いに応じて、志願者のマインドは、集中(dhāraṇa)、瞑想(dhyāna)、完全な融合(samādhi)の3つの段階で安定します。彼は、ヨガの最後の3つの肢を組み合わせて同じ対象に集中することができます。ヨガの最後の3つの手足を組み合わせて、同じ対象に集中することができるのである。このような集団的な実践は、「Saṃyama(完全なる精神的抑制)」と呼ばれます。
意味:精神的な自制(saṃyama)を習得することで、超越的な知恵(prajnāloka)の閃光がその人に夜明けをもたらす。
意味:完全な精神的抑制(saṃyama)は、それに適用できるさまざまな段階にのみ体系的に適用する必要があります。つまり、観察者(gṛhita)、観察のプロセス(grahaṇa)、瞑想の対象(grāhya)にのみ適用する必要がある。
意味:これらはヨガの3つの内肢です。
最高の段階、つまり種のない瞑想(Nirbijasamādhi)では、これらの3本の手足でさえ外部と見なされる。 言い換えれば、瞑想の最終段階では、saṃyamaでさえ外部プロセスと見なされる。
意味:完全な精神的抑制(saṃyama)への努力が強まると、揺れる自然な傾向が頭の中でおさまる。その瞬間、安定性の新しい潜在意識の印象が現れる。
意味:抑圧の微妙な印象が強まり始めると、精神は静けさの安定した流れを経験します。瞑想は途切れることなく着実に続けられる。
意味:多くの物体に焦点を合わせる傾向(sarvārthata)が減少し、単一の物体にのみ焦点を合わせる傾向が高まると(ekāgrata)、精神は完全な吸収状態になる(samādhi)。
意味:同じ焦点(物体に)が生じて繰り返し沈静化すると、精神は一点集中(ekāgratā-pariṇāma)と呼ばれる変化を達成したと言える。
意味:5つの基本的な要素、5つの微妙な要素、10の感覚、つまり5つの行動器官、そして5つの知覚器官においてさえ、これらの3つのタイプの変化が見られる。それらは外見の変容(ダルマ・パリṇāma)、特徴の変容(lakṣaṇapariṇāma)そして状態の変容(avasthapariṇāma)である。
意味:休眠状態(śānta)、出現状態(udita)、および顕在化しない状態(avyapadeśya)を厳密に順守する物質は、ダルミとして知られる。時間、潜在的な微妙な印象、またはその他の原因のいずれかによって絶えず変化し、元の形で繰り返し再出現する物質のことである。
このようにDharmīとは、休眠(śānta)、出現(udita)、未顕現(avyapadeśya)という三つの性質を持つすべての対象を活気づける人のことである。
意味:特性の連続的な進行が異なることで、外見の違い(見え方の違い)が生じる。
意味:過去と未来の時代の知識は、saṃyamaが3つのタイプの変容に向けて実践されるときに得られる。 3つのタイプの変換は格言13で説明した。つまり、外観の変異(dharmapariṇāma)、特性の変異(lakṣaṇapariṇāma)、および状態の変異(avasthapariṇāma)である。
音(śabda)、その意味(artha)、そしてその背後にある考え方(pratyaya)は常に混ざり合っている。しかし、意味と考えを脇に置いた音だけに焦点を当てることによって、ヨギはsarvabhūta-rutajnāna(創造物のすべての音の完全な知識)と呼ばれる超自然的な力を手に入れた。
意味:微妙な印象(サムスカーラ)を精神的に自制(saṃyama)し、それらを直接知覚することにより、ヨーギ(ヨガ実践者)に過去世の知識が生じる。
意味:パラチッタは、「至高の精神」、つまり至高主またはマハチッタの精神のことである。この至高の精神は知識の具現化である。 精神的な自制(saṃyama)が至高の精神で実践でき、ヨーギがそれを切り抜けることができれば、彼はこの宇宙のすべての異なる生き物の精神を理解することができる。この偉業は、パラチッタ・ジニャーナとして知られる。
意味:相手の心を知るための根本的な裏付け(ālambana)はない。未知のままである。
意味:自分の体で精神的な自制(saṃyama)を練習することによって、その知覚力(grāhyashakti)が阻止される。その結果、目や他の感覚はそれらの対象から撤退する。 「自分を見えなくする」という超自然的な力が得られる。
意味:音や他の感覚のサンヤマを通じた感覚の消失が説明されている。
意味:プラーラブダ・カルマ(prārabdha karma)の顕在部分と潜在部分のサンヤマ(saṃyama)を通して、ヨーギは自らの死が近づいていることを予測することができる。一般の人は、前兆(ariṣṭa)の知識に基づいて自分の死を予測することができる。
manōnivṛttiḥ paramē ca śāntiḥ, sā teerthavaryā maṇikarṇikā ca jnāna-pravāhā vimalā ca gangā, sā kāśikāhaṃ nijabodha rūpā:
この詩句は、真我実現を達成することが、カシに住むことの真の意味であると述べています。
意味:親しみやすさ(マイトリmaitri)、思いやり(カルナkaruna)、幸福(ムディタmudita)などの130個の特性について自制を実践することにより、これらの特性は人を強め、急上昇させる。 その結果、ヨガの道はたどりやすくなります。
意味:獅子や象などの 巨大で、パワフルな動物に意識を集中させ、自制を実践することで、ヨーギはそれ以上の体力を身につけることができる。
意味:照らされた超感覚体験(pravṛtti ālokya nyāsa)において自制(saṃyama)を実践することにより、対象物が微細であるか、視界から隠されているか、離れた場所にあるかに関係なく、対象物に関する完全な知識が生まれる。
ブヴァナ ジニャーナム スーリャエー サンヤマート
意味:太陽へのサンヤマ(saṃyama)を通して、様々な惑星系に関する全知識が得られる。
様々な微細な惑星系の完全な知識として知られる超自然的な力(ブーヴァナbhuvana)について説明します。
特に集中的な光輝を持つその物体は、太陽として知られています。文法に関する経典には、太陽の光は全宇宙に行き渡っているため、太陽は「スーリヤSūrya」と呼ばれていると書かれています。太陽の上でsaṃyamaを修行すると、さまざまな微細な宇宙のすべてが照らされ始め、知識を放射し始めます。
太陽は、創造物の中のすべての生き物の生命力(プラーナprāṇa)を司る神です。それは、宇宙の生命力と個人の生命力のためのエネルギーを与える主です。これらの微細な領域(惑星系またはブーヴァナbhuvana)は、この生命力(プラーナprāṇa)の変異にほかなりません。
ブハBhuḥ、ブヴァハBhuvaḥ、スヴァハSuvaḥの惑星系は、総称してトリブヴァナTribhuvana(3つの世界)として知られています。その中でブーロカBhu-loka(地球)は最も低い惑星系であり、スヴァハSuvaḥは最も高い惑星系である。7つの下位惑星系はブハBhuḥ (地球)に関連しています。7つの高次元(7つの天)は、スヴァハSuvaḥと密接に関係しています。これらの高位界と低位界は、まとめて中位界Bhuvaḥに関係します。このことから、すべての異なる存在の次元が最終的にはブヴァハBhuvaḥにのみ関係することがわかります。したがって、それらは総称してブーヴァナBhuvanaとして扱われます。実際には、これらの領域は知識のさまざまな段階を表しているのです。
聖典には14の種類があります。惑星系もそうですが、その中でも、Mumukṣuvu, Mumukṣutaru, Mumukṣutamu, Brahmavidu, Brahmavidvarīyān, Brahma-vivariṣṭaは、7つの高次元です。これらの領域は、7つの高次の霊的進歩を表しています。これらは、霊的進歩の7つの高次元を表しています。7つの低次元は、Baddha, Baddhatara, Baddhatama, Moodha, Moodhatara, Moodhatama, Jadaです。それらは、下降の旅や転落を表しています。
3つの世界の中で、この総体はブ・ロカBhu-lokaまたは地球です 私たちの繊細な身体はブヴァル・ローカBuvar-lokaです。私たちの因果体は、Suvah-lokaです。これらの存在の次元は、総体、微細体、因果体のいずれであるかにかかわらず、知識の姿にほかならないことを実際に経験すること自体が、この詩句で説明されている超自然的な力です。
チャンドレー ターラー ヴューハ ジニャーナム
意味:月への自制を修行することで、星とその配置に関する知識が生まれる。
月はマインドの主宰神である。月を対象にsaṃyamaを修行する志願者は、宇宙にある無数の星座は、自分自身のさまざまな姿に過ぎないことを経験的に理解するのです。
アシュウィニ(Ashwini)から始まる27の星がある。これらの星はそれぞれ星座に属している。これらの星とその星座は、ターラーヴューハム(tārā-vyūham)として知られています。月はこれらの星座の主であるため、これらの星座と切っても切れない関係にあります。
前述の詩句では、太陽のsaṃyamaを通じて、すべての惑星系に関する知識が得られると述べました。ここで疑問が生じるでしょう。星はそれぞれの惑星系内に存在する天体です。したがって、すべての星についての知識も自動的に得られるということにならないか。なぜ、星についての知識は別に強調されなければならないのか?という疑問が、読者の心に浮かぶのは当然でしょう。その通りです。
しかし、ここで理解されるべきは、太陽に対してsaṃyamaを実践することで、集合的な知識のみが生じるということです。それぞれの対象についての個別の知識は生じません。すべての対象の背後にある真の完全な知識を知るまでは、そして知らなければ、究極の無執着(パラヴァイラギャpara-vairagya)の状態に到達することは難しいでしょう。特定の対象物に対するsaṃyamaによってのみ、その対象物に関する完全な知識が生じます。それだけではありません。集中する対象に関連する対象についての知識も生じます。
意味:北極星(dhruva)への自制を通じて、星の動きの背後にある微細な秘密が生じるであろう。
意味:へそチャクラのサンヤマを通じて、身体の構造に関する知識を得ることができる。
意味:頸部にある窪みのサンヤマを修行すると、「飢えと渇きの消滅」という超自然的な達成を得ることができる。
意味:クルマ・ナーディ(アナーハタ・チャクラ)のサンヤマを通じて、不動と安定を得ることができる。
意味:アジュナ・チャクラの光(moordha-jyoti)のサンヤマを行うことで、最高のヨーガの習得者(siddhās)の模範像(ビジョン)を得ることができる。
意味:もしくは、直感的な知識の突然の閃きによって、すべての超能力が突然獲得される。
意味:心臓のサンヤマにより、意識(chit)の知識が得られる。
意味:知性と真我は、ともに無限で純粋であるが、異なる実体であり、いかなる状況でも融合することはできないという知識は、最も至高の経験(bhoga)である。この至高の経験さえも捨て、代わりに純粋な意識(自己の光輝、スワルタ)に対してサンヤマ(saṃyama)を実践することで、真我の知識を得ることができる。
意味:純粋な意識に関するサンヤマによって得られた自己認識により、聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚といった神聖な超越的能力が得られる。
意味:神聖な超越的な能力は、サマーディ(霊的専心)の道に対する障害物である。サマーディの状態にないときだけ、それらは神聖な成果になる。
意味:束縛を捨て、心が純粋に知識の体現であることを経験的に悟ることによって、自分の意識を他人の身体に伝えるという超自然的な能力が達成される。
意味:上向きの風(Udāna)に打ち勝つことによって、霊的志願者は水、泥、粘液、棘からの自由を得る、すなわちそれらに対する不感症が身につく。この超自然的な達成は、utkrānta-rūpa-vibhutiとして知られている。
意味:サマーナ・ヴァーユ(Samāna vāyu)に勝利することで、神聖な輝き(Jwalanaṃ)が得られる。
意味:空間と耳(聴覚器官)の関係性においてサンヤマすることで、超自然的な能力である千里眼を得ることができる。
意味:もし、空間と身体の関係についてサンヤマが実践されれば、ヨーギはlaghu-tūla-samāpattiと呼ばれる超自然的な力を得ることができる。「トゥーラ」とは綿のことである。身体は綿よりも軽くなり、空中を飛ぶことができる(ākāśa gamana)。
意味:マハー・ヴィデハ・ダーラナ(Maha-videha dharaṇa)と呼ばれるサンヤマによって、知性(ブッディbuddhi)を包むヴェールを破壊する。
意味:各要素の総形(sthūla)、物質的原因(swaroopa)、微細な形(sookţma)、連結性(anvaya)、目的性(arthavattva)に対するサンヤマを通じて、ヨーギは「要素(bhūta-jaya)の克服」という超自然的な力を達成するのである。
意味:元素(bhūta jaya)を征服したヨーギには、アニマのような8つの超自然的な力(aṣṭasiddhi)が生じる。身体の完成が達成され、その機能も明確に現れる。このことから、元素の支配(bhūta jaya)を通じて、これらの有名な8つの超自然的な力がヨーギに現れることは明らかである!
意味:姿(rupa)、優美さ、強さ、ダイヤモンドの頑丈さは、身体の完全性(kāya sampada)を構成している。
意味:知覚の力(grahaṇa)、対象の本性(swaroopa)、私という感覚(asmita)、相関(anvaya)、目的意識(arthavatva)という五感の質についてサンヤマを実践すると、五感を支配する(Indriya jaya)こととなる。
意味:感覚を克服することによって、心の速さ(manojavitva)、14の知覚の器官からの解放(vikaraṇa bhāva)、自然の克服(pradhāna jaya)などの超能力が達成される。
意味:自己と純粋な知性(buddhi sattva)の微細な区別についてサンヤマが実践されるなら、すべての存在の状態に優越し、全知全能を得る結果となる。
意味:完全な無執着の気持ちで、上記のすべての超自然的な達成を捨て、束縛の種を完全に破壊したとき、絶対的な解放(kaivalya)に到達する。
意味:たとえ最高の称賛者達から深く賞賛されたとしても、絶対的な解脱への道を歩んでいるヨーギは、愛着を示したり、お世辞を言ったりしてはいけない。そうすると、この幻の世界に再び閉じ込められる危険性がある。
意味:時間の動きとその連続性についてサンヤマ(saṃyama)を実践することで、ヨーギの中に真意を見極めるための知識が生まれる。
意味:人間は識別的知性(上記で説明)により、起源(jāti、種)、特徴(lakṣaṇa)、空間における位置(deśa)に基づいて、通常は区別できないような類似の対象の中から真理を見極めることができる。
意味:すべての創造原理をその本質とともに一度に完全に知ることによって生じる解放的な知識(tāraka jnānam)が、識別的知性(viveka jnānam)である。
意味:自己と純粋な知性(buddhi sattva)が同じレベルの純粋さを経験するとき、絶対的な解脱が起こります。
第三章では、終盤に向けて、真我と知性(ブッディ・サットヴァbuddhi sattva)が同じレベルの純度に達したときに解放が起こることについて言及されました。聖仙パタンジャリは、『ヨガ・スートラ』の第一章「瞑想の道(サマーディ・パーダム)」の最初の四詩句が、本経典全体の核心を要約していること、そしてのその他の詩句は、その内容を詳細に説明しているに過ぎないことはすでに説明済みです!
本章「カイヴァルヤ・パーダムKaivalya Pādaṁ」では、他の章で教示した論理的な解釈を整理しながら、より詳細な説明を補足します。本章は、『ヨガスートラ』の付属書として相応しい詩句群として扱うことができます。ただし、いくつかの詩句では、新しい概念も導入されています。 ここで説明される様々な詩句を理解しましょう。
1) 超自然的な力(シッディ)を生成することの様々な間接的意味
2-5) 無限の意識の啓示に関する創造の過程
6) ヨーガの修練を通じた意識の進化の本質
7-11) カルマと再生の根源的な要因
12) 時間の本質
13-16) 客観的な現実とその根本的な特性(グナ)
17-26) 知性の過程と究極の意識としての自己
27-30) 過去の印象と最終的な障害の取り除き
31) 不純さの塊が取り除かれた際の自己知識とともに享受される主の恩寵
32-34) 根本的特性(グナ)充足後の真我の絶対的な解放の享受
意味:超能力は生まれつきのもの(ジャンマ)と、薬草の使用、マントラ、懺悔、集中力を高めることによって得られるものがある。
意味:自然(プラクリティ)の力が完全(飽和)であるがゆえに、ある種から別の種への変異が可能である。
意味:農夫が田畑に灌漑するために障害物を取り除くように、偶発的な原因は超能力を生むのではなく、道の障害物を取り除くのに役立つのです。
意味:創造された心は、完全にエゴイズム(アスミタ)で満たされる。
意味:その活動は多岐にわたるが、創られた多くのマインドの監督者はただ一つのマインドである。
意味:純粋な瞑想から生まれたマインド(ディヤーナ)には、過去の行為の微細な印象(アナーシャヤ)がないのである。
意味:ヨーギの行動は白(aśukla)でも黒(akṛ)でもないが、普通の人の行動は3つのタイプ(trividhaṃ)がある。
意味:そのため、過去の敬虔な行為、不敬な行為、混同された行為の微細な印象だけが、機が熟した状態で現れる。
意味:過去の行為の微細な印象は、生まれ(jāti)、場所(deśa)、時間(kāla)の種類によって散在しているように見えるが、実際には微妙な印象が行為を密接に追っているのである。これは、記憶(smrti)と微細な印象(samskāra)が一体であるためである。
意味:微妙な印象は始まり(anādi)がない。これは、欲望が永遠であるためである。
意味:微細な印象は、原因(hetu)、結果(phala)、帰依(āśraya)、支持(ālambana)と永遠につながっており、この4つのつながりが切れるとそれは消滅する。
意味:過去の経験(atīta)も未来の経験(anāgata)も、現在の現実の中にのみ存在する。しかし、それらは生来の特性(ダルマ)の違い(adhvabhedat)のために異なって見える。それらは永遠に、すなわち3つの時間のすべてに存在すると言える。
意味:顕在的(vyakta)または非顕在的(sooskṣma)の特徴は、純粋に自然の三属性(triguṇas)のために発生する。
意味:3つの属性(トリグナー)の変換における一体性により、対象が発生する。つまり、属性の変容における協調が、対象をもたらす。
意味:マインドのあり様の違いから、同じものでも人によって感じ方が違うことがある。
意味:対象の存在は、特定のマインドに依存していない。そうでなければ、もしその対象が特定のマインドによって知覚されなかったら、その対象はどうなるのか。
意味:対象が個人のマインドに映し出されることで、対象に関する知識が個人のマインドに知られることもあれば、知られないこともある。
意味:真我(puruṣa)は、すべてのマインドの変化を永遠に意識している。それは、「彼」が彼らの主であり、彼らの支えだからである!「彼」はすべてを知っています。「彼」はすべてを知っている。
意味:マインド(chitta)は知覚可能な物体(dǥśya vastu)でもあるため、本来は照らす能力はない。
意味:マインドには、2つのものを同時に把握する能力が欠けている。
意味:もし、あるマインドが別のマインドを見るという説が受け入れられると、無数のマインドが存在することになる。これは無限後退をもたらし、記憶の混乱を招くことになる。
意味:不変の純粋意識(chiteh)が知性(buddhi)の形を得たとき、自分自身の知性(sva-buddhi)を経験することが可能になる。
意味:見る者(自己)と見られるもの(対象)の両方の影響を受けたマインドは、すべての対象に関する知識を吸収する能力を身につける。
意味:マインド(チッタ)は、無数の潜在意識の様々な種類の微妙な印象で満たされているが、純粋に他のもののために、すなわち真我(puruṣa)のために創造されている。
意味:真我について経験的に明確に理解したヨーギは、偽りの自己意識(ātmabhāva bhāvanā)の感覚は完全になくなる。
意味:私という感情から解放されたマインドは、識別的知識(vivēkanimṃ)に傾倒し、至高の解放(kaivalya prāgbhāraṃ)へと引き寄せられる。
意味:識別的知識を獲得していないマインドは、過去の行いの微細な印象(サムスカーラ)に支配され、解脱を得るのに新たな障害が生じる。
意味:これらの障害は、煩悩が消滅したのと同じように、消滅させることができる。
意味:最高の成果に対してさえも冷静さ(無執着)を身につけたヨーギは、純粋な識別意識または純粋な知識が無限に流れる状態に到達する。この純粋な瞑想の状態は、ダルマ・メーガ・サマーディ(Dharma- megha-samādhi)として知られる。このサマーディは、徳の雲としても言われる。
意味:ダルマ・メーガ・サマーディに到達すれば、煩悩にまみれた行いは消滅する。
意味:すべての覆いと不純物が破壊されたとき、至高の純粋な知識は無限になる。これによって、知るべきことはほとんど残らない。
意味:無限の知識が出現したことにより、トリグナはその目的を果たしたことになる。それゆえ、それらは変異することをやめ、本質に戻るために撤退する。
意味:不断の秒単位の継承は、連続(クラーマ)として知られています。変異の止滅(aparānta)により、この連続性を把握することができる。
意味:目的を終えたトリグナ(自然の3つの属性)は、その源に戻る。そして、ヨーギは本来の自分の真の状態に到達する。これが絶対的な解放である。純粋な意識(citiśakti)そのものが解放である。
STILES, Mukunda (2021) Yoga Sutras of Patanjali. Weiser Classics. MA, USA.
SWAMIJI, Sri Ganapathy Sachchidananda. Yoga Darpana. Translated by Parimala Eshwarla. Avadhoota Datta Peetham. Mysore, India.