『シュリーマド・バーガヴァタム』とは、「至高の主についての聖典(シャストラ)」であり、ヴィシュヌの帰依者(デヴォティ)たちの物語である。
12編(カントー)から成り、合計332章、詩句数で16,000句ないし18,000句に及ぶ。
ヴィシュヌとは、ヒンドゥー教えの三大主神のひとり。その最大の特徴は化身(アヴァターラ)を多く持ち、それによって生き物たちを救うことにある。
「バガヴァーン」とは、ヴィシュヌの化身(アヴァターラ)の一人であるクリシュナを指す。全編を通して、バガヴァーンには、ヴァスデーヴァ、ナーラーヤナ、ヴィシュヌ、ハリ、クリシュナ、至高の主、ムクンダと様々な呼称がある。
本聖典では、至高の主についてあらゆる観点から描写されており、教義が示されている。全18種のプラーナ文献の重要な教義が全て網羅されているために、マハー・プラーナ(最も偉大なプラーナ文献)として位置付けられる。また、他のプラーナ文献と同様に、宇宙論、天文学、家系図、地理学、伝説、音楽、舞踊、ヨーガ、文化など、幅広いトピックが扱われている。
作者で編者の聖仙ヴィヤーサは、人々は本聖典を読み聴きすることで駆動され、クリシュナへのバクティ(信愛)の行為をなすことで非二元論(アドヴァイタ・シャストラ)の教義を確立し、至高の主のビジョンを実現することを意図したと伝えられる。
主な語り手は聖仙シュカであり、パリクシット王子との対話形式で物語が展開される。ただし、ナーラダとユディシュティラ王の対話が挿入される箇所がある。
「マハー・プラーナ『バーガヴァタム』は、ヴェーダに匹敵する 」と記述されている(S.B. 02. 01. 08)。
シュリ・スワミジは、「この世界で献身(バクティ)、智慧(ジニャーナ)、離欲(ヴァイラーギャ)を確立するために、至高の主によりこの文献に光が与えられた」と解説する。
ディヤーナ・シュローカ(瞑想の詩句)
Vyāsāya Viśnu rūpāya vyāsa rūpāya viśṇavē
Namovai Braḥma-nidhaye vāśisṭāya namōnamaḥ ǀǀ
私は、聖仙ヴィヤーサの姿を取り、この世界に降臨した主ヴィシュヌに敬虔な忠誠を捧げます。 優秀な学者であり至高の本質に精通する聖仙ヴァシシュタの血統に属する主ヴィシュヌの化身である聖仙ヴィヤーサに敬虔な忠誠を捧げます。
Yogindrāya namas tasmai śukāya braḥma-rūpiṇe
Samsāra darpa dasṭam yo viśṇurāta mamūmucat ǀǀ
私は、蛇の姿をした「輪廻転生(サムサーラ)」と呼ばれる俗世の束縛に噛みつかれた熱心な帰依者パリクシット王子を解放し、救済した、最高のヨギであり至高の主の化身である聖仙シュカに敬意を表します。
Kāla-vyāla-mukha-grāsa trāsa-nirnāṣa-hētave
Srīmad-bhāgavatam śāśtram kalau keerena bhāśitam
聖仙シュカは、聖典「シュリーマド・バーガヴァタム」を教授しました。「時間」と呼ばれる蛇に噛みつかれた人々から恐怖を取り除きます。この聖典は、カリ・ユガに生きる人々の魂を高揚させます。
Sacchidānanda rūpāya viśwotpatyādi hetave
Tāpatraya vināśāya śri kriśnāya vayaṃ nu maḥ ǀǀ
私は、真実-知識-至福(サッチダナンダ)の化身であるシュリ・クリシュナに忠誠を捧げます。 主は、宇宙の創造、維持、破壊の根源であり、人々が被る苦難を消し去ります。
Janmady asyā yato ‘nvayad itaratas carthesv abhijnah svarāt
Tene brahma hrda ya ādi-kavaye muhyanti yat surayah
Tejo-vāri-mrdam yatha vinimayo yatra trisargo’mrśa
Dhāmna svena sadā nirasta-kuhakam satyam param dhimahi ǀǀ (S.B. 01.01.01)
彼は、この宇宙の創造、維持、破壊の根源です。彼は、覚醒し、自ら光放つ者であり、直接的・間接的(あるいは肯定的・否定的)な理性により全現象を知覚・認識しています。彼は、ヴェーダの知識を「最初の見る者(ブラフマー)」の心に伝えたにもかかわらず、神々ですら彼の行為(リーラー)に当惑します。彼は、自らの幻力(マーヤー)により、「火」「水」「地」の三大元素の相互作用を引き起こし、物質的な世界を刹那に顕現させます。それは、あたかも本質的な世界が永遠に顕現するかのような幻想を抱かせます。私は、幻想的な物質的な世界の顕現から永遠に解放された超越的な住居に永遠に存在する至高の主について熟考します。絶対的な真理にマインドを定め瞑想しましょう。
Balarama (バララーマ) Krishna's brother クリシュナの兄。名称の意味は、「強きラーマ」。
Dattatreya(ダッタトレーヤ)An incarnation of the Supreme Lord Sri Hari.
Kalki (カルキ) Supreme Chastister. Appear at the end of Kali Yuga to destroy evil. カリ・ユガの末期に出現する破壊神
Kapila(カピラ)Sage 聖者
Kuruma(クルマ)Tortoise 陸ガメ
Krishna(クリシュナ)Transcendental source of all. Diminish the burden of the Earth from asuras. 「マハーバーラタ」では、アルジュナと親しかった。クリシュナとアルジュナは、古いヴェーダの神話におけるヴィシュヌ神とインドラ神であり、また古の聖仙ナーラーヤナとナラでもある。ふたりは火の神アグニの要請に応えてカーンダヴァの森を焼き払い、アグニを満腹にさせてやった。戦争ではクリシュナはアルジュナの戦車の御者となり、アルジュナが戦意を喪失した時には「バガヴァッド・ギーター」を語って、戦士としての、そして人としての義務を果たすことが神の道に繋がることを説いた。
Matsya(マツヤ) Fish 魚
Narada (ナーラダ) (alsoNārada, Narada Muni), is a god-sage, famous in Hindu traditions as a travelling musician and storyteller, who carries news and enlightening wisdom. He is one of mind-created children of Brahma, the creator. He appears in a number of Hindu texts, notably the Mahabharata, telling Yudhishtira the Prahlada story, the Ramayana as warning Ravan as well as in the Puranas. 聖仙。神々と人間や半神族の間を取り持つはたらきをしばしば担う。インドラ神の御者マータリが娘が婿を探して地底界を遍歴したとき、この神を案内役として各地を共に巡った。
Nara-Narayana(ナラ・ナーラヤナ) (Nara-nārāyaṇa) A Hindu deity pair. Nara-Narayana is the twin-brother avatar of the God Vishnu on Earth, working for the preservation of Dharma or righteousness. Nara and Narayana are two bodies, one soul.They are Avyaktha Vishnu Bhagawan's Vyakta Roopa.
Nrsimha(ナラシンハ)Half lion, half man 半獅子半人間
Parashurama (パラシュラーマ) (or Bhrgupati )Warrior 戦士
Prthu(プルトゥ)統治者
Rama(ラーマ)Incarnation in previous Treta Yuga. トレタ・ユガの化身
Śuka(シュカ) (also Śuka, Shukadeva Gosvami) Rishi (sage). The son of the sage Vyasa and the main narrator of the scripture S.B.
Vamana(ヴァーマナ)Dwarf 小人
Varaha(ヴァラーハ)Boar イノシシ
Vyasa (ヴィヤーサ)聖者。「マハーバーラタ」の伝説的作者。18本のプラーナ文献の作者兼編者でもある。「マハーバーラタ」では、アンビカー妃との間にドリタラーシュトラをもうけ、次にアンバーリカー妃との間にパーンドゥをもうけたとされる。
Aditi(アディティ)母親
Ajāmila(アジャーミラ) Brahmin. Ajāmila’s sinfulness because although he was eighty-eight years old, he had a very young child. According to Vedic culture, one should leave home as soon as he has reached fifty years of age; one should not live at home and go on producing children. Sex life is allowed for twenty-five years, between the ages of twenty-five and forty-five or, at the most, fifty. After that one should give up the habit of sex life and leave home as a vānaprastha and then properly take sannyāsa. Ajāmila, however, because of his association with a prostitute, lost all brahminical culture and became most sinful, even in his so-called household life. バラモン。家住期を過ぎても家庭に留まり、幼い子どもがいた。また、売春婦と肉体関係を持ったから、罪深い人間とみなされた。しかし、最年少の子に、「ナーラヤナ」の名前を授けた。そのことで、アジャミラの罪は贖われ、ヴァイクンダに行くことができたとされる。
Ambarisa (アンバリーシャ)王
Arci(アルチ)妻
Arjuna(アルジュナ)英雄。パーンダヴァ五兄弟の三男。インドラ神の息子。「マハーバーラタ」では、「単身での放浪の旅」と「クリシュナとの友情」が特筆すべき点である。
Asikni(アシクニー)妻
Baladeva(バラデーヴァ)解説者
Balarama(バララーマ)兄弟
Bali(バリ)悪魔の王
Bhaktivedanta(バクティヴェーダンタ)解説者
Bharata(バラタ)賢者で王
Bhavani(バヴァーニー)女神
Bhisma(ビーシュマ)英雄。クル族の長老。智慧と力を兼ね備えた模範的な英雄。川の女神ガンガーとシャンタヌ王の間に生まれた末の息子で、ガンガーに育てられ、長じて後シャンタヌに返され、皇太子に即位した。マハーバーラタの大戦争においては、心はパーンダヴァ側にあったが、カウラヴァの将軍として活躍し、彼を宿敵と心に定めていたシカンディンを盾としたアルジュナによって倒された。戦場で倒れてからも長く命を留め、長い教説をユディシュティラらに教示してから、自らの意思で時を定めて死に赴いた。
Brhaspati(ブルハスパティ)グル
Citraketu(チトラケートゥ)王
Dadhici(ダディーチ)賢者、聖仙
Daksha(ダクシャ)父親
Devaki(デーヴァキー)The Mother of Krishna and Balarama; imprisoned and had their other children murdered by Kamsa. クリシュナの母親
Devahuti(デーヴァフーティ)母親
Dhruva(ドゥルヴァ)王
Diti(ディティ) 母親。Mother of Asuras. Her two most famous sons were Hiraṇyakaśipu and Hiraṇyākṣa, who were the gatekeepers of Lord Vishnu at Vaikunta.
Durvasa(ドゥルヴァーサー)賢者
Dvaipayana(ドヴァイパーヤナ)ヴィヤーサの別称
Draupadi (ドラウパディ) (draupadī, lit. 'Daughter of Drupada'), also referred as Panchali and Yajnaseni, is the tragic heroine, one of the central characters and the common wife of the Pandavas in the Hindu epic, Mahabharata. She is described to be the most beautiful woman of her time and was prophesied to bring a major change in the future. パーンダヴァ5兄弟の妻。兄弟とドラウパディーは王国を獲得してが、嫉妬したドゥルヨーダナの仕掛けた骰子賭博でユディシュティラが敗北し、彼女は衣を剥ぎ取られる屈辱にあう。ドラウパディは、五兄弟に、自分の屈辱を思い出させ、戦争をして復讐し、王国を取り戻すことを求めた。貞淑な徳高い妻であると同時に、戦争を引き起こし復讐を果たす恐ろしい女でもあるという、二面性がある。
Gajendra(ガジェンドラ)象
Gatekeeper (Jaya and Vijaya)門番ジャヤとヴィジャヤ
Giridhara(ギリダラ)解説者
Gopis(ゴピー)牛飼いの乙女達
Govinda and Gopāla ゴーヴィンダとゴパーラ (also known as Govind, Gobind and Gopal) are the names of Vishnu which mean Cowherd and Protector of Cows. いずれもヴィシュヌの別名。牛飼いと牛を保護する者。
Hara(ハラ)One of Shiva's names。シヴァの別称。
Hari (ハリ)(or Sri Hari) One of Vishnu's names. ヴィシュヌの別称。
Hiranyaksa and Hiranyakasipu(ヒランヤクシャとヒランヤカシプ) 双子の悪魔。Demonic twin-sons of Diti; first incarnations of Jaya and Vijaya cursed by the Four Sanas / Kumaras.
Indra (インドラ)神。戦神にして雷神。『リグ・ヴェーダ』において最も多くの讃歌を捧げられた。
Indradyumna(インドラドュンナ)王
Jamadagni(ジャマダグニ)父親
Jarā (ジャラー) A daughter of Time. 「時間」の娘。
Jiva(ジーヴァ)解説者
Kamsa(カムシャ)賢者
Kardama(カルダマ)悪魔の王
Kasyapa(カシャパ)賢者
Kaurava(カウラヴァ)Kaurava is a Sanskrit term for the descendants of King Kuru (or simply Kurava in Tamil), a legendary king who is the ancestor of many of the characters of the Mahābhārata. The well-known Kauravas are Duryodhana, Dushasana, Vikarna, Yuyutsu and Dussala. Yuyutsu is not the son of Gandhari, but he is the same age as Duryodhana and Bhima. 「クルの」意。クル王の末裔。ドゥルヨーダナ、ドゥフシャーサナ、ヴァイカルナ、ユユツ、ドゥフシャラをはじめとする100人兄弟を指す。ガンダーリーは2年間もの妊娠の末、ひとつの肉塊を落とした。それを100に分けて壺に入れ、そこから百王子が誕生した。ただし、ユユツは、ガンダーリーの子ではない。
Kumara brothers (クマーラ兄弟)子どもの賢者
Kunti(クンティ)王妃。Pritha (Sanskrit: पृथा, IAST: Pṛthā), is one of the most important female protagonists of the epic, Mahabharata. She is best known as the mother of the Pandavas, the main protagonists of the epic, and the warrior Karna, who was abandoned by her. She is also mentioned in the Bhagavata Purana because of her connection with Krishna, the main figure of the text. It is described that she was very beautiful and intelligent. プリタとも呼ばれる。マハーバーラタ、プラーナ文献において重要な登場人物。パーンダヴァ5兄弟の母。美麗で聡明な女性として描かれる。
Laksmana(ラクシュマナ)兄弟
Laksmi(ラクシュミー)女神
Madhva(マダヴァ)哲学者
Maitreya (マイトレーヤ)解説者。Rishi (Sage) 聖仙(聖者)
Manigriva(マニグリーヴァ)兄弟
Markandeya(マルカンデーヴァ)賢者
Nalakuvara(ナラクーヴァラ)兄弟
Nanda(ナンダ)養父
Nandi(ナンディー)雄牛
Nandisvara(ナンディシュヴァラ)賢者
Narada(ナーラダ)賢者
Nara-Narayana(ナラ・ナーラーヤナ)双子
Narayana(ナーラーヤナ)One of Vishnu's names。主ヴィシュヌの別称。
Pandavas (パーンダヴァ)The Pandavas refers to the five brothers namely, Yudhishthira (Or Dharma), Bhima, Arjuna, Nakula and Sahadeva, who are the main characters in the epic Mahabharata. 「パーンダヴァ王の息子たち」の意。通常、パーンダヴァ五兄弟を指す。すなわち、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ。マハーバーラタの主人公。
Parikshit (パリクシット) King, succeeded his granduncle Yudhishthira; much of the S. B. consists of narrations to him by Suka. 王。大叔父ユディシュティラから王国を継承した。SBの大部分は聖仙シューカがパリクシットに語った内容から構成されている。
Parvati(パールヴァティ)女神
Pingala(ピンガラー)売春婦
Prajapati(プラジャパティ)A deity 神。ブラフーマナ神話における創造神。
Pracetas(プラチェータ)息子達
Pracinabarhisat(プラチナバリサット)王
Prahlada(プララーダ)帰依者
Priyavrata(プリヤヴラタ)兄弟。One of sons of Swayambhuva Manu and Shatarupa. A brother of Uttānapada.
Puranjana(プランジャナ)King 王 (Canto 4)
Puranjani(プランジャニ)A wife of Puranjana. プランジャナの妻 (Canto 4)
Radha(ラーダー)牛飼いの乙女
Radharamanadasa(ラダラマナダサ)解説者
Ravana(ラーヴァナ)悪魔の王
Rsabha(ルシャバ)王
Samkara(シャンカラ)教師
Sanatana(サナータナ)解説者
Sati(サティー)娘/妻
Saunaka(シャウナカ)賢者
Shiva (シヴァ)神
Sisupala(シシュパーラ)悪魔の王
Sita(シーター)ヒロイン
Sridhara(シュリダラ)解説者
Suka(シュカ)賢者
Sukadeva(シュカデーヴァ)解説者
Sūta (スータ)Story telling. Chariot-driving. 語り手。戦車を操縦する者(御者)。
Suyajna(スヤジュナー)王
Swayambhuva Manu(スワヤンブーヴァ・マヌ) The intellect (buddhi) of the Supreme Lord. 至高の主の知性(ブッディ)。The emperor of the entire universe. His wife is Shatarupa. Through this husband-wife relationship the population has been expanding. The couple Swāyambhuva Manu and Shatarupa had five children. Priyavrata and Uttānapada were his sons. Ākuti, Devahuti and Prasuti were his daughters. Swāyambhuva Manu offered his daughter ākuti to Maharishi Ruci Prajapati in marriage. Devahuti was given in marriage to Kardama Prajāpati and Prasuti was given to Daksha Prajapati. 全宇宙の皇帝。人類の祖先。妻は、シャタルパ。二人の間には、5人の子がいた。息子プリヤヴラタとウッターナパダ、娘アークティ、デーヴァフティ、プラスティ。娘アークティは聖仙ルチ・プラジャーパティと、デーヴァフティは聖仙カルダマ・プラジャーパティと、プラスティはダクシャ・プラジャーパティと結婚した。
Taksaka(タクシャカ)蛇族の王。インドラ神の友として、しばしばその庇護下にある。
Tvasta(トヴァシュター)バラモン
Uddhava(ウッダヴァ)Friend and counsellor of Krishna. クリシュナの友人であり相談相手。
Ugrasravas(ウグラシュラヴァ)語り手
Vallabha(ヴァラバ)解説者
Vamsidhara(ヴァンシーダラ)解説者
Vasudeva(ヴァスデーヴァ)Father of the Hindu deities Krishna, Balarama and Subhadra.
Vasuki(ヴァースキ)大蛇の王。蛇のナーガ族のひとり。乳海攪拌神話において山に巻き付けて引き縄の役割を果たした。
Vena(ヴェーナ)王
Vidura (ヴィドゥラ)弟子。Sudra incarnation of Yama; Aryamā officiated the post of Yamarāja in his absence. ヴィヤーサ仙がアンビカー妃の召使いとの間にもうけた子。生まれは混血であるが、徳高い人物。ダルマ神がマーンダヴィヤ仙の呪詛により生まれ変わったもの。ユディシュティラもまたダルマ神の息子であるので、ヴィドゥラとユディシュティラは性質において類似が見られる。ヴィドゥラは最後に身体を捨ててユディシュティラの中に入っていき、両者は合一した。
Vijayadhvaja(ヴィジャヤダヴァジャ)解説者
Virabhadra(ヴィラバドラ)勇者
Viraraghava(ヴィララガヴァ)解説者
Vishnu(ヴィシュヌ)神
Visvanatha(ヴィシュヴァナタ)解説者
Visvarupa(ヴィシュヴァルーパ)司祭
Vrindavan(ヴリンダヴァン)牛飼いの乙女
Vrtra(ヴルトラ)悪魔
Vyasa (ヴィヤーサ)聖者。 (also Krishna Dvaipāyana, lit. 'Compiler') Rishi (sage). He is best known as the traditional author of the Mahabharata. Compiler of Vedic scriptures.
Yadu(ヤドゥ)王
Yama/Yamaraja(ヤマ/ヤマラージャ)死の王
Yasoda(ヤショダー)養母
Yayati(ヤヤーティ)王
Yudhisthira(ユディシュティラ)王。パーンダヴァ五兄弟の長男。法の神ダルマの息子。ユディシュティラに骰子賭博に目がないという欠点がある。彼はシャクニとのいかさま賭博に負け続け、財産、王国、兄弟たち、そして妻をも賭けて、取られてしまった。この事件が後にクルクシャートラの大戦争を引き起こすことになる。
第1編(全19章808詩句)
・バーガヴァタムの主題についての紹介
・クンティ王女によるクリシュナの崇拝
・ビーシュマによる智慧の分かち合い
・パリクシット王と聖仙シュカの出会い
第2編(全10章393詩句)
・聖仙シュカの回答開始
・ヴィシュヌの降下についての概要
・バーガヴァタム要約
第3編(全33章1,416詩句)
・ブラフマーの創造と時間の区切り方
・4人の聖仙による天上界の門番への呪い
・時間の本質について
・ヴィシュヌの姿に対するヨーガの瞑想
第4編(全31章1,449詩句)
・ダクシャの供犠祭における対立と死
・プリトゥ王とインドラの競争
第5編(全26章668詩句)
・ルシャバの100人の息子への忠告
・バララタの鹿への変身
・ジャンブードヴィーパについての描写
第6編(全19章851詩句)
・アジャーミラの命拾いの教訓
・インドラによる墓所での失敗
・インドラによるヴィシュヴァルーパの殺害
・インドラによるヴルトラの殺害
・インドラの嘆き悲しみ
・チトラケートゥによる呪いヴルトラとして具現化
第7編(全15章750詩句)
・ヒランヤカシプによる不死の探求
・悪魔の王による世界の征服
・ヒランヤカシプによる息子プララーダへの呵責
・プララーダによる友人への教示
・ヌルシンハによるヒランヤカシプの殺害
第8編(全24章931詩句)
・乳海攪拌とシヴァによる毒の飲み干し
・ヴァーマナによる宇宙の縮小化
第9編(全24章960詩句)
・クリシュナの怒りの武器からの聖仙ドルヴァーサーの逃亡
・ラーマの凱旋
・クリシュナの生涯についての要約
第10編(全90章3,936章)
・クリシュナによる泥食べと養母ヤショダーによる神像の謁見
・クリシュナによるバター盗み、ヤショダーによるクリシュナの縛り付け
・クリシュナによるナラクーヴァラとマニグリーヴァの呪いからの解放
・崇拝とゴヴァルダナ山の持ち上げ
・クリシュナによるゴーピ(牛飼いの乙女)の訪問
・ラーシャの踊り
・ミツバチへの賛歌
第11編(全31章1,367詩句)
・世界(物語)の教訓
・ヴィシュヌへの儀礼的崇拝
第12編(全13章565詩句)
・大地による賛歌
・比類のないバーガヴァタム
長編物語「シュリマド・バーガヴァタム」は、中心テーマとして至高の主であるバガヴァーンへの信愛(バクティ)が据えられているが、物語が進むにつれ、神話「マハーバーラタ」のくだりが引用されたり、その続編が展開されたりするようになる。このことにより、バクタ(帰依者)とバーガヴァタ(バガヴァーンに身も心も捧げる者)としての後半の主要な登場人物の存在が引き立てられ、再度焦点が当てられる。
博学なスータ(ウガシュラーヴァー)は、研究熱心なショウナカを筆頭にした聖仙らに物語を語り聞かせる。この光景は、重要な対話(問答)の原型として物語中に時折描かれる。第2編では、パリクシット王子と聖仙シュカの対話がそれである。
・バーガヴァタムの主題についての紹介(第1章・第2章)
ナイミシャーランヤの森で、聖仙ショウナカと他の聖仙らが、教養高い聖仙シュカにバーガヴァタムの物語の教示を求める(第1章 Day 4)。
この物語は、偉大な聖仙ヴィヤーサによって執筆された。ヴェーダの木の果実とその香り高き果汁は、聖仙シュカの口よりもたらされる。
主の24の化身について簡単な説明がなされる(第2章 Day 5)。
・クンティ王女によるクリシュナの崇拝(第8章 Day 25)
ウッタラの子宮にいたパリークシットがアシュヴァッターマンの矢から命を救われた。クンティ王女のシュリ・クリシュナ・ストゥティ(賛美歌)。ユディシュティラの悲しみ。
・ビーシュマによる智慧の分かち合い(第9章 Day 30)
ビーシュマに近づくユディシュティラら。ビーシュマによる様々なダルマのイニシエーション。シュリ・クリシュナの讃美歌(ストートラム)。ビーシュマの最後の別れ。
・パリクシット王子と聖仙シュカの出会い(第18章・第19章)
パリクシット王子が聖者の息子にどのようにして呪われたのか(第18章 Day 58)。
パリクシット王子はガンジス川のほとりに行き、食べ物と水を控えて死を待った。そこへ多くの偉大な聖者が到着した。パリクシット王子は聖仙シュカに質問をした(第19章 Day 61)。
・主ブラフマーの創造と時間の尺度について(第10章・第11章)
10通りの宇宙創造(第10章 Day 10)。
マンヴァンタラ(人類の祖先マヌーの年齢や寿命を規定する時間周期)と呼ばれる時間の区切り方について(第11章 Day 11)。
この世界とは、ブラフマン(宇宙の最高原理/梵)そのものである。なぜなら、ヴィシュヌのエネルギー(マーヤー/幻力)によって形成されているからである(11)。主は、目に見えない(非顕現性の)化身である時間を介してそれを制限している(12)。宇宙の創造物には9種類あり、原始的なものと派生的なものに分けられる。宇宙の破壊には3種類あり、それは時間、物体、属性(グナ)によって影響される(14)。
1番目の被造物は、自己の原始的な実体(マハット・タットヴァ)から生じたグナ(要素)の多様性から構成される。2番目は、自我(アハンカーラ)であり、そこから物質性、知性(知覚)、活動性が生じる(15)。3番目は、構成要素の創造である。5つの微細な知覚の原理であり、それは物質に活力を与える。4番目は、感覚の創造である(16)。5番目は、主宰神とマインドにより構成される。6番目は、暗質の創造であり、それにより身体の支配者は無知となる(17)。上記6つの創造は根本原質(プラクリティ)の主要な産物である。
7番目の被造物(ヴァイクルティ)は、情熱とシュリ・ハリの知識に満たされたブラフマーの偉大な創作品である(18)。花はないが果実がなる木、果実も花もつける木、薬用ハーブ、つる植物、自立する植物、管状の植物。これら6種の動きのない生命体は7番目の創造を構成する。それらは地中より栄養分を上方向へと導き出す。それらは意識を持たないが、内的な感覚を持ち、無数の種類がある(19-20)。
8番目の被造物は、28種類にわけられるが、無知で、暗質に陥り、香りを嗅ぎ、目的意識を持たない動物たちである(21)。
9番目の被造物は、人間である。彼らの消化器官は下方向の流れを持つ。情熱による影響力が大きく、仕事に忙殺され、悲しみの最中に自分たちは幸せだと考える。
10番目の被造物は、8種類の半神である。ヴィドゥダ(神)、ピトリ(祖先)、アスラ(非神々)、ガンダルヴァ(男性の天使のような歌い手)、アプサラー(女性の天女の踊り手)、ヤクシャ(クヴェラに付き添う者)、ラークシャーサ(人食い鬼)、シッダ(準神的存在)、チャーラナ(歩く天人の歌い手)、ヴィドヤーダラ(魔法使いあるいは呪文を司るもの)、ブータ(幽霊)、プレタ(以降の段階にある存在)、ピシャーチャ(死体泥棒)、キンアラ(天人の音楽家)などである。
・4人の聖仙による天界の門番への呪い(第15章・第16章)
主シュリ・ハリの住居ヴァイクンタについて描写がなされた。賢者サナカらによるヴァイクンタを訪問し、門番ジャヤとヴィジャヤ兄弟が呪われた(第15章 Day 124)。
至高の主の言葉によりサナカらが落ち着きを取り戻し、門番ジャヤとヴィジャヤ兄弟が追放された(第16章 Day 128)。
・時間の本質について(第26章)
聖者カピラ(ヴィシュヌの化身)が、宇宙創造の原理について説明し、正しい行為に関して詳細に説明した(第26章 Day 150)。
プルシャ(精神的な原理/霊我)とプラクリティ(物質的な原理/根本原質)は、世界の原因(源)であり、それらは永遠なるものと刹那なるものの両方を構成する(9)。分離不可能で、永遠で、目に見えない(非顕現な)3つのグナの組み合わせのことをプラダーナと呼ぶ。それは永遠なるものと刹那なるものの両方を構成する。分離可能で、目に見える(顕現な)ものをプラクリティ(根本原質)と呼ぶ(10)。総体であるブラフマン(梵)には、24個の項目がある。グループ分けすると、5+5+4+10であり、それをプラダーナと呼ぶ(11)。5個の粗大体(マハー・ブータ)とは、地、水、火、風、空である。香り、味、形、感触、音として認識される多数の微細体(タン・マートラ)がある(12)。感覚は10個存在する。「耳」、「肌」、「眼」、「舌」、「鼻」、「(話すための)口」、「手」、「足」、「生殖器」、「肛門」の10個である(13)。マインド(思考器官/意)、知性(根源的思惟機能)、自我、意識は内部の器官を構成する。これら4つの違いは、それぞれの機能特性にしたがって知覚される(14)。時間は、25番目の項目である(15)。時間とは、プラクリティと結びつくことで、自我意識により混乱させられる仲介者(生類)の中に恐怖を生じさせるプルシャの力であるとも言える(16)。時間とはバガヴァーンであり、彼の影響を受け、プラクリティの分離不可能なグナの平衡状態に変化がもたらされる(17)。バガヴァーンそのものは、彼のマーヤーを用いることで、全生類の内側にプルシャとして、また外側に時間としてとどまる。
バガヴァーンの種子から生まれたマハット・タットヴァが進化すると、自己意識を産出する。これが、活動エネルギーである。自己意識には、限定的(ヴァイカーリカ)、活動的(タイジャサ)、暗質的(ターマサ)の3種類の状態がある。そこから、マインド、感覚、粗大体(マハー・ブータ)が発生する(23-24)。自己意識は、マインド、感覚、粗大体を構成しているのだが、それはサンカルシャナと呼ばれるプルシャの一種であり、数千の頭を持つアナンタに他ならない(25)。自己意識は、活動の媒介者、活動の器官、その効果として特徴付けられる。また、それぞれを、純粋(平穏)、情熱、怠惰と呼ぶこともできるであろう(26)。
限定された自己意識(ヴァイカーリカ)の変異から、マインドの要素が生じた。マインドが変異することで、欲望が出現する(27)。活動的自己意識(タイジャサ)の変異から知性(ブッディ)の要素が出現する。それは、物体が視界に入った時に物体を認識したり、知覚を助けたりする(29)。知性の特徴として、疑念、拒否、確信、記憶、睡眠といった様々な機能がある(30)。感覚は、活動的自己(タイジャサ)から生じるのだが、さらに2種類に分類される。すなわち、行動力と認識力である。行動エネルギーは活発な呼吸に属し、認識エネルギーは知性に属する(31)。
暗質的(ターマサ)の変異は、バガヴァーンの力により促されるのだが、微細体のひとつ「音」を出現させる。「音」は「空」から生じ、「耳」が「音」を感知する(32)。音は意味を伝え、見る者の存在を知らせ、「空」を構成する(33)。「空」独自の機能は、生類に内部と外部の空間を提供することである。生命維持に不可欠な呼吸、感覚、自己にとって「空」は居場所である。
時間の力により、「空」と「音」より「感触」が進化する。「感触」の後に出現するのが「風」と「肌」である(35)。宿命の力により、「風」と「感触」より「形」が生じ、「火」と「眼」が現れる(38)。「火」と「形」より「味覚」が進化する。「味覚」より「水」と「舌」が出現する(41)。「水」と「味覚」より「嗅覚」が進化する。「嗅覚」より、「土」と「鼻」が現れる(44)。
知覚対象要素として「空」を感知する場合は、聴覚である。同様に、「風」の場合は、触覚(感触)である(47)。「火」の場合は、視覚。「水」の場合は、味覚。「土」の場合は、嗅覚である(48)。
・ヴィシュヌの姿にマインドを定めたヨガの瞑想(第28章)
聖者カピラは、アシュタンガ・ヨーガを母デーヴァフティに教授した(第28章 Day 155)。
・ダクシャの供儀祭における対立と死(第2章・第4章)
ダクシャのシヴァに対する嫌悪感と彼の呪い(第2章 Day 174)。
サティ妃は、夫シヴァの意向に反してヤグナ(儀礼)に夫の名誉のために出席したが、シヴァを嫌悪する父親ダクシャは、娘サティを罵倒し、サティは自身の身体を放棄するためにヤグナの火に身を投げた(第4章 Day 178)。
・プリトゥ王とインドラの競争(第19章 Day 220)
プルトゥの100回目のアシュワダメーダ・ヤーガが開催された。インドラは繰り返し犠牲馬を盗んだが、プリトゥの息子はその度に盗まれた馬を探し出した。犠牲の火にインドラを捧げようと試みた。ブラフマーが仲介し、インドラとプリトゥは友好関係を結んだ。
・クリシュナによる泥食べと養母ヤショダーによる神像の謁見(第8章 Day 579)
・クリシュナによるバター盗み、ヤショダーによるクリシュナの縛り付け(第9章 Day 600)
・クリシュナによるナラクーヴァラとマニグリーヴァの呪いからの解放(第10章 Day 609)
・崇拝とゴヴァルダナ山の持ち上げ(第24章 Day 713・第25章)
・クリシュナによるゴーピら(牛飼いの乙女ら)の訪問(第29章 Day 723)
・ラーシャの踊り(第33章 Day 739)
・ミツバチへの賛歌(第47章 Episode 799)
・ヴェーダの歌(第87章 Episode 941)
・世界(物語)の教訓(第8章)
・ヴィシュヌへの儀礼的崇拝(第27章)
・大地による賛歌(第3章)
・比類のないバーガヴァタム(第13章)
Nārāyaṇa-parā vedā devā nārāyaṇāṅgajāḥ
Nārāyaṇa-parā lokā nārāyaṇa-parā makhāḥ (S.B. 2.5.15)
All the Vedas speak only about Narayana! All Devatas have emerged from Narayana alone! All the various planes of existence (lokas) are under the control of Narayana himself. All the yagnas (sacrificial rituals) are aimed at pleasing Narayana alone.
Nārāyaṇa-paro yogo nārāyaṇa-paraṁ tapaḥ
Nārāyaṇa-paraṁ jñānaṁ nārāyaṇa-parā gatiḥ (S.B. 2.5.16)
The ultimate end point (goal) of Yoga is Narayana. The main purpose of undertaking austerities (tapas) is solely to earn the grace of Narayana. That which explains the essence of this Supreme Lord Narayana is known as Supreme Knowledge. All paths lead to Him alone.
Swamiji explains: Here the various births undergone by the mind, its various transformations, its desires, the levels obtained by it, its influence are all being explained in detail. It is mind that gives noble birth; it is mind that gives lowly birth. It is mind that pushes an individual into sorrows and re-births; it is mind that gives knowledge and liberation.
The wick in the lamp absorbs the ghee to produce flame together with smoke. When the wick stops absorbing ghee, it gets consumed by the fire and disappears totally. Likewise this mind, which is inclined towards the various activities connected with material pleasures, endlessly creates one thought after another.
Just as the wick associates with ghee to generate a flame, mind associates with worldly activities to create thoughts. When this mind disassociates with the material world and sensory pleasures, it obtains Self-realization which is the ultimate state. It will be inclined towards knowing its true identity. As long as it is associated with this world, which can be compared to the ghee in the lamp, it will be drowned in illusion”.
Here Jadabharata is preaching to the king the method by which this connection to the world can be broken. People are deeply connected to this world and consequentially suffer. However they do not know how to cut this bondage. This should be learnt. (S.B. Day 279)
Ether/Space (Aakash) - 2. Air/Wind (Vayu/Pavana) - 3. Fire (Agni/Tejas) - 4. Water (Jala/Apas) - 5. Earth (Prithv/Bhumi)
Hearing/Sound (Sabda) - 2. Touch (Sparsa) - 3. Sight/Form (Rupa) - 4. Taste (Rasa) - 5. Smell (Gandha)
Ears - 2. Skin - 3. Eye - 4. Tongue - 5. Nose
Mouth (Speech) - 2. Hands - 3. Feet - 4. Genitals (Reproductive Organs) - 5. Anus (Excretory Organs)
Vishuddha - 2. Anahata - 3. Manipura - 4. Svadhistana - 5. Muladhara
Agni - 2. Indra - 3. Vishnu - 4. Mitra - 5. Prajapati
Manas: the processing mind which is the form of thoughts and imaginations 思考力と想像力
Buddhi: the discriminatory mind 識別力/判断力
Ahamkara: the feeling of I-ness 自我の意識
Chitta: the storehouse of past impressions 過去の印象の貯蔵庫
Lord of Death. The anus is the location of Mitra and Yama (the Lord of death. Calamities, evil, envy, violence, hell, misfortune and death emerge from His anus.
cf. SB Day 77 (2nd Canto 5th Chap.), Day102 (3rd Canto 5th Chap.), Day 150 (3rd Canto 24th Chap.)
Maya Shakti (SriHari's Illusory Power)
Kāla (The Eternal Time)
Trigunas (Three Attributes) Sattva, Rajas, Tamas
Prakriti (Nature)
Puruśa (Atma, Self)
Mahat tattva (Fundamental principle of the total material creation)
Ahamkara (Materialistic Ego or Sense of I-ness)
Satvik ahamkara (Goodness) --> Inner mind (antahkarana),
Rajasic ahamkara (Passion) --> Buddhi (Intelligence), Karmendriya (Speech, Hands, Feet, Genitals, Anus) + Jnānendriya (ears, eyes, skin, nose, tongue)
Tamasa ahamkara (Ignorance) -->Subtle Elements (Smell, Taste, Form, Touch, Sound) --> Gross Elements (Earth, Water, Fire, Air, Space)
Mana eva manuṣyasya pūrva-rūpāṇi śaṁsati
Bhaviṣyataś ca bhadraṁ te tathaiva na bhaviṣyataḥ (S.B. 4.29.66)
Subtle impressions of past actions (vāsanas) are of 3 types: Deha vāsana i.e. thoughts about body and sensory pleasures, Shastra vāsana i.e. addiction to studying scriptures/ philosophical books and Loka vāsana i.e. obsession for name, fame etc. associated with this world. The type of impressions contained in the mind indicates to the individual the kind of birth and experiences he could have had in a past life.
The Vedas awakened the Lord with the following prayers,
ヴェーダは次の祈りにより、主を目覚めさせました。
“Even in the bimba-pratibimba-vādana i.e. theory of real and reflected existences, where the living entity has been described as a reflected image, it is said that the Pure Consciousness itself reflects in him”.
「ビンバ・プラティビンバ・ヴァーダナ すなわち、”真実の存在”と”それが反映された存在”に関する理論においては、”生類全般は反射像である”と表現されており、純粋な意識そのものが人の心の中に反映していると言われています。
In the real existence (bimba), the characteristics and transformations pertaining to reflected images (pratibimba) are being imposed when in reality real existence can never undergo any transformation. We can only draw a portion from this concept of real and reflected existences (bimba-pratibimba-vādana) however there is no permission whatsoever to apply this perspective completely.
現実世界では、真の存在(ビンバ)には、反射像(プラティビンバ)として特性や変異が負わされていますが、真の存在は決して変異することはありません。私たちはこの真の存在と反射像の理論(bimba-pratibimba-vādana)の観点を部分的には採用できますが、完全に把握するほどの能力はありません。
“In this world, having scrutinized thoroughly the condition of bonded living entities, wise saints have, with absolute faith, worshipped and held on to Your holy feet, which are the form of absolute liberation and to which all the various actions explained by the Vedas must mandatorily be offered.
「この世俗的世界では、輪廻に束縛された全生類の状態を徹底的に精査し、賢明な聖者たちは絶対的な信仰をもって、絶対的な解放の姿である「あなた」の聖なる御足を崇め、その御足には、ヴェーダが説明する諸行為を義務的に捧げなければなりません。
Duravagamātma-tattva-nigamāya tavātta-tanoś carita-mahāmṛtābdhi-parivarta-pariśramaṇāḥ
Na parilaṣanti kecid apavargam apīśvara te caraṇa-saroja-haḿsa-kula-sańga-visṛṣṭa-gṛhāḥ
O Supreme Lord! You have incarnated to impart Self-knowledge obtaining which is an arduous task.
おお至高の主よ!あなたは困難な任務である真我の知識を得るために転生なさいました。
Devotees who dive into the nectarous ocean known as Your transcendental glories are totally freed from afflictions. A few select devotees develop friendship with other devotees, who like the swans blissfully revel in Your lotus feet, and, through this association attain dispassion thereby renouncing everything”.
あなたの超越的な栄光として知られる甘露の海に飛び込む帰依者は、苦悩から完全に解放されます。少数の選ばれた帰依者は、白鳥のように他の帰依者と友情を育みます。そして、この結び付きによって無執着(無我の境地)に達し、すべてを放棄する(放擲)のです」
Externally such devotees are involved in completion of their worldly duties while mentally they remain dispassionate. They have no inclination towards external objects. Like swans they swim around His lotus feet. They repeatedly dive into the nectarous ocean known as the Lord’s glories. The devotee who remembers God transforms into a pure swan.
このような帰依者は、外面的には世俗的な義務を果たすことに没頭していますが、精神的には執着のない状態です。彼らは外的なものへの傾倒がありません。白鳥のように主の蓮華の御足元を泳ぎます。主の栄光として知られる甘露の海に繰り返し飛び込んでいく。神を想う帰依者は純粋な白鳥に変身します。
One must try to remain at the level of swans permanently. Towards this dedicated effort is necessary. Slipping down to a crow level and then scaling up to the swan level, only to slip again is incorrect. The person who spends an entire day revelling in the Lord’s glories while grieving the next morning for some failed worldly transaction cannot be addressed as an eternal swan. Often people go through a sudden surge in devotion which lasts for a few weeks after which they suddenly get entangled into the worldly mire. They would have slipped from the swan level to crow level.
人間は、永久に白鳥のレベルにとどまるよう努めなければなりません。そのためには、献身的な努力が必要です。カラスのレベルまで滑り落ちて、白鳥のレベルまで上がって、また滑り落ちてしまうようなことは、正しくないことです。主の栄光に酔いした一日を送ったにもかかわらず、翌朝には世俗的なやり取りでの失敗を嘆くような人は、永遠の白鳥として扱われることはないでしょう。しばしば、人々は突然の帰依の高まりに見舞われ、それが数週間続いた後、突然、世俗の俗事に巻き込まれることがあります。世俗の泥沼に足を踏み入れてしまうのです。彼らは、白鳥のレベルからカラスのレベルへと滑り落ちてしまうのです。
On the contrary, supreme devotees do not even crave for liberation. Even the Vedas extoll the devotion which takes the person towards liberation, as superior to liberation. They glorify such devotion through yam sarve devā namanti mumukshavo brahmavādinaśca- and other such statements.
それどころか、至高の帰依者は、解脱を切望することすらありません。ヴェーダでさえ、人を解脱へと導く献身を、解脱よりも優れたものとして賞賛しています。yam sarve devā namanti mumukshavo brahmavādinaśca-などの文章で、そのような献身を称賛しているのです。
Vedas continued, “For having connected with You, the inner Self, this body which is only a nest is misconstrued for the Self, the dear and true benefactor. Association with You is the sole reason behind such erroneous belief. In the absence of this association with You, this body (nest) becomes a corpse. Association with You causes it to illumine and move about.
内なる自己である「あなた」と結びついたために、物質にすぎないこの肉体が、親愛なる真の恩人である「真我」と誤解されるのです。あなたとの結びつきが、このような誤った信念の唯一の理由です。あなたとの結びつきがなければ、この身体(巣)は死体になってしまいます。あなたとの結びつきがあるからこそ、それが照らされ、動き回るようになるのです。
You, the inner Self, are the ever-perfect true benefactor who is deeply loved. Oho! Isn’t it a matter of sadness that people focus exclusively upon the body and other unreal objects thereby failing to understand You?”
内なる自己であるあなたは、深く愛され、常に完璧な真の恩人です。おお! 人々が肉体や他の非現実的なものばかりに目を向けて、あなたを理解できないのは悲しいことではありませんか?
Considering the body to be everything they decorate it and zealously protect it. In their opinion their body itself is God. Actually, Within this body the Lord is illumining in all splendour, however neglecting Him the person clings to the body. Due to this ignorance he is chasing the senses.
肉体をすべてと考え、それを着飾り、熱心に保身する。それは、体そのものが神であると考える人々の考え方です。実際は、この体の中におられる「主」は全てを照らしてくださっているいますが、人はそれを無視し、肉体にしがみつく。この無知のために、彼は感覚的悦びを追いかけている。
“Due to love for gross body they forget You, the eternal Supreme Lord, thereby falling into wretched animal bodies which amounts to taking their own lives. Taking on wretched animal bodies they continue to rotate within this fearful samsara”.
「肉体(粗大体)への愛のために、彼らは永遠の最高の主である「あなた」を忘れて、それによって自分の命を取るに等しい惨めな動物の体に落ちる。惨めな獣の体になって、この恐ろしい輪廻を回り続ける」。
Considering their body to be everything, such people stoop towards developing animal tendencies and thus are falling into wretched wombs due to which are stuck in this fearful samsara.
このような人々は、自分の身体がすべてだと考え、動物的な傾向を身につけることに身を投じ、そのために惨めな子宮に落ち、この恐ろしい輪廻の中に閉じこめられています。
Forgetting the inner Self is real Self-abuse. It is nothing but suicide (atma-hatya). As such, those who forget their inner Self accumulate as much sin as committing suicide. Overwhelmed by problems, there are many who forget the Lord. Exiting from problems is their sole focus in life. Despite being submerged in innumerable difficulties, despite being tormented by various bodily pains no one has the right to forget the Lord. Nevertheless, the tendency of pain and ignorance is to cause the person to forget the Lord. illusion, which has put a veil upon us, ensures that we forget God.
内なる自己を忘れることは、まさに自己虐待です。それは自殺行為に他なりません(アートマ ・ハティヤ)。ですから、内なる自己を忘れた人は、自殺するのと同じくらい罪を積み重ねます。問題に圧倒されて、主を忘れてしまう人がたくさんいます。問題から逃れることだけが、彼らの人生の焦点です。数え切れないほどの困難の中にあっても、さまざまな体の痛みに苦しめられても、誰も主を忘れる権利はありません。主を忘れる資格はない。しかし、苦痛と無知は、その人が主を忘れるように仕向ける傾向があります。私たちにベールをかけている幻想は、私たちが神を忘れるように仕向けます。
“Understanding the Lord is equivalent to knowing one’s own Self, as God and Self are synonymous”.
「神と真我は同義であるため、主を理解することは自己を理解することに等しい」。
This understanding has to be deeply ingrained in the mind. ‘I am the Self. I have taken on this body which I can drop at any moment. As such this bodily pain does not belong to me’. We have heard stories of many Mahatmas who, even on the operation table withstand the pain due to their firm belief that they are not their body. The person who focuses upon the body considering himself to be the body will undoubtedly suffer enormously. The person who firmly believes that he will also be leaving the pain behind when he leaves the body will remain unconcerned even when the body is sliced into many pieces.
このことをよく理解し、心に深く刻み込まれなければなりません。「私は自己である。私は、いつでも捨てることができるこの体を身につけました。ですから、この体の痛みは私のものではありません」。私たちは、多くの偉大なる聖仙(マハトマー)が、手術台の上でさえ、自分は自分の体ではないという確固たる信念のために、痛みに耐えているという話を聞いてきました。自分が肉体であると考え、肉体に焦点を当てている人は、間違いなく非常に苦しむでしょう。自分が肉体だと思い込んでいる人は、間違いなく大変な苦痛を味わうことになる。
“There are many who, even after having obtained a human birth, do not focus upon Self-enquiry”,
「人間に生まれてきても、真我の探求に集中しない人が多い。」
Every human birth is a chance to pursue Self-enquiry. The Lord gives many such chances, sadly, due to ignorance people misuse all those chances. Sunk into materialistic worries and agonies, they choose to ignore God and His existence. Externally they appear to be pursuing Self-enquiry nevertheless, their mind is still focussed upon the worldly dealings.
人間としての誕生はすべて、自己探求を追求するチャンスなのです。主はそのような機会をたくさん与えてくださいますが、悲しいことに、無知なために人々はその機会をすべて誤って使ってしまいます。物質的な悩みや苦しみに没頭し、神と神の存在を無視することを選択します。外見上は自己探求をしているように見えるが、彼らの心はまだ世俗的な取引や交流に集中しています。
They refuse to travel towards the Self. This is the outcome of their extreme attachment to their body and their surroundings.
彼らは、真我へと向かう旅を拒否しているのです。これは、自分の身体と周囲の環境に極度に執着した結果です。
Narayana Krishna
ナーラヤナ・クリシュナ
GUPTA, Ravi M. and Kenneth R. VALPEY, eds. (2013) The Bhagavata Purana: Sacred Text and Living Tradition. Columbia University Press. New York, NY, USA.
GUPTA, Ravi M. and Kenneth R. VALPEY (2017) The Bhagavata Purana: Selected Readings. Columbia University Press. New York, NY, USA.
SWAMIJI, Sri Ganapathy Sachchidananda. Srimad Bhagavatam. Dattavani. Avadhoota Datta Peetham. Mysore, India.