たとえば、料理の概念とか。
食事は楽しく食べるものだとか。
地球の文化や新しいケムリクサの可能性とか。
教わったものはそれこそ数限りなくあるけれど。
二人で過ごした時間に元気をもらい、新しい視点を得て、世界をより新鮮に見れるようになった。
それがりりからもらった、何より大きなものだった。
すっと霧が晴れたようだった。
緑を発芽させた時、自分がどれだけりりを大事に思っていたか気がついた。
けれどこの感情がどういうものかを定義できずに悩んでいた。
余計なことを気にしすぎて、無意識に心の奥底に押し込めていたらしい。
簡単なことだった。
この答えを告げたら、どんな顔をするだろうか。
望む限りずっとそばにいると約束して、ずいぶんと時が流れた。
あの時手を差し伸べた子供は、美しい少女になった。
昔は弾ける笑顔を浮かべていたのに、今ではドキリとするような憂いを見せるようになった。
もし彼女が、誰か別の人の手を取ると決めたなら、その時僕は笑顔で見送ることができるだろうか。
あの映像を見た瞬間、全てが遅かったことを悟った。
けれど、既に分割は止められない。
これから生まれる子たちに、もう追うことのできない目的を遺すわけにはいかない。
記憶の葉にロックをかけ、橙の記述も塗りつぶす。
代わりに、彼の遺した優しい歌を。
そうして、私は私と、私の想いの息の根を止めた。
この感情を告げてはならない。
そもそも大人が子供に抱いていい感情ではない。
まして、頼るもの、縋るものが自分しかない彼女は拒むことなどできない。
外の世界に出たら、数限りなく魅力的な人に出会うだろう。
後悔させてはいけない。
あの子の未来を閉ざすべきでない。
保護者の仮面を脱いではならない。
神様なんていないと思ってた。
両親が過労死して、そして自分も……。
でもワカバに出会ってからはずっと幸せで、もしかしたら神様はいるのかなと思うようになった。
けれど。
私の過ちでワカバを失ってしまった。
やっぱり、神様なんていない。
だから、神様の助けを待つのではなく、私自身で動くしかない。
今の二人の生活もいいけれど、母星に帰ったら、りりにもっと多くのものを見せられるだろう。
いろんなものを見て、二人で笑えたら。
きっと、当たり前に過ごす僕には気づかなかった新しい見方をするのだろう。
最近、そんなことを現実逃避的に考えている。
疲れているんだろうか。早く仕事を終わらせよう。
実のところ、恋愛というものをよくわかっていない。
昔からケムリクサの研究ばかりで色恋沙汰とは縁がなかったし、周辺もおおむねそうだったので、そうしたことを考える機会もなかった。
だから、この感情がそうであるかはわからない。
ただ一つ言えることは。
何よりも大切に想っている。
それだけだった。
教えて、教わり、笑い合う。
そんな日々が、いつまでも続けばいいと思っていた。
歯車が噛み合わないすれ違いの果てに、壊れてしまったけれど。
それでも、まだ終わっていない。
生還と言い切れるかはわからないけれど、取り戻すことはできるはずだ。
そのために、あの子が遺した姉妹たちと今日も旅をする。
歌っていたら、ワカバが不思議そうな顔をした。
ワカバの母星には音楽がないらしく、地球の人って本当にいろいろ考えるんだねえ、と感心された。
日本語を流暢に話すワカバでも歌詞を聞き取るのは難しいらしく、どういう意味の歌なの?と尋ねられたけど秘密、と答えた。
恋の歌だなんて教えてあげない。
彼女はずっとそこにいた。
最後に気づいてしまった絶望と、辛い世界に遺してしまった分身を、嘆き続けていた。
旅の果てに辿り着いた白衣の青年は慟哭を続ける魂に触れ、優しく語りかけた。
遅くなってごめん、迎えにきたよ。
慟哭を続けた魂は輪郭を取り戻し、穏やかに微笑む青年に遅いよ、と泣きついた。
ワカバに頼むと、そうしやすいようにかがんでくれる。
その胸に耳を寄せると、穏やかで確かな鼓動が耳を打った。
その音は言葉よりも何よりも雄弁に、ワカバが生きていることを示してくれる。
再会してからずっと、日課のように繰り返す確認の儀式。
大丈夫、僕は生きてるよと言うように頭を撫でられた。
(関連)
本当は最初に報告すべきだったのだろう。
存在を知られていけないとしても、あれは完全な事故だった。
だから最初に報告しておけば、きっと何事もなく終わった。
けれど、僕の無意識はやりたい事と現実の差に倦んでいた。
そこにあの子が現れたことで、色々な変化が生まれた。
そう、手を離せなかったのは。
何気なさを装って、独身なのか尋ねたら「こんな冴えないケムリクサアホがいいなんて人いないよ」とワカバは苦笑した。
たしかにちょっともっさりはしてるけど、こんなに素敵な人はいないのに。
でも、本当にみんなが気づいてないなら好都合。
気づかない人は気づかないままで。
ライバルは少ない方がいい。
いやほんと、まさか自分と顔も性質もよく似た人間があんな台詞を吐くなんて。
それもあの子の面影を強く宿した少女に。
とても複雑だ。
もしりりが年頃の少女だったら、その時は…あんな台詞はとても言えやしないけど。
そんな仮定をする時点で、既に深みに嵌まっているなんて、聞くまでもないことだった。
「駄目だったら、好きなことして楽しく生きて」
最後に残された言葉は、なんて優しく、残酷なものだったか。
私が何より、誰よりも好きなものは。
それをなくして、どうして楽しく生きられるものか。
だから私は、取り戻すための戦いを始める。
私を守ろうとしたワカバが、それを望んでいないのだとしても。
事故とはいえ、現地人を転写してしまった上に、報告もしていない。
多分、いや確実に怒られる。
その後で、とても面倒な手続きを踏まなければならないだろう。
けれど、放っておけるわけもないし、手放し難かった。
だからせめて、少しでも相手方の心証を良くするために、仕事はきちんと完成させなければ。
これは夢だということはわかっている。
だから、夢の中の景色にワカバを立たせることにした。
地球に降りたらどんな顔をするだろうか。
好奇心に満ちた顔だろうか。
けれどその姿はやがて、最後に見た、倒れ伏して背からミドリを発芽させた姿に変わる。
形をなくした私には、もう夢を見ることしかできない。
これは夢だということはわかっている。
形をなくした私には、もう夢を見ることしかできない。
だから、その景色にワカバを立たせることにした。
穏やかに笑う姿はやがて、最後に見た、倒れ伏して背からミドリを発芽させた姿に変わる。
記憶の繰り返し。
けれど、誰かに触れられた瞬間、私は形を取り戻した。
友人が文化財保存の仕事から帰ってきた。
それはいい。
地球人の少女を転写し、騒動の果てに連れ帰ってきた。
それもいい。
だが、並んで座っているだけなのに流れている空気がやけに甘いのは何だ。
それでも、少女の頭を撫でる友人は見たこともないくらい幸福そうな笑顔で、もはや何か言う気もなくなった。
赤い傘とテーブルは、変わらずそこにあった。
りりは先に傘の中に入って振り返ると、ワカバに笑顔を向けた。
「おかえり、ワカバ!」
その笑顔に、彼はやっと戻ってこれたことを実感した。
「ただいま、りり」
すれ違いの悲劇がようやく終わり、かつて別れ別れになった二つの影が、傘の下で一つになった。
青年を追うため、少女は細い希望の糸を辿ろうとしたが、最後の最後でその糸が既に断ち切られていたことに気づいてしまった。
少女はそのまま消えていくしかなく、何も知らぬ姉妹たちが遺された。
けれど、姉妹たちは糸の欠片を拾い、少しずつ繋げていき、やがて赤い木をも越えて青年に届き、少女に還る。
僕の胸に耳を当て、りりの不安げな顔が少し穏やかになる。
再会してからずっと、彼女は僕の心音を確かめに来る。
その度に、僕の未熟が彼女の心に消えない傷を刻んでしまったことを思い知らされ、心が痛む。
少しでも安心するよう頭を撫でる。
いつか彼女の傷が癒えるまで、このやり取りを繰り返すだろう。
ワカバが何か言ったけど意味がわからなかったので聞き返すと、少しはっとした顔になって「うっかり母語で話してたね」と謝られた。
言葉の意味を尋ねたら「りりが大人になったら教えるよ」と言われた。
また子ども扱いして、とも思ったけれど、ずっと一緒にいるつもりでいてくれたことが嬉しくなった。
姉妹たちを初めて見た時、なぜここに自分たち以外の存在がいるのだろうか、と驚いた。
そして、彼女たちの口からあれからの顛末を聞いた。
僕の行動が、りりに壮絶な手段をとらせてしまっていた。
そうさせてしまうほどに、りりに想われていたことを、僕は初めて知った。
…今からでも、間に合うだろうか。
「りり」
もう聞くはずがないと思っていた声が聞こえた。
信じられない想いで振り返る。
「遅くなってごめん」
ここまでに大変な思いをしたはずなのに、そんな様子を見せずにワカバは笑う。
その笑顔と、しがみつく私を優しく受け止めてくれた腕に、ワカバがどれだけ大切に想ってくれていたのか、理解した。
ワカバの胸に痕をつけようとしたけれどなかなか上手くいかない。
ワカバはくすぐったそうに笑った。
「吸い上げる力が必要なんだよ」と言うが早いか、私の首元に顔を寄せ、唇を押し付ける。
強く、長く吸われ、離された後には刻印めいた痕が残された。
襟で隠れる位置とわかってても、気になって仕方ない。
煙草の匂いがする。
どこから、と思ってあたりの匂いを嗅いでいたら、自分の服からだった。
この間、ワカバを待っているうちにうたた寝してしまい、気が付けば白衣を掛けられていた、ということがあった。
その時に移っていたのだろうか。
煙草は苦手だけれど、ワカバに包まれているようでドキドキした。
早く大人になりたかった。
大人だったら、ワカバを手伝えたし、あんなにふらつくほど疲れさせることもなかった。
こんな、守られるだけで何もできないなんてことも。
だから私は、ケムリクサを使って大人になる。
ワカバを助けるために。
…もし、大人なら、ワカバはそういう対象として見てくれるだろうか。
あの、ミドリを発芽させて絶命するまでの間。
その時初めて、自分がどれだけりりを大事に想っていたのか気づいた。
転写でかろうじて命を繋いでからもずっと、頭を離れない。
未知への好奇心か、庇護欲か、友愛か。
そのいずれでもあり、どれとも違う感情。
僕は未だ、その感情に名前をつけられずにいる。
ワカバさんは死の淵で初めて、自分がりりさんをどれだけ大切に想っていたかに気づいた、という。
けれど、今も抱いている感情に名前がつけられない、らしい。
答えを出すのに時間がかかるのかもしれない。
けれど。
僕が初めてご姉妹を見た時の輝き。
そして、あの行動や、見つめる時のその目を見ていれば。
ワカバの骨ばった手が私の身体をなぞっていく。
愛情深く口づけられ、手で、口で、刺激を与えられて、内側から熱を帯びてくる。
なのに、決定的なものは与えてくれない。
たまらない気分でワカバを見つめる。
「どうしてほしいかはわかっているけど、りりの口から聞きたいんだ」
と欲に濡れた目で笑った。
昨夜、あまりにりりが可愛かったので、つい少し悪戯してしまった。
やりすぎてしまったのか、今朝「ワカバの馬鹿…っ!」と怒られてしまった。
「ごめんごめん」と謝ったけど、ご機嫌斜めなのか肌掛けから顔を出してくれない。
弱っていると、肌掛けから顔を覗かせたりりが僕を見、頬を染めて口を開いた。
休眠と覚醒の間、何もかもがぼやけた世界の中、近くに温もりを感じて引き寄せた。
そのまま懐に抱え込むと、柔らかい温もりに、一度覚醒しかけた頭がまた眠りに落ちていく。
そのままぐっすり眠った。
目を覚ますと、どうもりりを抱き込んでしまっていたらしく、何度も頭をぶつけられ、怒られてしまった。
りりが僕の膝で眠り込んだ。
そのままにしていたけれど、ヌシッチから作業トラブルの連絡が入る。
そっと降ろそうとするけれど、白衣の袖を握られていた。
無理に離せば起きてしまいそうだった。
…仕方ない。
慎重に白衣を脱いでりりに掛け、作業に出かける。
安らかな夢を見ていればいいな、と思いながら。
ずっと、足りないという思いがある。
絶命するまでの長いようで短い間や、りりが遺した姉妹たちと旅している、今この瞬間も。
ずっと、一人でも平気だったはずなのに。
けれど、あの日々は楽しく、かけがえのない時間だった。
取り戻した時、彼女はどんな顔をするだろうか。
そして、僕は何を言うだろうか。
足を前に踏み出す。
ここで終わるつもりはないし、取れるだけの方法は取るけど、あまりに不確実なことが多く、必ず帰れるとは限らない。
残された時間は短い。
だから、これだけは伝えておきたいということを言い残す。
最後に、離れるりりに向けて精一杯笑いかけた。
僕はちゃんと、笑えていただろうか?
唇を重ねられる。それが少しずつ深くなり、ミドリの香りが混じる。
苦手だった煙草めいた匂いは、もうワカバの記憶と深く結びついて、それだけで、胸の奥が疼くようになった。
いとおしむような少し硬い指先が触れる度、触れられた場所が熱を帯びていく。
もっとワカバを感じたくて、背中に腕を回した。
ふと気がつくと、地面に寝転がっていた。
傍らにはりりも眠っている。
あまりに気持ちよさそうに眠っているので、そのままにしておいた。
しばらくしてりりが目を開けたけれど、半覚醒のようで、口の中で何事かを呟きながら目をこすっていた。
その様子が余りに微笑ましくて思わず「可愛いなあ」と笑った。
りりが寂しい思いをしていることはわかっていた。
その寂しさを埋めたいと思っていたし、もっとゆっくり話していたかった。
だから、早く仕事を終わらせようと無理をしてしまった。
そのせいで疲労が溜まり、仕事の精度が落ち、逆にりりと過ごす時間が減ってしまう。
そんな悪循環にも気づいていなかった。
りりの唇に己のそれを重ねる。
この想いを自覚してからずっと、こうしたいと思っていた。
そして枷が外れた今、その柔らかさ、甘やかさに自分を抑えることができず、舌を絡め、深く深く貪ってしまう。
優しくできないかもしれない、と告げるとりりは少し震えながら、それでも小さな声でいいよ、と囁いた。
この傘の下で寛ぐのも久しぶりだった。
キラキラした笑顔のりりを見ながら思う。
この船は作業場で、仕事が終われば母星に帰ることになる。
終の住処ではない。
けれど、ミドリを発芽させ絶命する瞬間、帰ろうと思ったのは故郷でも研究室でもなく、この傘の下だった。
その意味を、理解していいのだろうか。
りりが僕の心音を確かめることを習慣にしてから、何年経っただろう。
少女になった彼女はもう子どもとは呼べない。
けれど、まだ大人とも言えない微妙な年頃だ。
僕の胸に耳を寄せる彼女の肩に手を回し、そのまま抱きしめる誘惑に駆られる。
けれどそれは、許されない。
触れそうになる手を押しとどめた。
ベンチの上でうとうとしていた私に、ワカバが膝を貸してくれた。
優しい手が私の頭を撫でる。
子守唄の代わりに、ケムリクサや星の話をゆっくりと語ってくれた。
穏やかな声が、手と膝の温もりが私を眠りの世界に導いていく。
「ゆっくりおやすみ、りり」
悪夢の付け入る隙もなく、私はぐっすりと眠った。
あの頃は、世界が眩しく輝いていた。
ケムリクサを学び、友と笑い合った日々。
望みと違う仕事で味気ない生活を送るうち、そんな日々は遠く霞んでいった。
けれど、りりがやってきてから変わった。
彼女と交流し、教え、教わりあう日々。
そのうちに、かつてのように、あるいはそれ以上に世界が輝きだした。
日常となった確認の儀式。
りりはワカバの胸に耳を当て、その鼓動を確かめる。
成長した彼女の身体は柔らかく、理性と衝動がせめぎ合っていた。
ワカバの手が、りりの肩に回る。
「これ以上いけない」とワカバは呟いた。
それは理性の断末魔の叫びだった。そのまま抱きすくめ、口づける。
抵抗は…なかった。
りりから好意を向けられている、とは思う。
けれどそれは、大人への憧れといったもので、年齢による知識の非対称性の魔法とかそうした上乗せが効いているからで、時間が経てば効果はなくなる。
その時には、彼女にふさわしい人を見つけるだろう。
そう考えていないと、僕まで勘違いしそうになってしまう。
「いいんだね?」
答えを知りながら尋ねる。
果たしてりりは頬を染めながら頷いた。
卑怯者め、と自分を罵る。
すがるものが僕以外いない彼女に、拒む術はないことはわかっていた。
けれど、どうしようもなく募らせた想いは止められなかった。
心の中でりりに謝りながら、その滑らかな頬に触れ、唇を重ねた。
緑を発芽させて絶命するまでの間、大切に想っていたことに気付いた。
転写後、その感情に名前をつけられず悩んでいた。
再会した時にやっと理解できたけれど、告げてしまうには早かった。
そして時が経った今、ようやく言える。
「僕と生きてくれる?」
美しく成長した彼女が、あの頃のような表情で頷いた。
ワカバの膝枕は、少し硬いけれど温かい。
だから本当は目は覚めているけれど、もう少しこうしていたくて眠っているふりをしていた。
不意に、ワカバが何かを言った。
全く意味の解らない、けれど、穏やかで優しい響きの言葉だった。
「意味は大人になってから教えるよ」
どこか楽しげに笑った気配がした。