ミドリさんの根とは、もうずいぶん長い付き合いとなる。
最初は、この根でりんさんに繋がれていた。もう引っ張られることもなくなり、結び直されることもないけれど、りんさんに結んでもらったものだから、捨てずに持っている。
もしかしたら、今もこの根の先にりんさんの手を感じているのかもしれない。
わかばがまた橙を読んで夜更かしをしていた。
眠らせたいが、どうすれば。
妙案が浮かんだ。
わかばの手から橙を奪い取り、橙を抱きしめた状態でわかばの膝に頭を乗せた。
これで、橙を読むこともどこかに行くこともない。
これで安心と眠ったが、わかばが寝れなかったことに気づいたのは翌朝だった。
木は操作も受け付けず、緑も使い切ってしまった。
青も手持ちの1枚が最後だ。
この状態で、何ができる。
……一つだけ、ある。
目の前に壁を展開する。
これで、りんさんは助かる。
ただ眼前の死を先延ばしにするだけだとしても、死んでほしくなかった。
薄れゆく意識の中、りんさんの無事を確認し、笑った。
これは、あらかじめ定められた道なのか。
りょうから記憶の葉を受け継ぎ、毒を得て、惹かれていく。
いいや、そうではない。
たとえこの感情の起点が、記憶の葉の、りりの影響だったとしても。
今、わかばに対して抱いてる感情は、わかばから受ける愛情は、自分だけのものだ。
定められた道なんかじゃない。
もし記憶の葉がロックされていなかったら。
橙が消されていなかったら。
私たちは遺志を遂行するためだけに動いていただろう。
彼に出会っても、りりの大切な人、と感情が伴わずに終わっていたかもしれない。
好きに生きる以外何も残されなかったから、それぞれの「好き」を探すことができた。
私と、わかばも。
今日も橙を読みふける。
お前はいつもこれだなと言われても、知を求める試みは楽しい。
不意に、背中に何かが触れる感触を覚えた。
何か、なんで振り向かなくてもわかる。
目にも耳にも依らない合図。
僕は、また長いこと放ってしまったらしい。
橙を閉じ、おそらくすねているであろうその人に向きあった。
「持ち物には名前を書きましょう」
文字の練習中、ようやく読めるようになってきた教科書に書いてあった。
大体のものはみんなの共有物であり、自分の持ち物は多くない。
自分の物、あるいはそうしたいものは。
目の前で橙を読みふけっている背中を見る。
その背中に、不器用に、自分の名前を書いた。
たとえば、夜ふと目を覚ました時に、まだ起きていたら心配になるし、きちんと眠っていたら安心してしまうとか。
たとえば、新しい何かを見つけた時にそのもっさりした頭を探してしまうとか。
たとえば、二人で同じものを見て視点を共有するとか。
そんなことで、こんなに心が揺れ動いてしまうなんて。
「回収して、安全なところに戻ろう」
引き結ばれた唇は、無念さを示していた。
きっと、本当は安心な暮らしを諦めきれていない。
それでも、道のりの過酷さとご姉妹の危険を考えて諦めようとしている。
気持ちを押し殺して。だから尋ねる。
「りんさんは、どうしたいですか」
僕もそれを、諦めきれていない。
ワカバさんと二人、今日の分のケムリクサの作業を終えて帰ってきたら、りんさんとりりさんが話しこんでいた。
とても楽しそうに話していたかと思うと、時々寂しそうな顔になったりする。
気になって、思わず「何の話をですか?」と尋ねると二人は口を揃えた。
「「わかば(ワカバ)のことだ(よ)!」」
あいつは脆いし弱い。
妙なことに気をとられてすぐ立ち止まるし、その割に臆病で、何かあればビクビクとしている。
それなのに、私たちに何かがあれば、体を張って前に出ることすらある。
私が前に進めない時は、底抜けの明るさで励まし、背中を押してくる。
結局のところ、毒を抜きにしても、あいつには。
休眠と覚醒の間、何もかもがぼやけた世界の中、近くに温もりを感じて身を寄せた。
ひどく柔らかな感触に包まれる。
漂う香りは甘く、奇妙に心をうずかせた。
多幸感とともにそれに顔をすりよせている内に、遠くから声が聞こえた。
「りんねぇね、わかばまだ起きないナ?」
瞬間、曖昧だった意識が覚醒した。
私たちは助け合って生きているから、いつでも二人でいるわけではない。
姉さんと新しいミドリの育成について早口で話し合っていたり。
りなたちと遊んでいるのか遊ばれているのかわからなくなっていたり。
けれど夜、ダイダイを閉じ、私に向き直った後。
ただ、今この時だけは。
私一人だけのわかばになる。
「おかしなことをしたら、すぐに赤霧に叩き込んで処理するからな」
蔦の先を握りながらりんさんが目を光らせている。
今まで過酷な状況を乗り越えてきたのだろうから、当然の判断だとは思う。
僕に害意はないけれど、その証明はそう簡単にできるものではない。
だから少しずつ、示していくしかないだろう。
はじめは、不審な赤虫としてミドリさんの蔦で縛られ、りんさんの手に繋がれた。
少し警戒が解け、蔦で引かれることもなくなり、ちょっとずつ距離が近づいた。
やがて、隣に立ち、目を合わせて話せるようになった。
その背を預け、記憶の葉に触れさせてもらえるようになった。
そして今、距離はゼロになる。
珍しく、私たちが起きてもわかばはまだ眠っていた。
静かな寝顔を眺めていたら、少しの身じろぎの後、何故か私にくっついてきた。
そのまま、甘えるように顔をすり寄せられる。
胸がドクドクする。
動けない。
その頭に手を添え、逡巡し……
「りんねぇね、わかばまだ起きないナ?」
瞬間、手を引っ込めた。
ただ喪い続ける世界の中で、彼女はなんとか手にあるものを守ろうとしていた。
守ろうとしていた姉妹たちの半数はいなくなり、好奇心に輝いていた目は、少しずつ先への恐怖と諦念に染まっていく。
進むことを止め、はじまりの場所で最期を待つばかりであった彼女とその姉妹たちの元に、彼は水から現れた。
世界がひどく眩しい。
船の外は光に溢れ、豊かな水を湛えた大地が広がっていた。
喪いつづけた世界から解放され、感極まった彼女に心からの喜びを覚えた。
けれどこれで終わりではない。
一つの終わりの先には、新しいはじまりがある。
微笑んで自らの「好き」を告げた彼女に応えるべく、彼は口を開いた。
痛いのは嫌だし、死にたくもない。
生きることが大好きだし、今死ねばりんさんを悲しませてしまう。
もうあんな顔はさせたくない。
でも、またあんな状況に置かれたなら。
きっと、またやってしまうだろう。
悲しませることがわかっていても。
だから、そんな選択肢にならないよう、知恵を働かせるしかない。
りんさんがりなさんの手を引いている。
「好き」を告げられた後も、四六時中僕といるわけではない。
りんさんの姉妹想いは変わらないしそれでいいと思う。
けれど夜、りつさんたちが眠った後も、りんさんは起きて僕を待っている。
僕はダイダイを閉じて向き合う。
…りんさんが寝不足にならないといいけど。
水の入れ物に体を浸ける。
こんな贅沢な使い方ができるようになるなんて、あの頃は思わなかった。
入れ物から上がると、わかばが驚くような、目が離せないような顔でこちらを見ていた。
いつかの逆のような構図に、つい笑みがこぼれる。
わかばは微笑んで手を差し出し、私は避けることなくその手を取った。
本体の葉にわかばの手が触れる。
いつもあまりに触れてくるので、お前は私の葉が目当てなのかと思わず言ってしまった。
「僕は葉も含めてりんさんが好きなんです」
りんさんの葉だから触れたいんです。
思い返し、姉さんやりなの葉には興味を持てど触れようとしなかったことを思い出し、強い毒に侵された。
椅子が2つあるテーブルを見つけた。
その上には大きな赤い和傘が立てられている。
「座って休むのにいいな」
「これは屋根の代わりなんでしょうか。
昔の人たちはどう使っていたんだろう。
めっさ気になる~」
テーブルにかけ、片方は傘を見上げながら、もう片方は相手を見ながら、静かな休息を取っていた。
赤い傘とテーブルは、変わらずそこにあった。
以前何気なく座った場所が、記憶の葉に触れた今は全く違って見える。
かつてあの二人がいた場所。形を変えて、二人は…いや。
私たちはあの二人ではない。
けれど、また二人で傘の下同じ時を過ごすことに、意味はあると思う。
やってきたわかばを笑顔で迎えた。
胸元に橙を乗せたまま、わかばが眠っていた。
橙にはりりやりょくが残した文字が書かれている。
文字が読めるようになれば、その心を知ることができるだろうか。
少しはわかばと同じ視点を共有できるだろうか。
昔は、興味を抱く余裕はなかった。
けれど、今なら。
もし教えてほしいと言えば、喜ぶだろうか。
わかばとワカバが何やら話し込んでいる。
双方とても早口なので何の話をしているかわからないが、とても楽しそうに、幸せそうに話しているからケムリクサのことだろう。
などと思っていたら、隣でりりが顔を赤らめている。
一体何が、と尋ねようとしたら、わかばがまた話し始めた。
「それで、りんさんが」
わかばが何かを言った。
音はどうにか聞き取れたが、意味が全くわからない。
どうやら無意識だったらしく、尋ね返しても何もわからなかった。
もしやと思って大元に確認すると、聞き取った言葉を正確な発音で確認してくる。
「…それを、言ったの?本当に?」
一体何を。
大元が赤面しているのが答えなのか。
あの日生まれた毒は、際限なく増殖して私の全身を満たしていった。
それは「好き」という言葉として溢れ出し、答えをもらっても留まることを知らない。
どこまで膨れ上がるのか、どうすれば収まるかもわからない。
今、わかばの腕の中で、致死的な毒が身を満たしていく。
はたしてこの毒に限界はあるのか。
僕たちは互いに約束をした。
悩み事を一人で抱え込まないこと。
一人で不用意に先へ進まないこと。
無茶をしないこと。
この件については、お前は無茶をするからと本当に信用がない。
けれど僕はりんさんの方が心配だ。
そして、互いが「好き」である限りずっと一緒だということ。
多分これは、一生の約束だ。
ふと気づけば、進む時にあいつの意見も取り入れるようになっていた。
戦闘の時、防御や指示によるカバーを自然に受け入れるようになった。
あいつが来てから顔が柔らかくなったと姉さんに言われた。
けれど、あいつは薬ではなくやはり毒だ。
その証拠に、記憶の葉を外しても毒が回るようになってしまった。
空から水の降ることを昔の人は悪天候と呼んでいたらしい。
けれど水のみで生きる私たちにとっては、踊り出したくなるほどの恵みだ。
わかばはあまり濡れると体調を崩すようなので、私たちも外に出ることなく過ごす。
わかばと肩を寄せ合って降る水を見るのは、静かで貴重な時間だった。
私は空に感謝した。
「お前は私の葉が目当てなのか」
いつもあまりに触るせいか、拗ねたような顔で尋ねられてしまった。 たしかに僕はアホとかマニアとか言われるほどにケムリクサが好きだけど、ケムリクサだから触れたいのではない。
本体の葉の光はりんさんそのもののようで、触れずにはいられなくなってしまうだけなのだ。
する、とマフラーがほどかれる。
目を離せずにいたら「あまり見るな」と言われ、目を瞑らされた。
けれど、そうすると吐息や衣擦れの音とか、芳しい香りだとか、視覚以外の情報を鮮やかに感じてしまい、よけいに落ち着かない気分になる。
結局、目を開けていてもいなくても、どきどきするのは変わらない。
僕の手の中のミドリさんの根を見て、りんさんはまだ持っているんだなと微笑む。
この根には幾度となく助けられた。
道行きでも、赤い木との決戦でも…。
もう結ぶこともできないほど短くなったけれど、捨てられるはずもない。
根をポケットに入れ、りんさんの手を取った。
これからもずっと、てばなさない。
昼と違い、夜のキイロは眺めるのにちょうどいい。
「また、丸くなってきたな」
「周期性があるんでしょうか。気になるな~」
船の中とも違う柔らかい光に照らされ、互いに常とは違う様子に見える。
けれど、側にある体温は変わらない。
空のキイロを飽かず眺めながら、沈み出すまで何でもない話をしていた。
暗がりで淡く光る赤紫、浮かび上がる白い柔肌。
漏れる吐息や嬌声。
汗の入り混じった官能を揺さぶる香り。
そして全身に感じる熱…。
五感全てで彼女を感じ取っている時は、理性をかき乱す快楽とともに、激しい愛しさが胸裡を駆け巡る。
口づけの下で、ただひたすらに彼女の名と、好きの言葉を繰り返した。
りんが毒と呼んでるもの。
それはきっと、私たちがそれぞれ見つけて、りんがまだ見つけられずにいるもの。
毒と思い込んでいて、気づかずにいるけど、きちんと自分で答えを見いだしてほしい。
手遅れになる前に。
だから、少しだけヒントを示そう。
「わかば君は毒というより薬だったのかもしれないニャ」
彼は、自分の命と引き換えにしてでも彼女を守ろうとした。
最後の一枚を自らを守るためでなく、赤い木から彼女を守るために強固な壁を張った。
しかし、赤い木が彼女に手出しできなくなる一方で、彼女からも手出しができなくなってしまう。
皮肉にも、守らんとする意志が動きを阻む障壁となってしまった。
きっかけは記憶の葉だったかもしれない。
けれど、同じ時を過ごすうち、この感情は他の誰でもない、私自身の「好き」になっていった。
好奇心旺盛なところも、他者を気遣う心も、短所と紙一重の守るために前に出る勇気も…どこがではなく、多分その存在全てを。
たとえ、どんな出会い方をしても、きっと。
あの時以来の衝動だった。
あれから何度か肌を合わせることはあったが、これほどまでに耐えがたいほどの情欲が沸き起こることはなかった。
わかばは衝動に抗わず、りんを引き寄せる。
事態を察したりんは返事の代わりに、その背中に腕を回した。
この前みたいに、明日動けなくなったりしなければいいけど。
好きなものはたくさんある。
ケムリクサはもちろん、新しく何かを知ることも好きだ。
未知のものがたくさんあるこの世界は、輝きに満ちている。
そして言うまでもなく、一緒に暮らしているご姉妹も好きだ。
けれど、りんさんへの「好き」という言葉でも足りないほどの、この想いは何と呼ぶべきものなのか。
りんねぇねはやっと自分の「好き」を自覚した。
船に出てからは前みたいに探検を楽しむようになったけど、わかばと手をつないで一緒に行くことが多くなったし、そうじゃなくても何かを見つけたらすぐに見せに行くようになった。
夜遅くに二人で何かやってるみたいだし、多分これバカップルってやつだナ!
目の前でわかばとりりの姉妹の一人が歩いている。
当然のように手をつなぎ、同じものを見て笑い合っている。
流れている空気が甘い。
自分と同じ顔がひどく幸せそうに笑っている。
まして、彼が愛を囁く相手が、あの子を成長させたような姿の少女である。
…色々な意味で複雑な気分になるので、本当に困る。
わかばの手がりんの身体をなぞり、官能の火を灯していく。
彼のきめ細かな愛撫によって刺激され、快感を高められながらも、決定的なものは与えられない。
身体が奥底から疼き、満たされたい、欲しいという渇望が強くなっていく。
もう耐えきれない。
大きく息を吸い、わかばを求める言葉が口をついて出た。
強靭な肉体と卓越した身体能力を合せ持つ彼女は強い。
同時に、彼女は愛情深い。
姉妹に心を砕き、脅かすものに対して容赦なくその力を振るってきた。
そんな彼女の前に、彼は現れた。
彼女に寄り添い、その身を、心を守った。
彼女は最愛の存在を得た。
彼が傷を負えば、身を捨てて駆けだしてしまうだろう。
水から這い出して初めて見たものは、薄闇の中で輝いて見えるご姉妹だった。
僕の記憶はそこから始まる。
そこからいろいろなことがあった。
中でもりんさんに対してはどうにも他と違う感情がある。
この感情に答えを出す日が来るかはわからないけれど、僕はきっと、息が絶えるまであの人と共にあるだろう。
りんさんがマフラーをほどき、少し潤んだ目で僕を見た。
胸の本体の葉も淡く光り、触れられることを待っているように見える。
思わず、唾を飲み込んでしまう。
これは、そういうことだろうか。
頭の中がものすごい勢いで空回りを始める。
けれど、考えるだけでは答えは出ない。
手を伸ばし、触れて確かめた。
りんさんの顔に顔を近づける。
鼻先が触れ、唇が重なる。
触れるだけの口づけは深くなり、やがて舌先が触れ合うまでになった。
衝動のままに舌をついばみ、絡め合う。
唇を離すと、惜しむように透明な糸が繋がっていた。
どちらともなく、再び唇を重ねる。
呼吸をするのも惜しむほどに、ひたすらに求めあった。
きっと、始まりは偶然だった。
生き残っていたのが私たちだったことも、彼が生まれたことも。
記憶の葉を持つ私が、毒を受けたのは必然だったのかもしれない。
けれど、私がわかばを「好き」になったこと、わかばが私を選んだことは、きっとそのどちらでもない。
積み重ねた先で、二人で選び取った結末だ。
外に出てから、表情が柔らかくなった。
よく笑うようになったし、好奇心に目を輝かせる姿も見れるようになった。
そして、ふとした時に合う視線や触れたときの熱、僕を呼ぶ時の声の響き、何より本体の葉への許容は、百の言葉よりもあの時の言葉を裏付けている。
だから、僕の全てでその想いに応えていく。