いつから、を考えてみると初めて逢った時からではないかと気づいて、我ながら重症だと笑いそうになる。
初めて抱く感情だとか、倫理だとか、色々な壁があって気づくのに時間がかかってしまった。
今もまだ告げるには早すぎるから、花咲く日を待っていよう。
…でも、これぐらいは言っても許される、かな?
転写に成功してからずっと、最期に抱いた感情を定義できずにいる。
彼ならばわかるだろうかと思って相談した。
彼は、僕の感情そのままにぐるぐるした話を黙って聞いていた。
話し終えると彼は微笑んで言った。
「りりさんのことがとても「好き」なんですね」
…いきなり心臓に悪いことを言わないでほしい。
隣に座るワカバがミドリを深く吸い込んで、吐き出した。
呼気からミドリの残滓を漂わせながら、穏やかに目を閉じている。
身体を調律するために使うというけれど、相変わらず煙草みたいな匂いがする。
だけど、この匂いはすでにワカバと結びついていて、臭いと言いつつもどうにも嫌いになれないでいる。
りりと話すのは楽しい。
僕がケムリクサの話をしても笑顔で聞いてくれるから、つい話に熱が入ってしまう。
「ちょっと、ワカバ、近い近い!」
気がついたら、額をぶつける寸前だった。
ああ、またやってしまった。
話に夢中になる時の悪い癖だった。
「ごめんね」と謝るとりりは「…大丈夫」と許してくれた。
「お前さ、何であの子に応えてやらないんだ」
「…まだ、早すぎるよ」
友人が大きな溜め息をつく。
「そんなこと言ってるうちに、誰かに取られても知らねえぞ」
この先、お前を好きになるなんて奇特な子が他に現れると思うのか。
「いやそもそも、そうなった時諦められるのか?」
容赦ない言葉が胸を抉った。
この想いを告げるには、まだ早い。
年齢差が、とか彼女の将来が、とか言い訳をしながら、寄せられる好意に応えることなくただずっと側にいる。
けれど、もしも彼女が他の誰かの手を取ったら、勝手に失恋した気分になるだろう。
それが嫌ならば、言い訳を捨てて向き合うしかない。
見切りをつけられる前に。
早く大人になりたい。
今のままだと、せいぜい妹ぐらいにしか思ってもらえない。
…だけど、幼いという言い訳を無くしてもなお、そういう対象として見てもらえないとしたら。
それが怖くて、このままでと思ってしまう瞬間もある。
そう考えてしまう時点で、大人になる日はまだまだ遠いのは明らかだった。
ヒトの形をしたものが落ちていた。
これはぬいぐるみというものらしい。
「頭のもじゃもじゃ感がワカバに似てるね。これもらってもいい?」
りりが喜ぶならいいかと頷いた。
仕事を終えて帰ると、りりはあのぬいぐるみを抱きしめて眠っていた。
とても大切そうに、愛おしそうに。
…なんだろう。面白くない。
仕事が終わって帰ると、少し寂しげなりりがヌシッチに話してかけていた。
「もし私が大人だったら、ワカバは見てくれるかな…」
もしもそうなら、周囲が放っておかないだろう。
きっとこんなケムリクサアホなんか目に入らなかったんじゃないかな。
だからそんなもしもに意味はないと口にしかけ、止めた。
お昼寝をしよう、とりりが言った。
地球では昼に地面に転がって休んだりするらしい。
僕が承諾すると、嬉しそうに身を寄せる。
すっぽりと懐に収まってしまう小さな体に保護欲めいたものを刺激され、つい頭を撫でてしまう。
その度に、柔らかくくすぐったい気分になる。
ヌシが来るまでこうしていようか。
あの日もこんなふうだった。
目が覚めたら、ワカバの腕の中で心配そうに見下ろされていた。
「大丈夫?」
優しくかけられた声も同じ。
だけど、関係はあの時とは全然違っている。
誰よりも近くで、その体温を感じられることが嬉しい。
ワカバの手が優しく髪をなぞり、顔が近づいてくる。
そっと目を閉じた。
りりが転写されなかったならば。
激痛の果ての死を迎えることはなかったかもしれない。
けれどそれは、あの笑顔も、胸に満ちる柔らかい感情もない。
ひどく味気ない毎日を繰り返すだけだったろう。
だから、もしもの話なんて意味はない。
それよりも、また会えるという約束を守らないと。
必ず、帰る。必ず…
あんまり可哀想で、思わず抱き締めてしまった。
眠るりりがひどく苦しげな顔でうなされていたから、そうせずにはいられなかった。
なだめるように、ずっと小さな背中を撫でる。
そのうちに、すがりつくように握りしめられた手が緩む。
表情が少し穏やかになっている。
けれど、離そうとは思わなかった。
あんまり可哀想で、思わず抱き締めてしまった。
ひどく苦しげな顔でこらえているから、そうせずにはいられない。
痛みを与えているのは僕だというのに。
なだめるように、ずっと背中を撫でるうちに、すがるように握りしめられた手が緩む。
表情が少し穏やかになっている。
けれど、離そうとは思わなかった。
ウスイロは僕たちにとってありふれた食料だ。
そのまま食べられて必要な栄養が取れる完結した存在だから、手を加えるなんて考えたこともなかった。
料理、というらしい。
りりが教えてくれる地球の文化は興味深い。
帰る度に、次はどんなものを見せてくれるのだろうと、自然と笑顔になってしまうのだった。
諦めろ、と僕の中で誰かが囁いた。
お前はここで死ぬ。転写など上手くいくはずがない、と。
身体に食い込む根が血を啜り、呼吸の度に肺が痛む。
この苦痛が弱気にさせているのだろう。
けれど、絶望している暇などなかった。
命がある間は、帰るための算段を立てなければ。
約束を、果たさなければいけない。
かわいいを擬人化したら、きっとこんな感じだろう。
さっき、りりを起こさないように白衣を脱いでから仕事に戻った。
そして今、りりが僕の白衣を着ている。
袖まくりをしてとても嬉しそうにしていたからつい笑みがこぼれると、気づいたりりが真っ赤になった。
「もー!帰ったならただいまって言ってよ!」
あれは、間違いなく事故の類だった。
生物を転写した事例なんて、今まで全く聞いたことがない。
よほど何らかの条件が揃ってしまったのだろうか。
未だ完全には解明できていないけれど。
けれど、僕も彼女も胸のどこかで孤独を抱えていた。
そうした物が引き合ったのではなかろうかと、柄にもなく時々思う。
「また会えるから、心配しないで…多分、だけど」
僕はきちんと笑えているだろうか。
今からやろうとすることに恐怖がないわけではない。
…けれど。
うっすらと、水から這い出て少し大人になった彼女に出会うビジョンが脳裏に浮かんだ。
だから、こう続ける。
「あと、すごく時間がかかっちゃうかもだけど」
いよいよ、私も最期らしい。
見送る立場だった私が、見送られる側になっている。
私を抱くわかばは涙を浮かべていた。
別離は悲しい。けれど。
「きっと、私たちはまた会える。いつか、水のある場所で」
その姿をうっすらと見たから、怖くはない。
「だから、そんな顔をしないで」
笑って最期を迎えられた。
少年には予感があった。
自分は、水のある場所で何かに出会うのだと。
いつか誰かと約束したような気もする。
新技術の博覧会に出かけた彼は、運命を感じた。
水辺で輝くケムリクサは恋にも似た強さで彼を魅了し、その後の人生を決定する。
少年はケムリクサの研究者になり、水から出てきた運命に出会った。
「私、ワカバがケムリクサの話をしてるの見るの、好き」
そんなことを言われたのは初めてだった。
ケムリクサの話をすると夢中で早口になってしまい、相手の引いた顔に気づいてやめることが常だった。
けれど、りりの顔は本心からそう言っていることがわかる、キラキラした笑顔だった。
…いい子だなあ。